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正義論

ここでは、ロールズ正義論を取り上げる (Rawls 1971)。「正義」という言葉に対して、正義のヒーローのようなものをイメージする人もいるであろうが、ロールズの正義論では公正な分配に関する正義に焦点を当てている。よって、勧善懲悪的な正義の議論ではない点に注意する必要がある。

例えば、2019年のフォーブスの世界長者番付によれば、Amazon.com の創業者であるジェフ・ベゾズの資産は約1,310億ドルと言われている 。さらに、世界の富豪のトップ26名の資産が最も貧しい38億人の総資産額に等しいとも言われており 、こうした一部の人間に対する富の集中を問題視する声もある。一方、こうした現状に対して、ジェフ・ベゾズのような人々は個人の努力によって世界的な富豪になりえたのだから、それ相応の報酬を受け取るべきであり、個人の努力が報われない社会があるとするならばそれこそ不公平な社会である、と主張する人もいるであろう。また、多くの報酬を受け取っている人々はそれだけ重責を担う立場の人々であり、責任に応じた報酬が支払われるのは当然のことである、と考える人もいるかもしれない。

もちろん、ロールズの正義論は単なる平等主義とは違う。つまり、富を均等に人々に分けるべきである、という考えとは一線を画している。ロールズはむしろ、不平等であっても公正な状態があると考えている。ではどのようにすれば公正な状態がもたらされるのであろうか。どの程度の格差であれば、公正な社会が実現できていると言えるのだろうか。この問いに対し、ロールズは二つの仮定を用いている。すなわち、原初状態 (Original position)無知のヴェール (Veil of ignorance)である。

原初状態とは、そこで得られる基礎的な合意が公正であることを保証してくれる、適切な初期状態、を意味する (Rawls 1999: 15)。例えば、人はどの家庭に生まれるかは選択することはできないし、どの人種に生まれるのかも選択できない。ある人は先進国において生を受けるかもしれないし、ある人は紛争地域で産声を上げるかもしれない。つまり、人は生まれながらにして不平等な状態にあり、こうした不平等は価値判断についても影響を及ぼすと考えられる。例えば、金銭的な格差を認める傾向にあるのは、自らがそうした機会に恵まれている国に生まれたからかもしれない。すなわち、人が善悪や正・不正を考える場合、その人が統制できない要素によって影響を受けているかもしれず、そのような状況においては普遍的な道徳法則は導き出せないだろう。それゆえ、ロールズはこうした状況を打破する状態を原初状態として定義した。すなわち、何が正しく、何が不正であるかを判断するための意思決定の基盤を構築したと言ってよいだろう。

問題は、どのようにしてこの原初状態を導くのか、である。ロールズはこれを無知のヴェールという考えによって生み出そうとする。ロールズは、無知のヴェールを「チャンスによって得られる結果や、社会状況の偶発性によって、原則を選ぶ際に有利・不利な立場の人が生まれないよう保証するもの」と述べている (Rawls 1999: 11)。この無知のヴェールを被ると、人は自分が一体何者なのか、どのような能力を持っているのかなどが分からなくなる。すなわち、無知のヴェールを被ると、自分がどの国に生まれたのか、男性なのか女性なのか、裕福な家庭に生まれたのか、長男・長女なのかなど、ありとあらゆる個人の属性に関する情報を獲得できなくなってしまうのである。それゆえ、無知のヴェールを被った状態での合意は、性別や国籍など、あらゆる偶発性によって生じた属性を隠した状態でなされることになる。

例えば、男性の方が女性よりも働く上で高い報酬がもらえる、という原則を考えてみよう。無知のヴェールを被った状態の場合、人々は自分が男性なのか、女性なのか、判断することはできない。そのような状態では、男性に有利な原則への合意は得られないであろう。なぜなら、もしかしたら自分が女性かもしれないからである。ロールズは、この全員が無知のヴェールを被った原初状態において合意される原則こそが、公正さを保証する原則であると考えるのである。

ロールズは、この思考実験を通じて二つの正義の原則を導き出している。一つ目は、「各人は基本的自由に対する平等の権利をもつべきである。その基本的自由は他の人々の同様な自由と両立しうる限りにおいて、最大限広範囲にわたる自由でなければならない」、というものである (Rawls 1999: 53)。これは、自由・平等の原則と呼ばれており、他人に迷惑をかけない限り、個人は自己の自由を最大化でき、社会もそのような各人に平等な自由の権利を保障する仕組みになっていなければならない、ということを意味している (梅津, 2002)。この原則は自由主義の主張と相重なるところがあり、自由が良いことである、ということを前提とした原則と言えるかもしれない。例えば、倫理的利己主義では個人の利益を最大化することを主たる命題とし、それを実現することが望ましいとされていた。よって、この自由・平等の原則だけでは、倫理的利己主義を主張する人々が理想とする社会と正義論の求める社会は同じものと捉えられてしまうだろう。

自由を追求すれば、結果の不平等が生じてしまう。実際、ロールズはこの結果の不平等をある程度認めている。ここで問題となるのは、どの程度の不平等が許容可能なのか、という点である。そこでロールズは第二の原則を提示する。これは、格差原理公正機会均等の原理と呼ばれ、社会的・経済的不平等は、 次の二条件を満たすものでなければならないとされている。その第一の条件が格差原理と呼ばれるものであり、「(社会的・経済的)不平等が最も不遇な立場にある人の期待便益を最大化すること」を求めている (Rawls 1999: 72)。すなわち、格差原理は不平等が許容される場合、それが最も不遇な立場な人にとって何らかのベネフィットをもたらすものでなければならない、と主張するのである。

そして第二の条件が、「公正な機会の均等という条件のもとで、すべての人に開かれている職務や地位に付随するものでしかないこと」である (Rawls 1999: 72)。例えば、一般的に平社員と管理職とでは給与が異なる。しかし、この場合に生じる給与の不平等は第二の条件から認められることになる。なぜなら、給与の差は管理職という職務や地位の違いによって生じるものであり、平社員もまた管理職になれば、同等の給与を受け取る権利を持っている、という意味で公正だと言えるからである。

以上をまとめると、ロールズは無知のヴェールという思考実験によって原初状態を作り出し、そこで人々が満場一致で合意するであろう正義の原則を導き出した。その原則とは、自由・平等の原則及び格差原理と公正機会均等の原理と呼ばれるものである。この結果、社会における人々の自由・平等が尊重されつつも、どの程度の格差であれば社会的に認められるのか、その指針が提示されたと言える。とりわけ、ロールズの主張は格差原理によって社会的弱者への配慮を示すものとなっている。ここは、社会的弱者の権利が軽視される傾向にある功利主義とは大きく異なる点である。

一方、ロールズの正義論もまたある種の批判にさらされている。第一の批判は、正義論が不平等を認めている点にある。アメリカでは、アファーマティブ・アクションなどの少数派を擁護する理論として正義論は用いられてきたが、これが逆差別につながる可能性がある (Sandel 2009)。また、正義の原則を導きだすために用いた無知のヴェールといった思考実験がそもそも現実的にあり得ないという指摘もされている (梅津, 2002)。すなわち、純粋な選択や所有の主体として仮定されている人間は自我が付与されていない状態であるが(負荷なき自我)、現実的に我々は所属するコミュニティによって自我を構成されているのであり、ロールズの主張は道徳的経験に不可欠な人柄、自己の知識、友情などの側面を十分に説明できない (Sandel 1984)。

このようなロールズへの批判はあるものの、ロールズの正義論は自由主義社会における自由と平等、そして格差についての考え方について一石を投じており、現代における規範倫理として一定の評価を得ていると言えるだろう。

References

Rawls, J. (1971). A theory of justice. Cambridge, Mass.: Belknap Press of Harvard University Press.
Rawls, J. (1999). A theory of justice (Rev. ed.). Cambridge, Mass.: Belknap Press of Harvard University Press.
Sandel, M. J. (1984). The procedural republic and the unencumbered self. Political Theory, 12(1), 81-96.
Sandel, M. J. (2009). Justice: What's the right thing to do? New York: Farrar, Straus and Giroux.
梅津光弘 (2002) 「ビジネスの倫理学」丸善出版.

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