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保守の誕生と陰謀論

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今回は保守の誕生と陰謀論について書きたいと思います。


保守の誕生と陰謀論

⬛序章

政治の議論において、保守という言葉は日本でも海外でも非常に頻繁に使用されています。しかし、この保守という立場の起源について真剣に日本国内で議論されたことはこれまでほとんどありませんでした。

日本で保守といえば、日本の自称リベラル派が自民党支持者のことと同義的な意味で用いています。また保守派においても、自民党の支持者の自称保守派の多くが、保守という概念を自由民主党の一つのブランドとして利用しています。日本の保守派の中には当然ながら自民党を支持しない人もいますが、この対立構造の中で保守という概念が利用されています。

老齢のいわゆる保守派やリベラル派の重鎮から、新進気鋭の言論界のニュースターに至るまでが、保守の意味を概ねこの意味の枠内で論じています。

誰も保守の起源やその意味について問わないのが日本の保守論のようですが、それでも中には保守論客の一人だった故・西部邁氏のように、孤立無援に近い形で保守の起源やその意味を問い続けた言論人もいたということは付け加えておく必要はあるでしょう。

最近では、敢えて名前を挙げるまでもありませんが、自民党を支持する保守派は、自由と民主主義、人権思想を金科玉条の概念であるかのように、宗教人が良くみせる自分に酔いしれたかのようなあの表情で、人々にその教えを説いています。

しかし保守の起源を遡ればこのような人たちの考えは、かつてエドマンド・バークが痛烈に批判したフランス革命のジャコバン派の信念そのものです。自称保守派のこのような自己撞着は滑稽なものにも見えますが、一方で日本の保守言論の悲劇と見なすことも可能でしょう。

イギリスの政治家エドマンド・バーク(ホイッグ党)

私たちは一度立ち止まって保守の起源を見つめ直す必要があると私は思います。それでは少しだけ保守の起源というものに触れてみたいと思います。

⬛保守はどのように生まれたのか

保守という思想がいつ生まれたかについては諸説ありますが、その起源はイギリス保守党の起源となるトーリー党に見ることができます。

イギリスでは1680年にロバート・フィルマーが家父長論、王権神授説を主張し、国王の権威を支持しました。1688年に名誉革命がおこり、議会を重視する立憲政治が確立され、トーリー党と対立するホイッグ党が覇権を握るようになりました。

イギリスの政治理論家ロバート・フィルマー

名誉革命時代の初代ハリファクス侯ジョージ・サヴィルは教義主義的な政治を否定し、より実践的にバランスを保つことを重視しました。サヴィルは一方に重心が傾き転覆するのを防止するために反対側で船を安定させるという喩え話で表現しました。

ハリファクス侯ジョージ・サヴィル

また、哲学者のデイヴィッド・ヒュームは人間の理性の限界を示し、合理主義や理想主義に反対しています。

スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒューム

国王と議会、トーリー党とホイッグ党が対立するイギリス政治の生々しい現実の中で、保守思想はやがて一人の政治家の言論によって大きな意味を持つようになりました。

⬛演説の名手エドマンド・バーク

バークは1729年にアイルランドのダブリンで生まれました。父親はイギリス国教会の信徒でしたが、母親はローマ・カトリック教徒でした。このためバークは後にイギリスの宗教論争に巻き込まれることがありました。

大学では討論会クラブを設立したことが知られています。大学卒業後はロンドンに渡り法律の勉強を始めましたが、のちに著作活動に移ります。

1756年の最初の著作『自然社会の擁護』は、バークは実際にはタイトルとは異なり著作の中で自然社会を正当化することはありませんでしたが、教会や三つの政治形態である君主制・貴族制・民主制を批判的かつ風刺的に論じました。

著述家としての名声を得たバークは、その後ウィリアム・ハミルトンやチャールズ・ロッキンガム侯爵の私設秘書となり、政治家としての道に進んでいきます。

のちに自由党・自由民主党となるホイッグ党の政治家となったバークは、アメリカ独立戦争に際して、アメリカの立場を擁護する演説を行い、アメリカの紛争を平和的に解決する決議案を提出しました。この決議案は紛争の激化により可決しませんでしたが、結果的にアメリカ植民地はイギリスからの独立を勝ち取りました。

また、アフリカにおける奴隷貿易に反対し、イギリス東インド会社によるインドの圧制を批判し、ウォーレン・ヘイスティングズ提督の弾劾裁判を起こし、長年に渡り糾弾しました。

『弾劾』(ウォーレン・ヘイスティングス、エドマンド・バーク)
ジェームズ・セイヤーズ作、トーマス・コーネル出版。

保守というと家父長制の印象を持たれる保守派やリベラル派の方が多いと思いますが、バークは当時としてみれば革新的な政治家であり、保守を無条件で家父長制と同一視することは必ずしも正当な評価とは言えないでしょう。

もちろんバークは家父長制を全面的に批判していたわけではなく、のちの『フランス革命の省察』で見られるように、その根幹にはハリファクス侯ジョージ・サヴィルに見られるような船の平衡感覚が重視されていたと考えるのが妥当な判断ではないかと思います。

⬛フランス革命批判

エドマンド・バークが最も重要な政治的役割を果たした出来事はフランス革命を批判したことだと思います。革命を批判的に論じた『フランス革命の省察』はしばしば人々の記憶から忘れ去られることがあり、日本でも戦後長らく顧みられることがありませんでした。

1789年にフランス革命が起こると、当初はその判断を保留していましたが、煽動されたパリの女性たちがヴェルサイユ宮殿を襲撃すると革命批判に転じます。イギリスでもリチャード・プライスらユニテリアン主義者を中心としたロンドン革命協会、憲法知識協会がイギリスでの革命を煽動し始めました。

イギリスの道徳哲学者
リチャード・プライス

プライスはイギリス国民に国民の一員というアイデンティティを捨て、世界市民として行動すべきだと主張し、人間の権利を人類普遍の権利と考えました。バークはこの人間の権利を実体のない抽象的なものとして退け、マグナ・カルタ権利の請願といった自分たちの祖先から受け継いだ財産としての権利こそが重要なのだと主張しました。

また、いま生きている自分たちだけの理屈で物事を判断するのではなく、自分たちの祖先や未来の子孫との間の関係性を重視し、ルソーの社会契約論を批判しました。

バークはかつて『自然社会の擁護』で風刺したように、社会の様々な組織や制度に欠陥があることは理解していましたが、フランス革命に際してはこれらの制度を擁護する立場に立っています。

それは革命のエネルギーによって、国家全体が転覆し破壊されつくしてしまう事を憂慮してのことでもあったと思います。

バスティーユ襲撃やヴェルサイユ襲撃事件の後に、革命はチュイルリー宮殿襲撃に発展し、ジャコバン派による九月虐殺、ロベスピエールによる恐怖政治へと発展していきます。バークの予感は的中し、フランスはこのようにテロリズムによって大混乱に見舞われることになります。

フランスの革命家ロベスピエール

イギリスは『フランス革命の省察』の影響もあり、ウィリアム・ピット政権はフランス革命政府に対する封鎖に舵を切りました。

首相のウィリアム・ピット(トーリー党)

⬛フランス革命と秘密結社

フランス革命は当時から秘密結社との関係を批判されていました。いくつか重要な著作があり、1791年にフランスのジャック=フランソワ・ルフランは『フリーメイソンの力を借りた革命の秘密』を執筆し、1797年に同じくフランスのオーギュスタン・バリュエルが『ジャコバン主義の歴史を描く回想』、1798年にスコットランドのジョン・ロビソンが『陰謀の証明』を執筆しています。

フランスの神父オーギュスタン・バリュエル
イギリスの物理学者ジョン・ロビソン

ほかにもガラール・ド・モンジョワ、ジャック・ド・ラトクネなどの著作にもフランス革命の陰謀に関する記述があると言われています。

注意深く1790年の著作である『フランス革命の省察』を見ると、秘密結社イルミナティ教団に対してバークが警戒していたことが読み解けます。バークは1780年代にドイツで書かれた著作を紹介し、異常な性格をもった秘密結社の陰謀がヨーロッパの数カ国で形成されつつあると指摘しています。

『ネズミの匂いを嗅ぎだす:
あるいは無神論的革命家が真夜中の「計算」に取り乱している』
リチャード・プライスの革命の陰謀を『フランス革命の省察』が暴き出しているというもの

更に1791年の著作『フランスの国情についての考察』の中で、イルミナティ教団とフリーメイソンのメンバーがザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世を唆し、ヨーゼフ2世の廷臣たちが神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世にフリーメイソンの儀式を教えようとしていると記しています。

ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世
ヨーゼフ2世

前裾に手を隠すように入れるポーズはしばしばフリーメイソンであることを示すものと言われていますが、もしこれが正しいとしたならば、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世は実際にそういった肖像画が残っているので、フリーメイソンだったということになります。

バリュエルの『ジャコバン主義の歴史を描く回想録』が出版される前にバークは亡くなっていますが、バリュエルは革命直後にイギリスに亡命することを強いられていたためにバークと接触しています。

バークはバリュエルとのやり取りの中で秘密結社の陰謀論を学んだと思われますが、一方で、既にバーク自身もその陰謀家たちの情報を持っており、バリュエルの理論の正しさを証言できると手紙で書き残しています。

死後に出版された著作『フランス国王弑逆の総裁政府との講和』の中には、ジャコバン派の性的退廃や残虐な教え、更に食人慣行などが指摘されています。これは今日の陰謀論との共通点も多く参考になります。

『フランス侵攻の約束された恐怖、あるいは国王殺しの和平交渉の強制的な理由:
エドマンド・バークの権威を参照』

バークばかりでなく、風刺画家のジェームズ・ギルレイの風刺画の中にもサンキュロットの家族がカニバリズムを行っている様子が描かれています。9月虐殺が行われた後に、『ロンドン・イブニング・メール』はこのように伝えています。

今朝の通りには、昨日虐殺された司祭たちの、むちゃくちゃになった体と頭の光景が広がっていた。何人かが我が家の窓を通り過ぎたが、この人食いの宴に従う大勢の人々は、喜びを表すように合唱を歌っている。

これがイギリスで誇張されて伝えられた話なのか、それとも真実なのかはともかく、フランス革命にはこのような話も伝えられているということを、私たちは知っておく必要があると私は思います。

⬛陰謀論としての保守

保守というのがジャコバン派や秘密結社についての陰謀論として始まったということは日本ではまず言及されませんが、実際に調べてみるとそういった側面があることは否定できないでしょう。

バークはフランスの革命家たちを危険な思想をもった徒党と考えていましたが、晩年にはそれが実証されるかたちで現実化されていくことを彼は目の当たりにしました。

ナポレオンの登場により、フランス革命はひとまず終わりましたが、その後もフランスでは繰り返し革命運動が続き、その度ごとに政権が変わっていきました。

帝政、王政、共和政が代わる代わるに政権を取りましたが、それらの政権の蔭にもフリーメイソンの存在が見え隠れしています。フリーメイソンは王党派から急進的な共和主義者や共産主義者に至るまで、その政治的思想信条は決して絶対主義的なものではありませんが、それとは別にハンドシグナル、など秘密主義的な友愛団体であり、バークが彼らの活動を警戒したのは頷けます。

このように歴史的に見ていけば、西洋の保守思想の起源は家父長制や君主制や貴族制を支持する事であるよりも遥かに、陰謀論的なものであると見做すこともできるのではないかと思います。

恐らく多くの保守派はこの考えに反対の意見を持つだろうと思います。しかし、この考えに反対する保守派の人たちの多くは、実際には保守の歴史についてほとんど調べていないどころか、全くの無知であると確信しています。

⬛保守の離反

イギリスで誕生した保守思想はその後世界中で広がりを見せることになりますが、保守派の言論人が、フランス革命におけるバークの議論を踏まえているかといえば、ほとんどそうではないでしょう。

保守はその後、いわゆる反動と呼ばれる王党派や神権政治の支持者や、国家主義者や民族主義者、国家社会主義者やファシスト、経済自由主義者や新自由主義者、更にはトロツキストの転向者である新保守主義者に至るまで幅広い考えの人々の総称として使用されることになりました。

今日の政治はこれらの保守派、そしてリベラル派、更にカール・マルクスによって生み出された共産主義の信奉者によるドタバタ悲喜劇といった様相を見せています。

ドイツの哲学者・経済学者
カール・マルクス

これらの三つの政治的立場には、残念ながら現在もジャコバン主義者の末裔、言い換えますと秘密結社の陰謀家たちが様々な形で紛れています。

今や保守と言っても、自由・平等・友愛、民主主義、人権という抽象的概念は人類の普遍的価値と見なされ、保守派とはフランス革命の理念を守る人々の事をいうかのような状況になっています。

エドマンド・バークの記憶はこの国では歴史から完全に抹殺された状態であり、保守派も、リベラル派も、そしてまた共産主義者さえも、フリーメイソンの教義に洗脳されてしまっているかのような状態となっています。

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最後に

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