高木さんが好きな男オタクは詰んでいるし、レムやアスナが好きなイキリオタクには救いがある

こんばんは。.Qです。キモ・オタクです。

このまえ学校で「キモオタなので……」って言ったら「キモオタってなんすか?」って後輩に聞かれて罪悪感から消滅してしまいました。


「からかい上手の高木さん」が好きだ

アニメは最近見れていなくて、オタクを名乗っていながら漫画もほとんど読めていないのだけれど(もっぱらインターネットで情報を消費している、オタクの抜け殻だ)、しかし最近、唯一全巻集めている漫画がある。

からかい上手の高木さん」だ。アニメ化もされて、なんならいままさに二期が放送されていると思うのだけれど、なんか、ハマってんのが家族に露呈するとやだなあと思って見ていない。

うちはぼくを含めて妹も両親もオタク系コンテンツを消費するしなんなら最も熱心にアニメを見ているのが父親なので、オタクバレがまずいという話ではないのだけれど、このアニメは、自分の性癖がめっちゃ露呈する作品である。

――と、少なくともぼくは思っていて、To Loveるを読みにくいのと同じ感覚を味わっている。

この作品を知らない人に紹介すると、主人公である西片がクラスメイトの高木さんからかわれるという儀式を通じて仲良くなっていき、周りからは「付き合ってるんじゃないの?」などと言われ、西片自身も高木さんのことが好きなんじゃないか? 高木さんも西片のことが……? みたいな距離感とコミュニケーションを楽しむ作品だ。オタクの多くにハマると思うというか、実際にハマっていて、現在かなり大人気のタイトルとなっている。作風としては実写化してもいけるとは思うけれど、直接的なお色気がないかわりにすごいフェティッシュな作品だ。そういう意味で「僕の心のヤバいやつ」とかに近いと思う。

ぼくの使っている本棚は東方Projectの同人誌とCD、西尾維新作品、学校で使う書籍、「高木さん」、「長瀞さん」で構成されている。「長瀞さん」については詳しい説明は省くが、「高木さん」をより欲求に素直にしたものと思っていただいて構わない。


高木さんが好きだと何がヤバいか

西片自身にはいちおう「高木さんを見返してやろう」という野望と、自ら「勝負」を仕掛ける主体性積極性があるが、基本的に高木さんのほうが理不尽なまでに読み切って西片の作戦をなぎ倒し、結果として、西片は完敗する。この関係をリードするのは高木さんだ。つまり、BLっぽい語彙を使えば、高木さんが攻めになるということだ。

西片は基本的にはやられ役で、高木さんに翻弄されるのが彼の仕事だ。この作品にハマってしまう読者には、恋愛の土俵において、男性がリードすべきというジェンダーロールからの現実逃避という側面があるように感じられる。二人の関係の盤面を完全に支配しているのは高木さんだ。男オタクが持っていた被支配欲を刺激していると言わざるを得ない。

「自由からの逃走」を唱えたのはフロムだが、まあ、似たような話だ。明確に同じ話というわけでもないけれども。

基本的には人間は、自分のことを自分で責任を持つより、他人に支配されたいという欲求がある。自分の判断を(信頼できる)他人に任せることには、快楽が付随してくる。というより、自分がなにものにも支配されない状態では心的負担が大きくなる。だからこそメンタルの弱いメンヘラ女のほうが、殴られてもバンドマンについていってしまう傾向は高いのだ。自信満々にふるまってくれる相手の方が、その実態にかかわらず、その判断を相手に任せていられる(支配されている状態でいられる)から、安息してしまうのである。

まあ、突き詰めれば宗教だって同じだ。自分がいいと思うか悪いと思うか善なのか悪なのか、そういった判断を神なり仏なりにアウトソーシングする。このシステムによって、人々は自分の精神を安定させることができる。

難しげな話になってしまったが、つまり、支配したいという欲求と支配されたいという欲求がある、ということさえ押さえて頂ければまあこの際大丈夫だ。

で、「高木さん」を愛好するということは、ここでは、「支配されたい」欲求を刺激されているということだ。ここに厳しさが存在する。K2くらい厳しい。

支配されたいと支配したいのふたつの欲求は、点対称なものではない。こと男性に限っては、だが、基本的には、モテるためには支配しなくてはならない。女子向けに「俺様」系のジャンルが流行していることからもわかる通り、やはり自信のあるかっこいい男に支配されたいのである。そしてそういった強さ(これを非モテ論壇では「加害性」と呼ぶのだけれど)をもたない男は、よくて「いい人どまり」だ。ちょうどいい相手が見つかることはあるかもしれないが、まあ、モテはしない。そしてこのタイプはモテたいともそんなに思っていないことがおおい。だから別にいいのだけれど、非モテ脱出をゴールとするのであれば、これは非常に分が悪い。

彼女と付き合わずに彼女を作りたい。 ――.Qの過去ツイートより引用

恋愛工学なんかの話になると、モテなんかよりひとりの相手を見つけられればいいじゃないか、という反論が常に出てくるが、多くの需要に沿ったものであるほうが、その相手が特定のひとりであろうが選ばれる確率は高い

多くの女性が支配されたい人と支配したい人で支配したい人を選ぶことが確かめられているとき、任意の女子をひとり抽出しても、支配されたい人と支配したい人で支配したい人を選ぶ確率が高い。

自分がそういう強くてかっこいい人の求心力と魅力と需要の高さを知っているからこそ、ぼくは「そうじゃない精神性」は厳しいと結論づける。


恋愛工学とイキリオタクには希望がある

恋愛工学というシステム自体に希望があるといっているのではない。恋愛工学をしようと思える精神性にはまだ救いがあるといっているのだ。モテたい。女の子とセックスがしたい、という気持ちは、能力の多寡を抜きにして語れば、甲斐性であり、男性としての強さだ。その能力が足りていないからイキリオタクは滑稽なのだけれど、しかし能力が足りていないだけなのだから、例えば練習やきっかけがあれば、非モテからは脱出できるようになる。

アスナやレムの前で活躍して彼女らを守り頼られたい、そして「キリトかなーやっぱりwww」とイキりたくなる。この精神性にはまだ救いがある

高木さんに翻弄されたい、高木さんにリードしてもらって、そのままあわよくば拾われたい、というような欲求は、これまで少女漫画が描いてきた。しかし「高木さん」の爆発的な人気は、いよいよオタクたちが男としてふるまうことへの限界に達しようとしていることを示唆している。

〇〇は俺の嫁wwwww」と嘯いていたかつてのオタクたち。今となっては力強ささえ感じてしまう。ぼくたちは「〇〇の嫁になりたい」のである。そして、果ては櫻井桃華に「ママ……」と縋りついてしまうようになってしまった。ごめんぼく高峯Pだったわ。

.Qくん、本気で男と付き合うの考えてみたらどう? ――フォロワーの発言より引用

夢野幻太郎からのオファー、お待ちしております。

別に高木さんに限った話じゃないっちゃ

ってラムちゃんが言ってる。確かに昔のお色気系少年漫画にも、自分に迫ってくるヒロインというものはいっぱい存在した。ぼくはうる星やつらを読んでいたわけではないから確実なことは言えないのだけれど、主人公がかっこよさを披露する場面は結構あったんじゃないかなあと思う。ニャル子に追われる八坂真尋や戦場ヶ原ひたぎに追われる阿良々木暦は、少なくとも、翻弄されつつも男性役から降りることはしなかった。主導権を握られこそすれ、支配されるということはない。あくまで主人公が彼女たちの前でかっこいいことをして、惚れられる。という関係がマジョリティであったといっていいと思う。そういう意味で、西片性もあるのだけれど、キリト性もあると表現できるだろう。

西片はそういうのじゃない。かっこいいところなんか全く見せないし、ずっと無様だ。アホだ。「イジらないで、長瀞さん」の主人公なんかもっと顕著にかっこわるい。

そういうのに共鳴してしまうオタク(いわゆる「草食系」に似た話でもある)は、今の段階では、イキリオタク恋愛工学徒よりも限界だ。非モテからの脱却ということを考えれば、イキリオタクのほうが女の子に対して男の立場をとろうと思っているぶん、よほどマシだ。

せめてもの救いは、西片側の精神性は他人を傷つけにくいということくらいか。傷つくのは社会からの重圧にひしゃげる自分の心だけだ。だから自分の幸福に対しては、やはり遠いのだけれど。


高木さんが好きなオタクは、どうしたら救われるのだろう。

やっぱインターネットで美少女になるっきゃねえな! ぼくの過去の記事でその話をしているけれど、このタイプの人間はめっちゃ向いてると思うぜ! なんたって美少女になって男を相手にするんだからな!


――たすけてくれ。

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