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僕の"好き"と世間の"興味"は一致しない

いつも長たらしくウダウダと書いてしまうので、今日は結論から言ってしまおう。noteを書き続けて理解した、「僕の"好き"と世間の"興味"は一致しない」のだと。どういうことかと言うと、ここからがまたウダウダと話す時間。

noteを書いている人はご存知の通り、読むだけの方は初めましてかもしれませんが、noteにはダッシュボードという機能があって、どの記事がどれだけ読まれているか、を知ることができます。ダッシュボード上ではビュー数の高い順に記事が並んでいるわけです。

数字を稼ぐことが本来の目的ではなかったとはいえ、数字として出てきてしまうことに怖さを抱きつつ、やっぱり気になってしまうのが人間の性というものです。僕も毎日とは言わないまでも、週に何度か、自信のある日記を書けた直後は数字を見にいくようにしています。

その度に実感させられてしまうのが、結論のお話。

今まで書いてきた中でも、心を込めて自信をもって書けた日記がいくつかあります。しかし、ビュー数のトップランクにその記事はなく、一体どこまで下がるのかというほど読まれていなかったりすることがあります。毎日書き続けていると、一記事あたりの数値にそれほど一喜一憂せずに済んだりもするので、一晩経てばそのショックも忘れてしまいます。

それよりも面白いのが、意図せず思わぬ記事が多くの反響を得ていることです。自分の"好き"と世間が"興味"を抱くものとの間に差があることに面白さを感じつつ、その差に意味を見出せないとマズいかもしれないぞ、とも思いはじめています。

僕のダッシュボードに上から並んでいる記事たちを、僕は具に説明することができません。なぜ、この記事がたくさん読まれていて、逆に読んでほしい記事がビュー数を獲得できていないのか。それは単にコンテンツとしての濃度や質といった点よりも、僕と世間との認識の差を理解できていないところに問題点があるような気がしています。

とはいえ僕はnoteを書く前までは、自分が好きなものは世間も好きだろうと勘違いしてしまっていて、そうではないのだという気づきを得られただけでも大きな一歩を獲得できているように思っていますが。

例えば何かのコンテンツを生み出そうとした時、なにが面白いのか、誰にウケるのか、どれだけの反響が見込めるのか、を想定できる力は絶対的に必要であって、その場においてあまりに世間との乖離があるのは難点だと考えるべきでしょう。ましてや、ウケなかったことを世間のせいにするなんてもってのほかで、その隔たりに意味を見いだすことも大切であるように思います。


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