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ガンバラナイでもいいでしょう

人一倍「才能」に対して臆病だったように思う。大抵の物事はちょっとやればそれなりにこなせる器用さは持ち合わせていたが、それが故に器用さ以上の期待に応えなければいけないと思い続けてきた。

考えてもみれば、僕が取り憑かれたように常に新しいことをやっていなければ落ち着かないのは、臆病さからきているのかもしれない。自分で自分の底を、他人に僕の底を見られることが何よりも怖いのだ。だから、人と対等でいるためには常に新しいセンテンスが必要だった。誰かと会うに当たっては、一冊でも多くの本や1秒でも多くの新しい経験を持っていなければその場に向かうことすら諦めたくなってしまう。

気付けば僕は、自信の能力や才能について絶望的なまでの過小評価をして、それを信じ込むこととなってしまった。他人に自身の能力を誇示するのは、自身のなさの裏返しだった。一人になればいつだって、その凡庸さや軟弱さを一つ一つ拾い集めていた。反省と言うにはあまりに寒々しい、自己との向き合い方だった。

頑張っていない人なんてどこにもいない。「頑張る」という言葉は疑い用もなく前向きな言葉だったが、僕にとってはそれほど苦しいものはなかった。僕にとって「頑張る」とは、自己の才能を枯渇させないために、震える足に喝を入れ続けることを意味する。だからそこには恐怖や苦しさが常に隣り合わせでいた。

物心ついた頃から、継続的に見る夢があった。

果ての見えないだだっ広い真っ白な空間で何者かに追われ続ける夢だ。どれだけ足を動かしても逃げ切ることは叶わない。正体を確かめようとしても後ろを振り向くことができない。ただ正体の分からない者に追われ続けて、終いには底なしの沼にハマったようにズンズンと地面に沈んでいってしまうのだ。

もしかするとその夢は、僕の生きることに対する執着が夢となって現れたものなのかもしれない。どれほど醜悪な怪物よりも恐ろしかった、「頑張る」という悪夢は、奥底で僕を脅かし続けていた。

そしてある時、張り詰めた蜘蛛の糸がプツッと切れてしまうように、僕は僕の「頑張る」を許容できなくなってしまった。学生生活を終え、社会に出てからのことだ。解決し切れない全ての物事を、自己の瑕疵や能力の欠如と結論づけ続けた結果、自分が今ここに存在する意義すら見出せなくなってしまった。

そこで全てを擲って、僕が抱えていた頑張るという悪夢が、僕自身が作り上げた妄想でしかないということを知った。頑張らなくても生きてはいけるという事実が、長い夢から僕を現実に引き戻してくれたようだった。

僕は人を恨むこともしないし、かといって全てを許容して何事もなかったように振る舞おうとは思わない。ただ一つ、社会人一年目の僕に贈る言葉があるとすれば「ガンバラナイでもいいでしょう」と一言伝えてあげようと思う。

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