見出し画像

104/* 肩書きはどうして生まれた

肩書きって、どうして生まれたんでしょうか。

人生を歩んでいくと、様々な分岐があって、人は選択に迫られます。その都度、我々は大きなキャリアや人生分岐を選択しているかのように思いがちですが、その実質は「肩書き」を選択しているにすぎないのではないか、とふと感じました。肩書きには、それぞれ先人たちが築いてきたイメージのようなものがあって、実は多くの選択がそのイメージに左右されているのではないか、と。

医者や政治家は高級取り、というイメージがありますが、それって元を辿ればきちんとした理由があるはずなんです。だれにでもできることではないからその技術や職が重宝され市場価値が高まった、みたいな。でも今や様々な肩書きは形骸化して、イメージばかりが先行しているような気がします。かっこいいとか、つらいそうとか、男っぽいとか、チャラチャラしてそうみたいなね。でも、本来肩書きというのは後からついてくるもので、ハナから志すものでもないんじゃないでしょうか。

肩書きを名乗って満足していた自分を顧みて、そう思いました。

男だからこうでなければいけない、なんてものが大した意味をなさないように、肩書きに縛られたイメージも実はそれほど大切ではありません。肩書きや体裁で振り分けて判断したほうが楽だから、世の中がそういう流れになっているだけであって、男だからスカートを履いてはいけない、なんてことはないわけです。

でも、人生の大切な選択を、縛られた肩書きのイメージによって決定してしまった人たちは、自分はこうでなければいけない、などといった幻想に悩まされることになります。こうでなければいけない、こうしなきゃいけない、だって私は〇〇だから。と本来の自分の意思を肩書きによってもみ消してしまうことだって、少なくはないんじゃないでしょうか。でも、いやいやそうじゃないだろう、と思ってしまったわけです。

もちろん、こうなりたい、という意思は明確に持つべきだと思います。徒競走もゴールが決められているから走り出せて、達成感を得られるわけであって、小さくても大きくても、目指すべきポイントを意識することは大切です。ただし、仮にその目指すべきポイントが何かしらの肩書きであったとしても、その縛られたイメージに向かっていく必要はないんじゃないでしょうか。

こうでなきゃいけない、という決まり切った枠の中に自分という可能性を押し込めていくよりも、可能性もあるがままに発散して、鍛錬して、そうして出来上がったものに、後から名前をつけてあげるほうが、よっぽど自由で有望な気がしています。

サポートいただく度に、声をあげて喜びます。