無自覚がいちばんこわい
生死を左右する局面で、GOを出せる感覚はおそろしい。ことにそれが、悪意をもって選択されたならなおさらだ。
例えば人を殺せる人とそうでない人の間には、もう如何ともしがたい隔絶がある。世の中には圧倒的な悪意が確実にあるが、正直ぼくの心身状態からすると不可解以外の何者でもない。
でも実は、ぼくらの身の回り、もっと近いところにも、同じくらいおそろしいものは潜んでいる。
それは、無自覚だ。
細かくは、悪意についての無自覚というべきだろうか。無自覚な選択や言動は時として、悪意をもってそうするよりも、人を傷つけてしまうことがある。
無意識は容赦がないし、本来であれば超えるのに躊躇する一歩を、平然とわたれてしまうおそろしさがある。
そしてなにより、自分の無意識に自分では気がつけない。
テニスの練習とは違って、自分の行いをビデオに録画して分析して、修正しようなんて誰も考えない。
なんだか回りくどくなった。
自分の無意識と向き合う方法はぼくには分からない。けれどひとつだけ言えることは、自分と向き合おうとすればするほど、他人と向き合う必要が出てくるということだ。
じっと向き合っていればきっと、自分のことがわかってくる。
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