読書感想文が書けなかった自分のために『恋する寄生虫』三秋縋

 考えてみた、今僕は幸福の絶頂にあると信じられるような時がやってきたら、いっそその瞬間に人生の幕を引いてしまいたくなるだろうか。
これは登場人物の1人が辿った問いだ、ネタバレをある程度避けて言葉を尽くすなら、その人物が出した結論は身勝手でもあった。勿論それは愛しい身勝手だった。
 僕の場合。前提を明かし、問題を絞ってみる。その幸福は恋愛の究極であるとしたら。つまり自らの最愛が自らを最愛している。そういう幸福の形はうんざりするほど擦られ、少々時代遅れになって、誰もが夢見ているとは限らなくなったと思う。が、こうやって書いて斜に構えている自分にはそこへの憧憬が残っている。これも前提だ。
 想像してみる、公園、桜花びらが吹雪き、中央の湖に白鳥が漕ぐ。そして最愛の人と草っ原に寝転がって春が息吹くのを感じる。そういう典型的で、だから普通で素晴らしい幸福のただ中に自分がいる。微睡みがやってくる。
 こんな日は二度とやってはこないんじゃと確かに僕も直感するだろう。
 それが悲しいから、自分ならそこで起き上がるだろうと思った。何となく、もったいなくないか?せっかく最愛の人と心が通じているなら、公園じゃなくてもっと多福的な過ごし方があるんじゃないか?カフェとか遊園地とか。だから今度のデートはどこに行く?と最愛の人に言おうとつぶっていた目を開けて、その人に貌がないことに僕は気づいた。

 前提がそもそもフィクションだった。
 他の誰とも区別がつかないくらいありふれた非モテ・モラトリアム的自己嫌悪だ。もうそんなのは繰り返しすぎて虫食いになっているのに。
 自らの最愛が自らを最愛するなんてことは、だってありえないだろ。 
 それこそ相手が蟲に操られてでもいないと。 
 
 だから普通の幸せでいい。いつも通りが1番でいい。
 愛してくれる人はいなくても、太陽があったかいこと、鳥が鳴いていること、風や水、人間以外の自然全てに感謝しよう。
 あれ、今日死んでも良かったりする。

 よし、自暴自棄は終わり!
 じゃあ油○シノみたいに自分に蟲を操る力があったと妄想しよう。中学生からはや10年この歳になると蟲使いのカッコよさもわかるってもんだ。
 そしてその力で見惚れた女の子を洗脳しよう。
 少し罪悪感はあるけれど、そんな程度で本能に訴えてくる彼女の魅力は全く損なわれない!!     でもなんやかんやあって洗脳は解けてしまう。 でもなんやかんやあったから女の子は「洗脳がなくてもあなたのことが好きだよ」と言ってくれてしまう。
 蟲の力を手に入れたとしてもそれで自分が成長できるとは思えない。だって敵と戦うためなんて考えもせず、使い道で浮かぶのは女の子を洗脳することという人間だから。

 設定の補強を経て、僕は春の公園の想像に立ち戻る。どうしてか愛してくれる彼女の寝顔を眺めて思うだろう、蟲の力を失くしてもこの子を繋ぎ止めることが出来たらいいなあと。
 でもどんなに頑張っても今よりももっと愛してもらうことは出来ないだろう。離れていくのを必死に取り繕っていくことしか出来ない。
 だったら確かにこの瞬間が幸福の絶頂だ。
 おはよう、と。彼女の目端には涙が光っている、いつかそれも乾いてしまうことをわかって、僕も涙を光らせる。

 人生の幕は別に今引いても良いけど、どうせひとり芝居なのだからもう少し。

 



 

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