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"クオリティ"に達する為には、覇気が必要だ。

「禅とオートバイ修理技術 / ロバート・M・パーシング著」
この本はロボトミー手術のため記憶を失った大学教授と、また精神が病みつつある息子とのバイク旅行の顛末である。
失った記憶のピースを繋ぎながら、以前に所得していたパイドロス(以前の記憶の主)が辿った道をツーリングしていく。
オートバイ修理技術を通して、哲学から芸術、宗教までを"クオリティ"に属する部門として種別していく。
それは"美意識"に集約されていく。
なかなか一筋縄ではいかない本だが、体系だってその"クオリティ"を解き明かそうとする執念は、息子との旅を通してものすごい純化へと昇華していくようだ。
影響されやすい僕はといえば、息子とバイク旅行てのはまた面白いもんだな~とのほほん顔であるが、この旅は精神の深遠へと下る厳しい行程でもある。
だからストイック過ぎるきらいもあった。
オートバイ修理技術の極意、煮詰まったら暫くバイクを放っておくのも手である。 覇気を邪魔する罠はいたるところにあり、出鼻をくじかれたり、退屈が襲ってきたり、金銭の憂鬱に気長に待つだけのゆとりや辛抱も必要だ。
つまりこの本は、オートバイ修理技術を通して人生を語っているのだ。
バイクと一体化した時、自ずとその修理方法は向こうからやってくる。
禅における無の境地、悟りの世界でもあった。
すべての道(タオ)はここへと帰結するのである。
山の頂上、幾つもの行程は存在するが目指す峰は一緒なのだ。
ある卓越した技術(クオリティ)を会得する時、それはここへと集約される。
それが何であれ、茶道であれ武術であれ、演奏や芸術であれ、掃除や子育てであれ、あらゆる仕事であれ、それに集中し一体化を果たした時に到達する境地である。
やりたいことが見つからなかったらそれに集中しろ。
とことんやりたくないことを列挙してやりたいことは何なのかを探れ。
漫然としてぼやけてしまうようだったら違った何かをとっ掴まえてそれに集中しろ。
それは食器を洗うという行為でもいい。夢中になって洗い続けろ。
そこに探していたものが見つかるやも知れない。
掃除や調理でもいいし、道に通ずる既成の作法でもいい、つまらないアルバイトにさえそれは在る。
それでも駄目なのだったら何もするな。
黙ってただ座り続けろ。
焦点はその純化にある。
行為に没頭し空っぽになること、それが「無」であり、一体化である。行為そのものになってしまった時、自ずとそれはやってくる。
怠惰に漫然と時を遣り過ごすことは、バイクのメンテナンスを怠っているのと同じなのだ。
いつかバイクは故障し動かなくなってしまう。
その瞬間に集中し、生ききること。
それは自身を動かす原動力、覇気が"クオリティ"を純化する。
【archive】2004年

こないだこの本を再読した。うん、面白い。
今回は、父と息子との関係性を中心に読んでみた。

以前の記憶が無い父はそれを取り戻そうとシャトーカ(100年ほど前にアメリカで流行した教育と娯楽を兼ねた野外講演会のようなもの)を脳内で繰り返す。
以前の父を知っている息子は、思索し続ける父とバイクにまたがり旅を続けていく。息子にとっては、そりゃあもう退屈極まりない旅だろう。

父は子との関係性を取り戻したいと努力するが、以前の父の幻影に悩まされ、いつしか目的は記憶を探る内面の旅へとすり替わっていく。

知っている。自分の父も、そんなふうだった。映画しか共通の話題は無く、「北の国から」を見て北海道に連れていかれたコトもある。
何かを見せようと躍起になっていたことは判るが、それは欲しいものではなかった。けれども、今思えば、である。今ならなんとなく判るような気もするのだ。

もう親と子は、しっちゃかめっちゃかにカードを見せ合うしかない。
不器用だけど、それしか方法はないんだ。
いいとこだけでも、嫌なとこだけでも足りない、酸いも甘いも全部カードを開示するしかないんだ。

後はテメエの人生なのだから、テメエで歩くしかないのだ。

話は戻るが、この本の執筆は74年であるが、その当時ベストセラーになり出版から10年経過した後に、冒頭の序文が加筆された。
そこには筆者の息子クリスの死が伝えられている。強盗に襲われ刺殺されたのだった。そんな序文から、親子のアメリカ大陸を巡るバイク旅行が始まる。

これは実話なのだ。
【補足】2017年