#13 村上大介

https://soundcloud.com/user-983930015/no-13-daisuke-murakami 2019年2月21日

みなさんこんにちは、アイスタイムポッドキャストへようこそ。
ホストのジャックギャラガーと、共同ホストのあやのです。
本日の素晴らしいゲストは、元フィギュアスケート選手でああり今はコーチをされている、村上大介さんです。よろしくお願いします。

よろしくお願いします。ポッドキャストのゲストに呼んでいただいてとても嬉しく思っています。

こちらこそ忙しいところ快諾いただきありがとうございます。今はコーチをしているんですよね。あなたが引退したのは去年の夏でしたね。今はオレゴン州シャーウッドのシャーウッドアイスアリーナでコーチをしていると。オレゴン州、シャーウッドはいかがですか。

そうですね、ここは僕がトレーニングをしていたLAとは全然違う場所です。もっと郊外の町なのであまり出歩くところがなくて、それがスケートに集中するためにとても良い環境だと思います。自分の情熱や知識を全部教えている子供たちに注ぎ込んでいます。

人口はどのくらいの町なんですか?

正直に言うと人口はあまりよくわかっていないんですが、教えている子供たちの数から考えると、村みたいな感じですね。

なるほど(笑)それでは、あなたのスケートキャリアのことから始めましょう。スケートを始めたのは何歳の頃だったんですか?

僕がアメリカに引っ越したのは9歳の時で、スケートを始めたのはカリフォルニアのサンディエゴで、10歳の時でした。選手として試合に出るようになった時は、タミー・ギャンブルコーチのところで10歳、いえ11歳の頃でした。

そこから日本の選手に変更したのは、どういった経緯だったんですか?

色々なことがあったんですが、その時は、僕はラファエル・アルトゥルニアンコーチに師事していて、浅田真央さんがラファエルコーチのところへ移ってきたんですね。それから僕の家族と真央の家族がすごく親しくなって、そこできょうこさん、真央のお母さんが僕のことを色々と考えてくれて、「日本の選手になるべきだ」って言ったんです。僕は日本生まれの日本人だし家族も日本人。だから日本代表になるべきだと。それで僕も色々考えて、ある夏にアメリカ選手から日本選手に変更したんです。

真央さんのお母さんはとても素敵な女性ですよね。私も彼女と親しくしてもらえてとてもラッキーでした。あんなに早くお亡くなりになったのは本当に悲しいことでした。

えぇ、あの時は本当に聞くのが辛かったです。僕が成功できたのは彼女が日本選手になるべきだと勇気付けてくれたからなんです。彼女がいてくれたから決断できたんです。

彼女が亡くなる前に、私は2ページにわたる手紙をもらったんです。日本語で真央さんについて書かれていた。今でも大事に持っています。本当にスペシャルな人でした。
では、以前は真央さんとレイクウッドでトレーニングしていたんですね。あなたと真央さん、舞さん、他にはどんな選手がいたか覚えていますか?

あの時は、たくさんのスケーターがいました。イワン・ディネフ、アンジェラ・ニコディノフ、サーシャ・コーエン、ミシェル・クワンもいたし、あの当時もとてもたくさんのトップ選手たちがいましたね。そんなトップ選手をこの目で見て、リンクを共有できるというのは素晴らしい経験でした。当時僕はまだジュニアだったので、そんなシニアのトップ選手たちを近くで感じられるということは僕のモチベーションをとても高めてくれました。

そうだったんですね。それにしても真央さんのお母さんの話は今まで聞いたことがないです。彼女があなたの日本転向のキーパーソンだったとは。このアイスタイムポッドキャストを聞いている人たちが初めて知ることができるわけですね!そういうスクープ、ニュースを私たちは求めているんですよ!(笑)
それで、2008年ー2009年シーズンにジュニア選手として試合にで始めたんですよね。選手としての国籍を変えるためには1年待たなければいけないんでしたっけ?

その通りです。その前はアメリカの選手としてジュニアグランプリシリーズに出場していましたから、1年待つ必要がありました。

それがルールだったんですね。そうしてジュニア選手として試合に戻ってきた時は、まだラファエルコーチだったんですか?それともニコライに変わっていたんでしょうか?

そうですね、ニコライに変わったタイミングで、安藤美姫さんや高橋大輔さん、織田信成さんとチームメイトになりました。

なるほど。ニュージャージーに移った時ということですよね?

そうですね、あの時は僕が初めて大人として振舞わなければ行けないときでした。確か16歳か17歳のころで、初めて両親の元を離れて自分だけで国を横断しました。ニコライがちょうどたくさんの選手を受け入れた時で、みんなで毎日一緒に過ごしていたし、トレーニングも一緒にしていました。

LAからニューヨークへの道は大変だったでしょうね。初めてアメリカに渡った時は、家族でサンディエゴへ?それともLA?

最初はサンディエゴにいたんですが、僕がスケートをするためにLAに引っ越しました。

ニュージャージーには2、3年いたんですか?詳しい年数がわからないんですが

僕もちょっとその時期の記憶が曖昧なんですけど、2、3年くらいだったと思います。

なるほど。あなたの周りにいたスケーターたちは本当に素晴らしい人ばかりですね。トレーニング環境として最高だったんじゃないですか

そうですね。第一線のスケーターになるためのプロセスを通して素晴らしいスケーターたちに囲まれていたことはすごく幸運でしたね。あの時にはハビエル・フェルナンデスもいたしアダム・リッポンもいた、ジョージアのエレーネ・ゲデヴァニシヴィリもいて、いつもトップスケーターたちが周りにいて素晴らしい環境でした。僕自身がまだそのレベルでなかった時に、もっと上がっていくためにトレーニングについての意見だとかスケートに関する色々な話をして、素晴らしいメンターがいてくれたことを本当に感謝しています。

そのあと、カリフォルニアに戻ってフランク・キャロルコーチの元へ移ったんですよね?

ニュージャージーでの3年は、いろんなところに行かねければいけなかったし、ニコライはいつもそこにいるわけではなかったので僕は自主トレーニングをしなければいけないことも多くて、自分の成長を不安に思ったんです。明確なものが感じられなかったので。だから難しい決断でしたが、全てをまとめてLAに戻りました。
最初からフランクにコーチをお願いしたいと思っていましたがその時すでに一流の選手たちがたくさんいてきっと僕の時間を取るのは難しいだろうと思いました。だけど僕はちょうどいいタイミングで話ができたようで、彼が招き入れてくれたので彼の元でトレーニングするようになりました。

素晴らしいですね。その当時は誰が他にいたんですか?

そうですね、エヴァン・ライサチェクやデニス・テン、長洲未来、他にもアメリカのナショナルレベルのスケーターたちがたくさんいました。フランクがリンクで教える時間はあまり長くなかったので、限られた時間の中で僕の時間を作るのは大変だろうと思っていました。でもどうにか僕の時間もスケジュールに入れてくれたので、とても嬉しかったですね。

なるほど。あなた自身のキャリアについてですが、少なくとも私の視点からは、あなたのハイライトは2014年に大阪で行われたNHK杯の優勝ではないかと思います。私もそこで見ていたんですが、あの時は羽生選手もいた。素晴らしいサプライズの優勝だったと思いますが、自分ではあれがハイライトだと思いますか?

自分ではそうは思わないですね。あれは確かに自分のキャリアの転換点ではありましたが、自分のメンタルが強くなった時だなと思います。それまではメンタルの問題が結構ありましたから。でもあの優勝で自分が行きたいところにいくための自信がつきましたし、その次の年にグランプリファイナルにもいくことができました。
それに、フランクももちろんとてもサポートしてくれました。フィギュアスケートは日本でとても人気のスポーツなので、それまでになかったようなメディアの注目を集めました。高橋大輔さんや安藤美姫さんとトレーニングしていた時、そういったものを外から見たことはありましたが、それが自分に注がれると、そうですね、それが少し苦労したことかもしれません。当時メディアから毎週のように何かのリクエストがあって、トレーニングに集中するのが難しかったんです。グランプリファイナルで良い成績を残せなかったのも、そういったこれまでにない注目を浴びたことで自分の気持ちをコントロール仕切れずに集中しづらかったという問題があったと思います。だけどあれもとても良い経験で、その中でフランクが僕に、今やるべきこととやらなくていいことを指導してくれたのでとても感謝しています。彼は僕にとってスケートのことをリンクの外でもなんでも話せる第2の父親だと思っています。

ではNHK杯での優勝が次のステージに行くための分岐点だったんですね。

そうですね、そうだと思います。それに、ゆづもいましたし。ゆづに勝ったことがある日本人はあまり多くないと思いますが、僕はその1人なんです(笑)彼はあの日調子がよくなかったみたいで、最終的に僕が表彰台の真ん中に立てた。だから、誇らしかったですね。

しかもあなたが勝った年は、彼がオリンピックと世界選手権の両方で優勝した年ですよね。2月にオリンピックで優勝して、その翌月に世界選手権で優勝している。これから先40年くらい、あなたの生徒に「あの羽生を破って優勝した」と言えますね。これは大きな自慢話になりますよ

そうですね、でも同時にゆづと僕は氷を離れてもとてもいい友達なんです。このお正月にも彼からとても暖かい新年の挨拶があって、「よろしくお願いします」って、英語でどう説明していいかわからないんですが・・・。リンクの外でもとてもいい友達で、遠く離れていても時々「どうしてる?」って連絡をくれたりもするんです。彼が区アドサルコウを習得して、まだまだ先に進んで行く様子を見て、ライバルだったけど、彼のことをとても尊敬しています。彼は今でも自分がベストだとは考えずに、いろんな人の意見を聞くことができるので、本当に素晴らしいと思います。

えぇ、同意します。今ほとんど次の質問に答えてくれたんですが、彼があんなに強く、素晴らしくいられるのはなぜなのか、あなたの意見を聞かせてくれますか?身体的な能力なのかメンタルなのか。どう思いますか?

僕が思うに、彼は最強のメンタルを持っていると思います。どんなスケーターが怪我からの復帰戦であるオリンピックで優勝できるのか、僕にはわかりません。もうほんとクレイジーですよね。僕もたくさん注目を浴びましたけど、彼のはその100倍はありますよね。彼は今や日本で一番の有名人で、そんな中でメンタルをコントロールして試合で結果を残し続けている。彼はスケート史上で一番のスケーターだと思います。

そうですよね。これまでの彼のキャリアを見てきても、本当に素晴らしい。私はソチでの一つ目の金メダルも、去年の2つ目の金メダルも見ていますが、11月の大阪での怪我のことを考えると本当に信じられないことですよね。じゃぁ、あなたはテレビでオリンピックを見ていたんですか?

いえ、現地には行かずにトレーニングをしていました。
僕にとっては、一つ目よりも二つ目の金メダルの方がインパクトがありました。なぜかはわからないんですが、二つ目の金メダルを見た時の方が感情的になりました。

その時、どういう風に感じましたか?あなたは羽生選手を個人的に知っているし、彼がどういう努力をしてきたかも知っている。それに、宇野選手が2位となって、同じ日本の選手として、どう思いましたか?

そうですね、すごく誇らしかったです。彼らのライバルとして、彼らに成功して欲しいと思うし、同じ国の代表としてベストを尽くして欲しいと思っていました。だから1位2位という結果は個人的にも、とても嬉しかったですね。世界で一位の選手が日本にいるんだということが嬉しかった。それに、僕自身、あそこまでのレベルにはなれませんでしたが、でもそのグループの一員でいられたこと、彼らと競うことができたことがとても誇らしいことだと自分自身と、そして子供たちに話しています。

それに、あなたは高橋大輔さんとも友達ですよね?同じ時代に選手であったので。ご存知の通り彼は去年の夏に復帰したわけですが、彼との関係についてお話ししてもらえますか?

もちろん!彼とも友達だと言えることが嬉しいですね。彼は日本で僕はアメリカなのでもちろんそんなに頻繁に話をするわけではないですが、彼が去年トロントにデイビット・ウィルソンに振り付けをしてもらいにきた時に会いました。1日一緒に過ごして、いろんな話をしましたね。最近どうしてるのか、なんで復帰することにしたのか、とか彼と話をするのはいつも本当に楽しいんです。
彼がどうやって選手として戻るために鍛え直しているかっていう話なんかはとても刺激になりました。彼とはいつ会っても久しぶりっていう感じがしなくて、本当に彼は素晴らしい人だなと思います。なんて行っていいかわからないんですが

いえ、あなたの素直な気持ちがとてもよくわかりますよ。彼が復帰すると聞いて、どう思いましたか?

ちょうど僕が引退を決めた時で、彼が復帰するというのでもう「がんばって!」と(笑)
以前からのルール変更で時間が短くなったことで要素を全ているれのが大変だと思うと話していたので、じゃぁ強壮剤を飲むしかないね、なんてことを言ってました

おもしろいですねw 初めにニュースを聞いた時は、驚きましたか?

実はそうでもないんですよね。引退してからも彼は全日本なんかでメディアの仕事をしていたし、僕にインタビューすることもあって、彼の友達として、なんだか彼がピークシーズンを逃してしまったような気がしていたんです。だから実は、復帰しないかなぁと思ったりしていたんです。彼は引退して年齢を重ねても努力を続けている彼のことをとても尊敬するし、結果がどうなったとしても次に進むために必要だと話してくれたのですごく尊敬するしなんというか・・・なんて表現したらいいかわからないですね!合う言葉が見つからないんですが

平昌オリンピックで彼がスーツをきてTV番組のために練習リンクにいるのを見ました。とてもかっこよかったんですが、あなたと同じようなことを感じました。彼は、まだこの中にいたいんじゃないだろうか、と。私は復帰は全く予想していなかったのですが、そのときそう思ったのを覚えています。選手でいた時と変わらない姿で、この中にまだいたいのかな、と。

そうですね。昨シーズンはずっと彼を応援していました。実は僕は彼の振り付けの様子を見ることができたんです。スーザン・ラッセルがメディアに関連する仕事をしていてその通訳などをしていたので。その時大輔をみてどう思うかと聞かれて、彼が戻ってきて嬉しいと言いました。彼のように滑れるスケーターはいないと思うんですよね。もう一度見られて本当に嬉しいです。彼はすべてのパワーも集中も感情も全てを注いでいるので。

えぇ、12月の全日本も素晴らしかったですよ。彼は四年というブランクから復帰したのにも関わらず何も変わっていないように見えました。四年というのはとても長い時間ですよね。人生が大きく変わることも十分ありうる時間の長さだ。
ところで、あなたのスケートキャリアの最後の2年には何が起きていたのですか?怪我があったんでしょうか?2015年のグランプリファイナルには出場して、そのあとの2年は何があったんですか?

そうですね、怪我もありました。それにGPシリーズに気持ちを持っていけなかったんです。GPファイナルに出場したあとに何が難しかったかを考えると、トップスケーターでいるために焦りがありました。あの時は、ネイサン・チェン選手や宇野昌磨選手、ボーヤン・ジン選手たちが次々と4回転を飛んでいった時期で、僕も追いつかなければと思いました。だから夏の間はずっとクアドに集中していました。練習の中ではクアドサルコウとクアドルッツの安定感も増して言ったんですが、僕の体にはちょっとキツすぎたみたいなんです。右足をついてジャンプするので体の右側が悲鳴をあげたんですね。やりすぎてしまったんだと思います。それ以上できなくなってしまった。フランクはもっと、量より質という人でしたけど、僕は逆をやってしまった。日本人の精神としてとにかく量を優先してしまって、他の日本人選手は例えば1日に30本のクアドフリップを跳ぶ。それを知っていたので僕も1日3本で我慢することができなくて、アプローチを間違ってしまったんです。えぇ、練習のしすぎでした。

引退の決断は、何が要因だったんですか?身体がこれ以上無理だと言ったんでしょうか

一番の要因は、フィギュアスケートがこれからいく先が見えたことですね。クアドの戦いになってくる。その中で自分をどれだけ保てるか、自分がどこまで追いついていけるかということが大きな問題になると思いました。スケーターにとっての夢はやはりオリンピックで大きなゴールはオリンピックで金メダルを取ることだと思います。そのオリンピックに若いスケーターたちがどんどん出てくる状況で自分が行けるかどうか、ロシアやカナダの若手もたくさんいるなかでどこまでできるのかということが僕には大きな問題でした。まだ2、3年続けることは可能だったんですけど、オリンピックでのメダルということを考えるとそれが現実的だと思えなかったんです。それに、自分の体を健康に保ちたいとも思いました。現役を引退してからも自分の人生は続くので。そういった色々なことが頭をよぎってたくさん考えて、フランクとも話をしました。彼は僕がまだできると思っていたので。だけど練習の中でクアドを降りることができなかったので、もうメンタルが持たないなと思ったんです。だから引退するか、少なくとも休みを取ろうと思いました。とても疲れていたので。スケートをすること、トレーニングをすること、競技者でいることに疲れていました。外からは普通に見えていたとしても、きっとすべてのアスリートが苦しんでいると思います。本当に休みがないですから。シーズンが終わったらショーをやって、同時に次のシーズンの準備もして、ノンストップなんです。

終わりのないサイクルなんですね。ところで、スーザン・ラッセルとの仕事に関わるようになったのはどういった経緯だったんですか?

そうですね、その時僕はカナダにいて、引退をすることを決めた夏で、これからスケートに関わっていきたいのかどうかも確かでなかったんです。外の世界でもやって見たいことがあって、今までのキャリアと違うことをしようかと思っていたんです。ビジネスの学位も持っているので、それで他のことをしようかと。でもスーザン・ラッセルが僕に彼女のマガジンの翻訳の機会をくれて、彼らとスケートをしたりして、それまであまり気づいていなかった、スケートコミュニティにいる楽しさをまた感じられたんです。だからその夏に、LAから引っ越しました。LAでずっとトレーニングしてきましたけど、これからのために新しい環境でスタートしたかったので。シャーウッドアイスリンクが最初に僕にアプローチしてオファーをくれたリンクでした。すごく正直にいうと、僕は自分のスケートには責任を持っていたけど、コミットメントはしたくなかった。だから初めてリンクに行った時に、そこにいた人たちみんなに「僕はみんなの役に立つ人になりたい」と行ったんです。コーチの間でも競争みたいなことがやっぱりあるんですけど、僕はそこには入りたくなかった。もし誰かが、僕がこれまで滑ってきた経験から何かを学びたいと行ってくれるならそれは嬉しいことだと思っています。ありがたいことに今のチームではマイ・ムラマ、マリ・タナカたち、自分でしっかりと滑っている子供たちがいます。全部で13人の生徒たちがいて、その中から3人の男子が全米選手権に出場することができたんです。彼らは僕に「あなたがここにきてくれてよかった。あなたの経験を教えて欲しい」というんです。だから9月からは、彼らのおかげで忙しくしています。コーチたちが大会に帯同してホームにいない時に残っている生徒たちを見たり、そういったアシスタントの仕事をしています。それが今の仕事です。

先方からアプローチがあったというのは素晴らしいですね。受けた時はきっと嬉しかったと思います。先ほどビジネスの学位があると言いましたが、どこで取得したんですか?

青森大学を卒業しているので。選手時代だったのでとても大変でした。拠点はアメリカだけど試験のために日本に帰らなければいけなくて、もっと他に方法があったんじゃないかと思いますね(笑

でもすごく大事なことですよね。素晴らしいと思います。スケートの話に戻りますが、今の典型的な1日はどんな風なんですか?何時に行って何時に帰る、とか

あぁ、ジャック・・・コーチングって、すごい、選手でいることよりも難しいしことなんですよ。子供達に責任を持つことなので。僕の典型的な1日は、アスリートと同じように、4時に起きて5時までにはリンクに行きます。それで、だいたいいつも7時か8時くらいまでは家に帰らないですね。だからすごく長い1日です。僕は別に完全に彼らに教えているわけではないけど、子供達とミーティングをしたりオフアイスのクラスや振り付けのクラスがあったり、本当に多くのことに追われて1日が長くなります。だから時々、またスケーターに戻ろうかななんて思うこともあります。だってその方がもっと簡単だから!3時間オンアイスでトレーニングをしてそれからジムに行って、家で美味しいご飯を食べて終わる。今はそんな時間がなくて、カフェに行ってなんでもいいから食べれるものを食べてってしていたら、もう次の朝がくるんですよ!

大変ですね。。。今後コーチとしてジュニアやシニアの選手と一緒に世界中を旅するような将来は描いていますか?

それはないですね。僕は今みたいにチームのために働くことはしたいと思うけど、彼らについてまた試合に行ったりということはあまり考えていません。でも最近は、もしまたあそこに行くのなら僕はきっと選手として行くと思ったりします。(笑

でも、きっと知っていると思いますけどブライアン・オーサーはキム・ヨナさんにコーチを頼まれるまで自分がコーチになると思っていなかったんです。だから、ちょっと考えてしまって。もし誰かがあなたにお願いしたら、どうするだろうと

そうですね、ブライアンは彼1人でコーチをしているわけじゃなくてチームで動いている。そういうものの方が僕は自分に合うと思います。コーチのアシスタントをしていても自分は理論的な人間ではないと思うので。だから僕はチームで関わって行きたいと思います。1人が全てをコントロールする、というのではなくて。
だから、今の毎日を楽しんでいますよ。新しいキャリアを。毎日すごくたくさんスケートするんですよ。トレーニングをしているわけじゃないけど、どこまでできるかなってやって見ることはあります。今も現役をできるとは思わないですけど、日本の男子選手たちがどうしているかはいつも気にしているし、時々、復帰するべきかな?って思うこともあるけど、でも今はしないですね。きっと多くのスケーターが通る道だと思いますよ。

えぇ、理解できます。あのレベルで競っていたら、そこから離れるのは大変だと思います。
あなたの意見を伺いたいんですが、一流選手と超一流選手を分けるものはなんだと思いますか?メンタルなのか、身体的な能力なのか・・・どう思いますか?

僕は、メンタルだと思います。基本的に、僕らは同じことをしていますよね。みんなジャンプをするし、ランスルーをする。それで試合までに誰が一番心の準備ができているか、誰が一番経験を積んでいるかということの様に思います。自分の経験からは、そうだと思いますね。試合を重ねるごとに経験値を積んで自信を築いて行きましたから。だけどグランプリファイナルに行った時は、あんな大きな歓声は聞いたことがなくて、ちょっと震え上がってしまいましたね。公式練習をしている時も、フランクを見て「なんで僕ここにいるんだっけ?」なんて思ったり。だってそこにはゆづもいたしパトリックちゃん、ボーヤン・ジンたち世界のメダリストたちがみんないて、僕は誰でもない。
だから、それが僕が気づいた小さな違いですね。トップレベルの中でもランクを分けるもの。

先ほど競技時間の変更の話がありましたが、フィギュアスケートを進化させてもっと魅力的にするために、他にどんな変化があればいいと思いますか?

どうでしょう。ISUはなんでも彼らがやりたいことをやるっていう風に見えますけど・・・そうですね、あんまりいうと角が立つので、次の質問に行きましょうw

最近リスナーからこんな意見を聞いたんです。ジャッジを、技術を見る人と芸術性を見る人を分けた方がいいんじゃないかと。それについてはどう思いますか?

僕はそうは思わないですね。だって、その二つを切り離すことはできないから。だから、ちょっとそれはできないと思います。

それについては同意しますね。子供達に教えていると行っていましたけど、いくつくらいの子達なんですか?

すごく若いですよ。4歳ぐらいから、一番上は17歳かな。彼らをいくつかのクラスに分けています。トップのクラスから、幼児クラスまで。幼児クラスでは何年か続けることでできることを増やしていくイメージですね。僕たちは、あの・・ザギトワのコーチの、そうエテリコーチのやり方を見習っています。だから彼女のドキュメンタリーを見たり、いろんな方法で彼女のやり方を勉強しています。彼女のところには本当に次々に新しい才能が集まってきて、きっと全てのコーチがやりたいことでしょうからね。

なるほど、とても興味深いですね。時々人は彼女を、若い時にジャンプをやらせすぎるとか、批判することもあるんです。だからあなたの口からそれを聞けたのはとても興味深い。
さっきフィギュアがこれからクアド祭りになると行っていましたけど、それはこのスポーツにとっていいことだと思いますか?

そうですね・・・女子選手がクアドルッツを跳ぶのは、ある種クリエイティブなことだと思いますけど、でも確実にフィギュアを別の局面に変えていくでしょうね、もっと見ていて楽しいものに。次にどうなるのか、きっともっと気になる様になると思います。でも、そうですね、よくはわからないですけど、スポーツにとってはいいことなんじゃないでしょうか。まぁ、うん、論争は避けたいかな(笑

なるほどwネイサンの凄まじい活躍が見られますが、これがアメリカを低迷から救うと思いますか?

もちろん。ネイサンはアメリカ代表としてとてもよくやっているし、フィギュアというスポーツをアメリカに取り戻すのにとても活躍していると思います。全米大会は見ましたけど・・・そうですね、全米の最後の2グループを見るのはちょっとクレイジーでしたね。日本ではみんながクアドを跳ぶけど、全米では5本の指でおさまるぐらいのクアドしか見ない。三番目からスタートしてるかんじですよね。時々、日本の方が簡単だから国籍を変えたんだろうという人がいるんですけど、彼らは後ろをちゃんと見るべきですね。日本の方がもっと競争が激しいですから。みんな、若い時からクアドを飛んでる。どんな魔法があるのか、知らないですけどね!

日本やアメリカに限らず世界中で、誰が次に来る選手だと思いますか?若い選手で将来を約束されていると思う選手はいますか?

そうですね、全体的に若い子たちはクアドによく挑んでいると思います。カナダの、ロシア生まれの男の子がすごいと聞きます。
あんなにも若い時からクアドやめちゃくちゃに難しいプログラムに挑戦して、1日の終わりに身体が壊れないかと思うんじゃないかと思います。ジュニアグランプリの間耐えられるのか、僕にはわかりません。でもきっと、世代によって体も変わってきているのかなと思います。もしかしたら彼らは今のクレイジーな流れに対応できるのかもしれない。どうなのか僕には詳しいことはわからないですけど、これからも彼らが通り抜けられることを祈っています;

なるほど。そろそろ話をまとめたいと思うのですがその前に、あなたの現役時代に、ひどい怪我だとか何が病気だとか、後悔していることはありますか?現役時代にやり残したこと、オリンピックに行くだとか・・・なにか

そうですね、オリンピックに行けなかった人はきっとみんな悔いはあると思います。ただ、僕のためじゃなかったんだなと。あの時は、誰もわからないけど、自分でその可能性があると思えなかった。でもポジティブでいることは務めました。オリンピックに行けないとしてもこのスポーツに何ができるのかということに集中していました。それまでに自分が貢献した以上のものをすでにもらっていると感じていましたから。だから、最後の日にもあまり後悔はありませんでした。誰にとってもチームジャパンやチームUSAに入ること自体が大変なことです。だけど僕はそれを成し遂げていたから、それがすでに大きなことだと思っています。自分の国を代表する選手としてスケートができた。

しかも2つの国の。とても珍しいことですよね。
もう一つ質問です。あなたがスケートを始めた頃、憧れていた選手は誰ですか?

それは間違い無く、高橋大輔ですね。彼はその当時の技術的に最強と言えるジャンプを持っていなかったけど、彼の芸術的な滑りを見るのが本当に楽しみだった。彼は毎年進化していっていたしだけどその一方で彼は僕があったスケーターたちの中で一番謙虚な人でもあった。だから、高橋大輔さんですね。

誰があなたに影響を与えているか、誰を尊敬しているかということは大事なことなので聞きたかったんです。
それじゃあ最後に、日本のリスナーに日本語でメッセージをもらえますか?なんでもいいので、日本語でぜひ

「いつも応援ありがとうございます。これからも、新しいコーチングを始めているので、これからも皆さんの応援を宜しくお願いします。」
これでいいかな?w

もちろん、もちろん!ありがとうございます。日本のリスナーはとても多いので感謝します。日本語の翻訳はつけますが、先日も樋渡智樹選手に出演してもらった際にも日本語でコメントしてもらってとても喜ばれましたから。
今日は本当に貴重な時間をありがとうございました。これからのコーチとしてのキャリアにも幸運が多いことを願っています。今後日本での試合やショーでお会いできることを楽しみにしていますよ

えぇ、もちろん。今日は呼んでくれてありがとうございました。


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