平成の終わりに考えていたこと

「平成を終える覚悟ができてない」という、よくわからない気持ちでこの数日を過ごしていた。一つの時代が終わるということは、それまでのことに一区切りがつけられることで、自分や誰かが生きてきた色々を歴史の教科書みたいに要点だけにまとめ上げられて、なかったことにされるような感覚があった。

少し前までは、平成最後の○○なんて、平成最後にかこつけて思い出にしているのを見るたび「平成最後じゃななくても大切にしたいし忘れたくないよなぁ」って心のなかで地味に反発していた。

そんな風に「時代なんて関係ない」みたいなスタンスでいるようでいて、「平成を終える覚悟がない」なんて、自分の方がよっぽど時代性に揺さぶられてるじゃんか、と気づいてなんだか恥ずかしくなった。

そんな自分だからこそ、時代がどうこうなんて大きい主語ばかり使ったり、テイよくまとめたりしないようにしたいと思う。毎日の発見や出来事や感情、ひとつひとつを味わって、要点だけをさらわず地道に言葉にしていきたい。

その分、実態や気持ちのない言葉は、平成と一緒に置いていけたらいいな、なんて思ったりする。でもそんな都合のいい話はなくて、自分でやってくしかないんだよな。

置いていくの反対で、時代が変わっても続いていくだろうし、続いていってほしいと思うものもある。それは、うまく言えないけど、人間らしさみたいなもの。

この前、昭和生まれの人と話していたとき、ポケベルやガラケーの話になった。技術の進化の凄まじさを感じつつ、人間が誰かを思う気持ちは、ずっとずっと続いてきたんだな、と思った。手紙もポケベルの14106も、ガラケーのメールでもスマホのラインも、ツールは変わっても気持ちはおんなじだ。もし高校生のときのわたしが昭和の恋する高校生と会えたなら、気持ちを分かちあえるような気がする。

だから、時代が変わっても人間の根本みたいなものは途切れるわけじゃないし、大丈夫。別に覚悟なんていらなくて、これからも誰でもない自分を続けていくだけだ。それをどうにかするのは時代の変化じゃなくて自分自身だっていい聞かせて、また明日からやっていこ。



#日記 #平成最後


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