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「ごめんなさい」と「ありがとう」の、ちょうど間にできる言葉を食べたい。


食事が、官能的でした。

あなたに会う日だけ、前髪が上手くいかないのは誰の悪戯でしょうか。あなたに会う日が多くなってきたから、もう着れる服がなくなってしまいそう。化粧水の減り、前はもう少し遅かったのにな。人生の家計簿に、あなたの名前が見え隠れしている。あなたに会う日が決まった瞬間から、息が欲しくて生き苦しい。あなたと肌を重ねることよりも、こうして向き合ってごはんを食べること。その方がよっぽど手に汗が溜まる。聴きたい音楽とともに。コンビニで下着を買う、だってあなたのことが好きだから。


「やめてよ。」

あなたの味が忘れられなくなってしまう。
あなたの匂いが忘れられなくなってしまう。

けれどそれを何より望んでいたのは、わたしでした。



仕事とは違う疲れを感じるようになった。
この正体が"疲れ"なのかもわからない。わたしはいつも証明を欲しがってしまう。

体調を崩しました。
わたしの心は、心で決まってしまう。
簡単に強くもなれるし、簡単に弱くもなれる。天の邪鬼になり、わたしは穴の奥へ落ちている。

家に体温計もない。
ただなんとなく身体が熱い気がする。
外から流れてくる風が冷たくて、とっさに窓を閉めた。身体を動かすこと、声を出すことも怠い。でもわたしにはその日どうしても外に出なければ行けなかった。だってその日は"彼とのデートの日"だったから。

別に向こうはデートだと思っていない。
そんな後付けをいつもしていて、それだけで喉を縛られているよう。もうこれも何回目?って。自分で自分に聞いている。


わたしには大好きな、愛している"彼"がいました。

彼とすること。
ごはんを一緒に食べたり買い物をしたり。お酒を飲んでお話をしたり。本当に普通の友達みたいだ。彼のことだったらなんだって知りたい。それを努力だとも思わなければ、欲張りだとも思わない。わたしは彼と、一緒になりたかったから。


約束の10時まで、あと3時間。
わたしは身体に鞭を打ち、あまり気に入っていない少し厚手のカーディガンを羽織った。もっと顔も準備したかった。髪型も、肌も、心も。それでも時間だけが無情にも過ぎていく。早く出ないと間に合わない。いつだってわたしは待たせる側になりたくはなかった。


よし、行こう。
家の玄関を押そうとした。
そこで固まる、全身が。
いつもの玄関ではない、大型トラックを触っている時みたいな重量感を覚える。


「あ、」

宙にその言葉を放った。
わたしは洗面台に戻り、胃液を数滴吐き出した。

「苦しい、でも行かないと。」

心が行ったり来たりしている。
また彼に会えない時間と、無理してでも彼に会う時間を天秤にかけた。わたしは身体をどこかに投げてしまう、その癖を直したかったのに、治したかったのに…


それでも動かなかった。
わたしは彼に、メッセージを送った。

「ごめんなさい、突然身体が熱っぽくなってしまいました。」


精一杯の正直だった。
するとすぐに彼から電話がかかってくる。

わたしはわざと数秒待ってから、電話に出た。


「もしもし。」

彼の声が、少し荒かった。
沢山言われた、言ってくれた。
どうしてもう少し早く言ってくれなかったのか。どうしてもっと早く頼ってくれなかったのか。どうして、どうして…と。

わたしはスマホを耳に当てたまま、項垂れることしか出来なかった。彼とわたしは同じ街に住んでいる。少しだけ期待してしまった。それも「ごめんなさい。」



「今からしをりさんの家に行くのでじっとしていてください。」

彼は、わたしの家を知らない。
わたしも彼の家を知らなかった。
ただ同じ街に住んでいること、それだけはお互いに話していた。

「どのあたりですか?」
「どのマンションですか?」
「何号室ですか?しをりさん、しをりさん…」

わたしは応えた、答えた。
わたしの家に来て欲しかったから「ごめんなさい。」



インターホンが鳴る。
わたしはメッセージで「鍵は開いています」と送った。大型トラックのような玄関は、軽々と開く。

狭いわたしの部屋に、息を荒くした彼がいる、存在している。不思議な時間の始まりだった。わたしはその瞬間を思い出しただけで涙が溢れてくるのだ。


「しをりさん、僕がごはんを作ります。寝ててください。」


彼はスーパーの袋を両手に持っていた。
きっと、すぐに買って来てくれたのだろう「ごめんなさい。」


わたしは彼のことを知っている。
彼はそんなに料理が得意ではない。
キッチンに立っている姿は初めて見た。だってお互いの家に行ったことなんてなかったのだから。

恥ずかしい。
部屋にわたしの下着が干したままだ。
わたしが男の子であることも、彼にとってはきっとどうでもいいことなのだろう。けれどわたしが女の子になりたい今の気持ちを蔑ろにしてきたことなどただの一度もない。彼は人を、人として見てくれたから。


彼がわたしの部屋にいる。
彼がわたしの冷蔵庫を開ける。
彼がわたしの包丁、まな板を使う。
彼がわたしの、わたしのためにごはんを作っている。

「ごめんなさい。」

彼の後ろ姿。
ずっと見ていられた。
聞こえてくる食器の音が、わたしの生活を許されているような気さえした。


「しをりさん、出来ました。」

彼はおかゆと、食べやすそうなおかずを数品作ってくれた。その後も、ゼリーや薬。わたしのために、わたしのために。

わたしはまた言ってしまった。

「ごめんなさい。」

彼の息はまだ荒かったけれど、わたしの顔を見る時だけは優しかった。

彼の目の前で、彼の作ったごはんを食べる。肌もぼろぼろで、髪型もおかしくて。目も上手く開けれない。わたしが一口、運んだ。ゆっくりと咀嚼する。そのわたしの顔を見て、彼は言った。

「しをりさんには僕がいるじゃないですか。」



縛られていたような喉。
それを解いてくれた。
「ごめんなさい。」ではない。
その時はすぐに言えた。
「ありがとう。」と。

わたしの心は簡単に強くも弱くもなれる。ただそれでも、あなたが来てくれて、わたしの心は強くなりました、根本から。

次はわたしの番。
そう思うのも何回目でしょうか。
けれど、嘘じゃない。
わたしはあなたを愛しているから。


噛まなくても飲み込めるごはんを喉に通す。ただわたしはあなたからの愛を噛み締めている。味がたくさんするよ、匂いがたくさんするよ。わたしはみんなに好かれようといつも必死になってしまう。それを裏返せばいつも泥がついて汚れている。綺麗も不純も繕って、これが本当のわたしって偽りの胸を張っている。

あなたが悩んで辛くて。立ち止まりそうな時、わたしの前で待っていてほしい。誰より早く、わたしはあなたの元へ飛んでいきたい、あなたの恋人よりも早く。わたしの愛の方が大きいとは思わない、大きさじゃないんだよね、あなたはそう言いそう。


「ごめんなさい。」

その言葉を仕舞った。
そして、精一杯渡した。

あなたがわたしの額に置いてくれた。その濡れた布は、少し水を含みすぎていて。でもそのおかげでわたしは涙をうまく隠せていたの。それも気づいていただろうね、あなたはずるいから。

まだ熱は下がらない。
あなたが帰った。そのあと、部屋に残ったあなたの匂いをわたしはわたしの心の小瓶に入れた。いつでもそれを抱きしめられるように、それか一生匂いを放つことなく飾っていたい。同性愛者のわたしが生きていられるのも、あなたがいたおかげで、吸えている。


ベッドに横になったまま。
わたしは両手を天井に伸ばした。
あなたがまだいる気がしたから。
もっと、続いて。

「あなたにはわたしがいるのよ。」

いつの日か。
今度はわたしがあなたの額に、零れる愛をのせるのです。


書き続ける勇気になっています。