「休むこと」の大切さを 休まずに考えたい
頭に刺さって抜けない、その言葉が鬱陶しい。
書いています、今も、これからも。
朝起きるとわたしはいつだって書くことを考えていました。別にわたしなんて素人だけど。でも素人だから負けていられない。才能がないことがわかっていること、それを才能にしようとしていました。
朝起きて、顔を洗う。
ラフな格好のまま、髪を整える。
鏡と向き合い、わたしはその日書くエッセイのタイトルを考えていました。正確には意識もせず、考えるしかない身体になっていました。誰かに頼まれてもいないのにどうしてこんなに考えてしまうのだろうと。そんな夜もだんだんと薄くなっていました。
働いている職場へ向かう。
わたしは早朝から飲食店で働いています。
そこに向かって歩く道でも、わたしは頭の中でその日書くエッセイのことを考えていました。イヤホンから流れる音楽に身をのせ、風に乗る。
『もっと、もっと無意識に努力をしたい。』
競争はしていなかったけれど、わたしは追いつきたかった。それなのに追いつくための準備していた心がどうにも持ちそうになかった。だからわたしは"無意識"を"意識"していました。
別に、派手な生活はない。
わたしの日常に、書くためのヒントは少なかった。でもそれはわたしが変えられるものでした。きっと心を置き去りにしてしまったら、今わたしがいきなり世界遺産を目の前にしても特に何か人生観が変わったりはしない。豪快な人に比べてわたしの動きは小さく、そして特別なことは起きない。
書くことなんて元々ありませんでした。
でも、書くことで溢れていました。
わたしはまだ素人…?
でも、勘違いさせたかった。
「なんでそんなに書いているの?」と。
そう笑われるくらいに書いていたい。
やっとそこで、わたしは変われる気がしたから。
"いちとせしをり"は誰にも頼まれていないのに、何を目的に生きて、そして書いているのか。そんなことを書いている時も考えている。
周りからつまらなそうな人生に見えるくらいに書いていた方が、わたしには性に合っているのかもしれない。そんな心が、強くなる日々でした。
◇
別に実力なんてない。
それでもいい。
でもそのままでもいたくない。
言い訳にはしたくありませんでした。
わたしはnoteを始めて、ここまで200日以上毎日書き続けてきました。書き溜めることは殆どありません。書き溜めたとしても、空いたその日はまた別の書くことにあてていました。noteを始める前には、他にもっと好きなことがありました。でも、なくなっていました。
それでも残っています。
本を読むこと。
喫茶店に行くこと。
今思いつくのはこれくらい。
もっとあるかと思ったけれど、本当になくなっていた。でもゼロではない。確実に残っているものでした。
単純に書き続けているだけでは何も見えてきませんでした。
文才はわたしにはなかったから。
だから、考えるようになりました。
どうして読まれなかったのだろう。どこが駄目だったのだろう。もっと読まれるにはどうしたらいいのだろう。もう、とにかく読まれたい。でも、適当に人の心をつりたくはない。書くことは別にわたしにとって趣味ではなかったから。
わたしは、上手く休めませんでした。
別に関係はそこまでなかったのに。書いていなければ、誰かに置いていかれてしまうような恐怖心があったから。誰かに勝ったり負けたり。明確にそれがついてしまうときもあります。ただ今のわたしだからこそ、手を止めたら自分が簡単に消えてしまう気がしたのです。
それでもずっと手を動かし、頭を目まぐるしく回転させ続けること。それはわたしには出来ませんでした。出来ると思っていたけれど、書くことを仕事にしたいわたしは 徐々にnote以外でも文章を書く機会が増えていました。
しかしながら毎日noteを書くことを止めることが出来ない。むしろ止めたくはない。でもnote以外の文章も書かなければいけない。そう徐々に増えてくる書く生活。飲食店でも働いているわたしにとって、キャパシティはとうに限界を越えていました。
" でも、書かなきゃ。
書けないなんて言っていられない。"
その気持ちが首をじわじわと絞め続ける。
"書くことを休む"と、言い切るような考えがわたしにとっては苦しかったのかもしれません。
飲食店で週5日働き、考えうる他の全ての時間を書くことに注ぎ込んでいました。"noteを書くこと"に注ぎ込んでいたわけではありません。"書くこと"に注ぎ込んでいます。
そのおかげか、徐々にわたしは無意識の世界に入っていました。
書きたい日と、書けない日を分けるのをやめる。実際にパソコンへ文字を打ったり、手で字を書いたりしなくても"書くこと"は出来たから。
例えば飲食店で働いている時の自分の感情。その時の自分は別に機械になっているわけではありません。お客さんに怒られてしまったり、褒めてもらえる時だってあります。それは毎日同じタイミング、同じ言葉がくるわけではありません。
わたしは些細な自分の心の声を撫でていました。従業員との会話も、店内を歩く人の姿も。声色も仕草も。風の音も、空気の匂いも。それを見て、聴いて、感じて。そこに生きているだけでわたしはきっと書いていました。
書く手が止まっても、わたしには本を読む時間があります、喫茶店に行く時間があります。その時わたしは休めていました。心を和ませ、身体を伸ばす。間違いなく休んでいました。でも"書くこと"は休んでいなかったのです。本の中のストーリー、言葉。喫茶店で感じた珈琲の香り、時間の音。心と身体を休めている時間ですら、書くことにそれは繋げることが出来たのです。
「書けない。」
そう思ったら、休んでいる時間に"書くこと"を育てたい。そうすれば書くことだけは休まずに生きられる。
"書くことを休みたい。でも、書きたい。"
そんな矛盾を救う。
自分自身から出てくる文章や言葉と生きる生活が、わたしには合っていたのかもしれません。
「書けない。」
その気持ちでうつむかなくていい。
あなたはそんな時も"書いている"から。
書き続ける勇気になっています。