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『感動するエッセイをお願いします。』


そう、言ってもらえたのか。

小石を蹴り続けて、道を歩けなくなった。
時折子どもに戻りたいと思うけれど、本当は別に今も大人になんてなれちゃいない。こうして甘えて叫んで、涙を流して蠢く。思いっきり泣いたり笑ったりしたいのに。「哀」ばかりだ。文章と向き合おうと思っても、言葉と向き合おうと思っても。それって正解がない。思い込むしかない、ただ不正解は必ずある。だから意地悪なんだ、人を傷つけるのだ。人に嫌なことをされても、それに怒ることもせずに毅然としている君の存在が羨ましくて、狡いと思った。

わたしはこの心と生きている、感受性と生きている。弱くて結構だ、でもわたしは誰かの涙を誘いたいのか?誘いたかったのか?これを書いている時でさえ涙が止まらないわたしは、誰かの隣へ行きたいのか。ひとりは淋しい、でもそれは誰しもがそうなのか。そんなことはないだろう。ひとりにしてほしいと思うことだってある。でもそれを盾にして人を殺してはいけない。わたしたちは共存しているのだから。



最近、わたしのもとへメッセージが来ることが増えた。

ここでは仮にそれを「言葉」と呼ぶことにする。言葉を送ってくれるのは殆どがTwitterからだった。わたしが見たこともない、匿名のアカウントから流れてくる。純粋に見せかけたものや嫉妬のようなもの。褒めてくれるもの、泣いてくれるもの。

それは不思議ではありませんでした。わたし自身が注目される存在になっていると錯覚し、驕っているわけではなく。心の置き場所がなくなり、返事のいらない言葉は誰かに送りたくなるものだと、思う。


以下、自演だと思われてもいい。
そもそもわたしはどこへ行ってもきっと演じているから。

あなたの文章を、毎日、何度も読みました。そして、しをりさん、あなたのことが大好きになりました。これからも期待しています、あなたが届けてくれる文章に。


こういった言葉が届く。
わたしはこうして許可なく言葉を載せているし、そもそもこの言葉にわたしは今も返事をしていない。許されないだろう、けれどわたしはこのnoteを届けてくれた彼女に返したい。


「嬉しい」ではなかった。
わたしはこの言葉をもらいたかったのか。わたしは誰に向けてそれこそ文章を書いていたのだろうか。わたしの職場である飲食店での仕事終わり、身体が疲れ切っていることを誤魔化しながら毎日文章を書いている。昨日だって、家に着くなり7000字弱のエッセイを二時間かけ、涙を流しながら書いた。わたしの涙は、単なる無表情と思ってもらっても構わない。でも、疲れる。泣いてすっきりする、そんな目的で映画を見たりはしない。ただわたしは誰にも頼まれていないのに、気絶するように毎日ベッドに横になる。書いていなければこんなに涙は必要なかった。堂々巡りだ、これもずっと。



先日、編集の人に会った時、

「いちとせさんはどうして文章を書きたいんですか?」

と聞かれた。

それにわたしは

「自分の存在を確かめたいからです。」

そう答えた。今でも思う、どうしようもない答えだった。その後も「じゃあどうして確かめたいんですか?」と聞かれたことは言うまでもない。言葉は詰まりに詰まった。人工知能の反射神経が欲しい。でもわたしが本当に欲しかったのは"届く感性"だったのかもしれない。



Twitterでいただく、言葉の話に戻る。
わたしがこうして毎日SNSに言葉を、そして文章を載せているからなのか。期待してくれる人が増えた。何よりわたしは期待されたいと思い、そのこともnoteに書いている。


そして昨日、こんな言葉も届いた。

いちとせさんのnoteを読んで涙が出ました。ずっと読ませてください。期待しています。そして、感動するエッセイをお願いします。これからも。


「ありがとう、期待してくれて。」

言葉を読み、そう呟いた。
わたしは"感動するエッセイ"をお願いされている。
そうか、わたしはこれからも感動するエッセイを書いていればいいのか、とはならなかった。


その時わたしは編集の人に言われた"どうして文章を書きたいんですか?"という言葉を思い出す。

言葉や文章を書いていたい。それ以外にわたしにはやることがなかった。やりたいことがなかった、やってもそれは出来ないことだらけだった。それでも"書くこと"が"出来ること"かと聞かれたらわたしは物凄い速さでお茶を濁す。

やること全てがわたしにとってストレスだったのかもしれない。仕事をすることも、人と会話をすることも、街を歩くことも、電車に乗ることも。生きているのであれば避けることの出来ない、そんな全てがわたしにとって"負荷"だった。

書くことに流れ着いたのか。それともわたしはここへ来る運命だったのか。それはわからない。ただひとつ言えることがあるとすれば、わたしは"手離した" あらゆるものを。意識していたわけではない。ただそうなってしまった、結果的に。仕事をすることも、人と会話することも、街を歩くことも、電車に乗ることもやめた。


そして気づけばわたしは涙を流しながら手を動かし、書いていたのだ。


自分の存在を確かめるように。

文字を生み出し、言葉を繋ぎ、文章にした。

するとどうなったか。
仕事をすること、人と会話をすること、街を歩くこと、電車に乗ることが。手離したはずのことがまた戻ってきたのだ、勝手に。いまでもまだ出来ないことがわたしには多い。わたしは人としての能力は劣っていると思う。別に「そんなことないよ」と言われたいがための布石でもなんでもない。ただわたしは光る場所を知っているから。書いて、読んで。見て、感じて。それが出来る人間であること、そのことがわたしにとって"愉しい涙"だった。



女性は子どもを産む機械だとか、夫は妻の生活を潤す機械だとか。子どもは親が出来なかったことを代わりに叶える機械だとか。


わたしは人を感動させるための機械ではない。
それでもわたしはお金をいただき『感動するエッセイをお願いします。』と言われたとしたら、無表情で「はい」と答えるのだろう。けれどその違いをわかってほしかった。

君も"人"だし、わたしも"人"だ。
ただそれだけのことなのに"機械"はすぐにそのことを忘れてしまうみたい。

演じる時だって、心がある。
身を削らなければ納得のいく文章を書けなくなった。涙が瞳から溢れて、初めて"苦しい"とわたしは思えた。大きな声で言わなければ「好き」が伝わらない気がした、そんなことはないのに。




ここで、わたしの涙は止まる。
止まるというよりは、止めたのだ。

noteや、それ以外の場所でも。
多くの人が血を使い、涙を削いでいる。

それはエンターテイメントではない。
自分の"正直"が映し出された言葉や文章が、結果的に人に届いたり響いたりするのだろう。涙を武器にしたいわけではない。それでもわたしは他人の涙を見て、何も感じない人にはなりたくない。涙を見なければ人の感情が分からない人にはなりたくない。


どんな場所であっても、"書いている人"をわたしは尊敬している。選ばれている人に嫉妬することは勿論あるけれど、それ以上に。

『感動するエッセイ』
読んだことを、わたしは何度もある。
これを読んでいるあなたにもあるかもしれない。

ただそれは同時に、わたしたちは感動する心を持っていたということだ。それくらいは、誇ってもいいでしょう?


書き続ける勇気になっています。