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わたしは"本気"が怖いけれど それでも本気で書いている人の近くにいきたい


見たくなかった。
「すごいな…」と。

そう溢すしかなかったわたしは同時に何かを落としてしまう。


「やってられないや。」

わたしはまた暗い部屋に蹲る。
大して座ることのない、わたしの家には黒いソファがある。そのソファの端が白くカビていた。わたしはそのカビを手で直接撫でる。そしてわたしはそれを撫でたことを忘れてまた自分の目を擦るのである。

撫でられたかった。
無機質ではない、その身体が欲しかった。
女の子だけが柔らかいわけではない。愛する人の肌は全てにおいて柔らかくて、触れたら最後 現実に戻ることを忘れてしまう。



血が飛び散る。
その言葉がわたしは"苦手"だった。
けれどそれはただの「逃げ」だったのである。でも逃げてなにも悪いことなどなかった。其れ相応の人生が必ずついてきてくれる。努力は裏切るけれど、怠惰は絶対的に信頼できる絶望だった。

わたしは少し美味しいものが食べられたら満足なのか。惨めな生活かどうかは自分で判断すれば良かった。それなのにわたしは大袈裟に自分を悲観し「このままでは駄目」だと、無意味に手首を切り刻む。


" 本気になったら出来るだろうか。"

わたしはずっと怖かった。
報われたことがなかったから。
でもそれはわたしがそれまででしかなかっただけであった。わたしたちは日々本気で生きている人に殺されている。みんな平気な顔して生きているけれど、わたしも含めてみんな死んでいた。


" 憧れている人がいるだろうか。"

ずっと昔から憧れることなんてなかった。
だって何も目指していなかったから。
わたしにとって憧れるという行為は「いいなあ」とか「素敵だなあ」とかではない。全てその人を一滴残らず飲み干して。最後にはわたしもその人の隣か、もっと言えばわたしがその人の前を歩いていたかったのである。


可愛くなりたいとか。
スタイルが良くなりたいとか。
あの会社で働いているあの人になりたいとか。自分には叶わないけれど、自分もそれに近い人になりたいとか。

全然足りなかった。
憧れのあなたを殺して あなたに憧れている全ての人に、またわたしは憧れたかったのである。



書いていたかった。

別に他にやることがなかったわけではない。わたしはこれが良かったし、これが自分がするべきことのように思えたからだ。

書くことなんて愉しくはなかった。
でもすぐそこにあった崖がなくなり、足を付ける地面が突然現れてくれるような。そんな昔によくあったRPGのギミックみたいな現象が書くことで起こる。

でもそれに安心しきっていたら、わたしの嫌いな君が奥でほくそ笑んでいたりする。悔しくて、不幸せで。それでもわたしはこれしかないと勘違いしながら生きることしかわからない。目的地の地図を渡されたけれど、その地図はただの一本道だったのである。



ここ最近のわたしは"書くこと"について何度もnoteに書いてきた。わたしがこれから書いて生きていくためのこれは今苦い思い出になるのか、それとも記憶にすら残らないくらい未来のわたしは別のことをし始めていたりするのか。


わたしは女の子ではなかった。
ただそれだけのことでわたしの"書くこと"の道は枝分けれしてしまっているようだった。ライターとかエッセイスト、コラムニストとか作家とか。そんな一言で纏められるような人間になりたかった。それこそそこを目指す道は一本道であったはずなのに、わたしは勝手に新しい地図を作って周りを永遠と彷徨い続けているようだった。


そして何より、わたしは優しくなかった。

余裕がない。と言うことも勿論あるかもしれない。けれど今もこれからもわたしは誰かに手を差し伸べるというその行為そのものを躊躇い続けるのだろう。

それはまさしく自分が一番可愛いことに繋がっていた。

わたしが手を差し伸べることによって。誰かが可愛くなることが悔しくて許せなかった。自分の力を自分に使おうとする時ほど自分の力は小さく感じるのに、何故か自分が誰か他人を持ち上げたり褒めたりする時に限って自分の力が増えてしまう気がして怖かったのだ。



それでもわたしは誰かに憧れ始めていた。
書くことを仕事にしたいと思えば思うほど、わたしより可愛い人が沢山見つかった。

これは容姿の話ではない。自分のやりたいことをやって。むしろやれることをやって。そしてその過程をひけらかす事も無く。当たり前のように苦悩し、他の選択肢を排除し。ただ書くことで生きるために悶絶している人が美しくてわたしにとっては" 可愛かった。"


その人はきっと"本気"だった。
それで生きていたから。書く手を止めてしまえばその未来は簡単に濃い黒になってしまうからだ。けれどきっとその人は"本気"だなんて思っていない。ネットで「本気」と調べれば、そこには「真剣な気持ち」「真面目な気持ち」といった意味が並ぶ。どれも正解だ。


ただわたしは国語辞典に載っている

「冗談ではなく、心からそう思っていること。」

それにただ近づいてみたかったし、近づくことを拒んでいる場合ではなかったのである。



わたしは本気だ。
けれど今、先を歩き本気で進んでいる人からしたらわたしは卵からきっと産まれてすらいないだろう。

考えてしまうことは山ほどあった。
自分にあったメディアを探したり。そもそもそこに選ばれるための文章を見てもらったり。そのために書く時間を作って。そしてわたしの性別が女の子でないことや、わたしが書きたいことをどこまで優先できるのか。収入とか。それこそわたしに足りているはずのない文章を書くそもそもの力とか。世間が求めているキーワードをどこまで拾えるかとか。応募条件にあるWEBメディアやブログでの執筆経験が1年以上ある人でないといけないこととか。


わたしはこのnoteを始めたのは今年の1月1日だった。

ここでの活動を"執筆"という言葉で表現して良いのかいつも悩んでしまう。ただそう言えたとしてもわたしの経験値はそもそもまだ何処にも到達できてない。変な話何もしていない人とスタートラインは何も変わらなかった。


そんなことを考えながら日々noteを書いて更新していて。すると最近少しずつ変化が起こるようになった。それはわたしのことを"可愛い"と言ってくれる人が増えてきたことだった。



わたしはnote以外にTwitterもしている。

同じく"いちとせしをり"として日々ツイートをしている。noteを始めた時や、そして今も思っているのだけれど。noteにはTwitterのようなダイレクトメッセージの機能がないことがわたしの痒みを増幅させる原因にもなっていた。

だからこそわたしはTwitterをしていて良かったと日々思っている。

書くことをしたいと。
わたしが独り言のようで、けれど誰かに訴えかけるように日々noteで文章を書いていたらこんな言葉を少しずつ送ってもらえるようになった。


少しでも力になれたらと思い私もしをりちゃんが輝くメディアを探してみたのですが、意外に応募先はあるものの、ここだという場所はなかなか… 難しいなあと思ってしまいました。


今、どうにかして「いちとせしをり」としての収入を生み出せないかと考えている私がいます。

(※勝手に引用してすみません…でも、本当に嬉しかったんです…)


この言葉を送ってくださった方たちはわたしの大好きな、noteでも そして他の場所でもまた活動をされているふたりだった。


「なんで、」
と、素直に思ってしまうわたしがいた。
これはまさしくわたしにとって"手を差し伸べるという行為"だったからである。これを送ってくださったふたりはそんなつもりはなく、そして他の意味を持ってこれを送ってくださったのかもしれない。それでもわたしにとって大きすぎるそれは純粋な"優しさ"だったのである。



"本気"は怖い。

わたしは大人になってから。
本当に何処にでもいるようなサラリーマンだった。四年制の大学を卒業し、そのまま就職浪人をする事もなく"普通"に会社に就職をした。

とても恵まれた会社だったと思う。
ただ当たり前に辛い事もあった。
そして何より働いている時は自分の"弱さ"に気づくだけで精一杯であった。自分から何かを生み出そうとするのは二の次 三の次だった。そして自分のことを守ることだけに必死だったのである。


本気になれるはずなどなかった。
そもそも会社で働いている時のわたしは頼まれた仕事をやっているだけだったのだから。自発的に何かをする人間ではなかった。与えられた仕事すらこなせていなかったのだから当然といえば当然である。

そして結果的には会社員生活は上手くいかず、転職も経験した。それでも生きていたその4年弱は儚くも苦いだけの人生であった。



そして今、わたしはここで生きている。

noteを書いて、自分の"書くこと"で生きるために日々生きる場所を探し応募する生活をしている。目に見えて前進などしていない。全てが手探りで、知っている人からしたらわたしのこの行動や生活は滑稽で陳腐なものなのかもしれない。

それでも進もうとしているのはわたしの人生で初めてだった。

わたしが会社で生きている時。わたしは生きていなかったのである。命の話ではない。生きている理由みたいなものである。


これからもわたしは特に大きな成果をいきなりあげたりは出来ないかもしれない。それでもわたしの姿を見ていてほしい。そのためにわたしは日々"本気"なのである。

何処かのnoteで読んだけれど、noteって別に誰しもが続けなくていいものだったのだ。本当に当たり前だったのだけれど、きっとみんなその事実から目を背けている。

毎日更新とか、別にしなくてもいい。
だから出来ないと悩む必要もない。
そして何者でもないわたしもあなたもnoteがなければ「noteが書けない」と悩む必要もなかったのである。

それでもここにいる理由を探していた。



わたしはnoteの"外"で書く会がしたい。

ここ最近思っていることである。
わたしはこうして日々noteを更新していて。でもこの未来って結局どん詰まりなのである。そうでなかった人もいる。けれどそれはほんの一滴だ。その一滴の甘味は目指すところではなかった、少なくともわたしは。

編集部のおすすめに取り上げられようが、それって正直"それ"でしかない。勿論僻みだってある。わたしもおすすめに初めて取り上げてもらった時や、今でもおすすめに取り上げてもらえた時は本当に詰まらなくて申し訳なくなるけれど ただとんでもなく嬉しかった。


noteはこうして大きくなり続けていて。
この瞬間も何百という数でnoteが更新され続けているのだろうか。それなのにわたしは自分で「良いnoteが書けた」と思えば、おすすめに取り上げられるのではないかと心を無様に揺れ動かしてしまうのである。

これはおすすめへのアンチテーゼではない。ただnoteの中だけで生きているわたしの未来がとんでも無く暗く感じてしまったのである。

それでもわたしはここで生きている。
なぜならわたしはnoteがなければここまで間違いなく歩いてこれなかったからだ。本当に面倒臭い性格だと我ながら思う。


だから、結局は"書きたい"

本気で書いて生きていきたいと思う人、もしくはもう本気で書いている人がいるのであればわたしに声をかけてほしい。"あなたを"読みに行きます。


noteを書く会ではなく。
noteの"外"で書く会。

そんなことをわたしはしたい。
手を差し伸べるのがわたしは苦手だから。
だからわたしは本気で書いているあなたと手を繋がせてほしい。書いているあなたのことは好きだけれど馴れ合いをしたいわけではない。


あなたとわたしが優しく生きて、より強くなるための。

それをこのnoteで少しでも生み出したかった。

noteはずっと書いていなくていい。

わたしたちの悩むべき場所はもっと"外"にあったのである。


書き続ける勇気になっています。