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世界観と体感が五感に制限をかけていた〜自然な音をめぐらせる〜

こんにちは!明日美です。

風が金木犀の香りを運んでくれる季節になりました。
近所では、庭木として育てておられるお宅が多いので、この季節、駅までの道がなんともいい香りです。

今日は、
「世界観と体感が五感に制限をかけている」
というテーマについて書いてみようと思います。

しばらくの間、瞑想が日課になっていた時期がありまして、ある時、音が鮮やかに入ってくる体験をしたのですね。
茶の湯のお稽古でもクリアでとても美しい音に包み込まれる体験がありました。

大音量ではないのだけど、細かな音や遠くの音、そこに響いている音たちをハッキリ捉えているような感覚でした。

昔から、私は「耳」や「聴く」に自信がなく、英語のヒアリングも苦手でしたし、人の話を聴くのも不得意、ラジオや音楽もあまり好んでかけません。テレビ然り。
ただ、学生時代はストリートダンスに感化されていたので、重低音の響き渡る中で夜な夜な踊っていました。
ダンスミュージックは好きなので、たまに聴くとまだウェーイとなります(笑)

話が逸れました!
そんなクリアに音が聴こえる体験をしたので、この数年、生活の中でもしかしてかなり「聴く」ことに緊張と制限があるのかも??と思って過ごしていました。

そんな私でしたが、最近、自分の内側で重力を放っていたものたちに気づく機会に恵まれまして、その中で

「聴く」ことを拒んだ

自分に出逢いました。
耳を強い力で塞いだ幼いわたしです。

小さい頃に自分の中に沸いた感情を受け止めることができず、その感情を抱いたことによる大好きな人への罪悪感から、自分の声に耳を塞ぐようになったようなのです。

自分の声も、周りの声も音も、常に耳栓をしてうっすら聴くような??(笑)
音が痛いものみたいになっていたのですね。

常に聴かないように不自然に頑張っているものだから、耳周りの凝りがすごい。

そんな幼い自分を迎えに行きました。
怖かったね、痛かったね。
そんなこと感じたくなかったね。
感じて大丈夫だよ。

もう大丈夫だからねと。

何度も何度も。
幼い彼女がゆったり解けていくまで。

そうして、ある時、
自分の本体の温かな静けさの中に彼女が還っていきました。
ようやく「おかえり」と言ってあげられた、そんな感じがしました。

そうすると、耳周りの凝りまで次第に解けていったのです。

「音」が痛くて恐ろしかった世界観
必死に聴くまいとしていた体感

この二つが自然に還っていったのだなと思いました。

そんな体験をしてからですが、不思議と「出た」音を褒められることが続いたのです。

お稽古でお茶碗にお湯を落とす音。
たまたま発した自分の声。

恐ろしいと思っていた「声・音」。
それは聴くことだけでなく、いつしか、発することすらも申し訳なさがつきまとうようになっていたのかもしれません。

発したものは還って、めぐっていく。
私はそんな緊張の音を巡らす世界に生きていたのだなぁと思いました。

これからは、解けた自然な音を放ち、受け取り、巡らせていく。
そんな風に生きていきたいな。
そんなことを想いました。

世界がまた一層、美しく温かく深みを増しました。

いつもありがとうございます!

温かな静けさより愛と祈りを込めて🌈
今日も素敵な1日を。

明日美

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