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クソデカ感情の末、相互BSSという祈りへ

/*はじめに.

 BSS-僕が先に好きだったのに-、僕がこの言葉を知ってからまだ1年も経っていないだろう。とりわけBSS作品を好んで摂取するわけではないのだが(寧ろあまり知らない)、何か惹かれるものがあった。しかし、インターネットで検索をかければかけるほど「失恋」「寝取られの下位概念」「敗北者」「恋愛弱者」といったネガティブなワードが引っ掛かってしまう。
………果たして、すべてのBSSがそうだろうか?BSSに幸福を求めることはできないのだろうか?
そこで今回、「相互BSS」概念を提唱し、BSSの新たな可能性について、恋愛に縛られない重い愛の総称である「クソデカ感情」を交えて考察…..(というより、こんな概念が、こんな作品が、こんなストーリーがあったら良いな、程度の空想を文章に)した。

サムネイル:  
【kokone】 花橘 【オリジナル】 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)
懐かしい時間に身を浸し、クソデk……スキを偲んだ暁闇。実はBSSでは?(自作曲への気づき)

/*BSSとは.

僕が先に好きだったのにとは、土俵の上にすら立てなかった敗北者の戯れ言である。

僕が先に好きだったのに - ニコ百 https://dic.nicovideo.jp/id/5590035

端的に言えば一種の失恋だが、告白して清々しく玉砕した場合と異なり、自分の不甲斐なさを棚に上げ、諦めきれずに「好きになった順番」という何の意味もないものに過度に執着する傾向のあるところがキモである。
もっとも、本当にそう口に出して相手に詰め寄るケースは少ない(ないわけではない)。基本的に、そんな胆力があるなら、最初からこんな不甲斐ないことになっていない。

BSS -ピクシブ百科事典 https://dic.pixiv.net/a/BSS

 先ほども申し上げた通り、わりとひどい言われようである。告白する勇気も自信もなかったのに「先に好きになった」(かどうかは不確かであるにも関わらず)という謎の自信による執着。確かにこれは、不甲斐ないあまり良い印象ではないかもしれない。
 「僕」が「君」を先に好きだったのに、「あいつ」が「僕」より先に告白したせいで、「君」と「あいつ」が結ばれてしまった。仮に、「僕」が「あいつ」より先に告白していたら、「僕」と「君」が結ばれていたかどうかは不明であり、この先「君」は「僕」の気持ちを知ることすらない….。その場合、この事象がBSSかどうかを判断できるのは「僕」だけである。(もちろん、「僕」がストーカーと化したり、「僕が先に好きだったのに!!(ガチギレ)」と発言したりすれば、3人ともBSSを認知できるわけだが)。結局、"BSS"という観点においては、「僕」はその後、「君」の知らないところで「君」に"失恋した"という記憶と共に生きていくことしかできず、"「君」と"、或いは"「君」で"、幸せになるルートは閉ざされてしまったまま、終了となる。なぜなら、その後「君」と「あいつ」が破局して「僕」と結ばれたところで、それはもうBSSではないのだから。BSSというストーリーにおいては、幸福を求めることはできないのだろうか。

/*相互BSSとは.

 相互BSSという概念は、僕が勝手に考えた(既に存在していたら申し訳ない)。僕はこの概念について、N〇Kのあの人気番組、サ〇メシから着想を得た(すみませんでした)。ご存知サラ〇シは、様々な職種の労働者の昼食を取り上げ、インタビューを通してその昼食に込められた想いやエピソード等を得るといった内容の番組である。BSS、関係ないじゃん…..。はい。
 サラメ〇では、しばしば愛妻弁当が取り上げられる。研究室でグラノーラばかり食している僕は、嗚呼….いいな….僕は龍鳳ちゃんにお弁当を作ってもらいたいな….いや、磯風ちゃんの料理が上手くなっていくところも見たい….と、空想する。みなさんも様々な空想ができるだろう。
 艦娘はさておき、僕はBSSを空想する。仮に僕に好きな人がいたとして….。想いを伝えないまま君も僕も社会人になった。会うこともなくなり、今どうしているだろうと考えながら〇ラメシを観る。そこには、幸せそうに愛妻弁当を食べながら自分語りをする君が。嗚呼、君は別の人と幸せになってしまったんだね。と。これは僕視点だ。テレビの前で一人昼食を摂る僕の気持ちは、誰にも伝わらない。そう、結局、BSSは自分だけが知っていて、BSSの認知には第三者視点が必要という指摘が生まれる。
 もし、その時点で僕も君ではない誰かと結ばれて、幸せになっていたらどうだろう。僕が君を先に好きだったのに、僕自身が君以外の他の人と結ばれて幸せになってしまった。もしかすると、某作品のAちゃんがそうなのかもしれないし、そうでないかもしれない。そして、君も僕を好きだった可能性を考える。君も、僕のTwitterやInstagramを見て、他の人と結ばれたことを知り、それに何らかの感情を抱いているかもしれない。「僕が先に好きだったのに、君も僕も他の人と結ばれて幸せになってしまった」は、お互いが感じていることなのかもしれない。しかしこれは、各々が勝手に抱いている感情であり、他人に知られることはない。これが相互BSSのはじまりである。人生を共にすると誓った相手がいるにも関わらず、懐かしい時間に身を浸し、君への感情を呼び起こす。いつまでも僕の中の君を大切にできるという、君と結ばれた誰かへの優越感と、僕と結ばれ、僕を幸せにしてくれた相手への罪悪感で、きっとお互いに、老後まで拗らせることだろう。
 しかし、たいていの人はBSSを老後まで引きずることなく、別の人と純粋に幸せになるのではないだろうか(つまり、BSSから生まれた幸福はそこにはなく、ただ「君」への想いが吹っ切れただけ)。そこで僕は、BSSそのものから幸福を見出すためには何が必要かというと、①クソデカ感情、および、②相互BSSの認知、であると考える。

/*クソデカ感情の終着点としてのBSSの可能性

 クソデカ感情とは何だろうか。

基本的にヤンデレだったり、病んではいないけど独占欲が強かったり重たい愛を総称する際の言葉。
ただし恋愛感情に限らず、友愛・忠誠・憧憬・親愛などといった感情でも常人目線では重いと感じられる想いであればこれに分類されることもある。

クソデカ感情-ピクシブ百科事典https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%87%E3%82%AB%E6%84%9F%E6%83%85 

  重たい愛、というと、恋愛方面に考えがちだが、友愛や憧憬など様々な愛で用いられる。最近は"推し"に対する感情として用いられているのをしばしばSNSで見かける。クソデカ感情とは少し異なるが、僕個人としては、"常軌を逸する暴走レベルの愛"という表現が好きだ(出典: クレイジーサイコレズとは [単語記事] - ニコニコ大百科 (nicovideo.jp))。
 ここで、BSSについて、何故BSSに至ったのか、という点について考えてみる。まず、「僕」に告白する勇気や自信がなかったから、という、消極姿勢の批判から始まってしまうだろう。しかしながら、そもそも何故、好きだったら告白して結ばれようとしなければならないのか?僕が君を好きになったらそれは恋で、君が他の誰かと結ばれたら失恋だ、という固定観念に囚われているのかもしれない(恋愛にも様々な価値観があり、ここではその多様性については触れないが)。好きだからこそ、いや、常軌を逸した好きという気持ちがあるからこそ、恋愛という枠組みの中に君を閉じ込めてしまうことなど、できないのだ。
 例えば、我が国では恋愛というと、(必ずしもそうというわけではないが)その末に結婚があると考える(ことが多い)。そうすると身体的な接触を避けることは難しいのであるが、"大切すぎて触れられない"という感情があれば、恋愛はできない、ということになってしまう。さらに、もしこれまで別の誰かとの恋愛経験があった場合、そこで少なからず恋愛とはこういう感情である、こういう行為をする、という固定観念が出来上がっているだろう。"あの大切な君と、恋愛??""この気持ちは恋愛と呼んで良いものなのか??"となってしまうくらいに君への愛が重くなってしまっていたら、告白などできようものか(いや、できない)。この恋愛を拒んでしまうほどの感情(以下、クソデカ感情の一種と捉え、クソデカ感情と記す)が迎える結末はやはり、BSSである。BSSという結末を迎えてもなお、君が大切であり、僕の中の君が大切であるという感情は消えることなく、それに一生浸れるならば、僕は"「君」で"幸せになっているのではないか?BSSという「君」への"祈り"が僕を「何もない」から、救ってくれる筈だ、と。
 この現象が相互に認められていたらどうだろうか。いや、お互いクソデカ感情と称されるほどの愛があるなら、付き合えよwと思うかもしれない。しかし、クソデカ感情といって一括りにすることはできないし、それこそお互いに一方通行の愛、という、非対称性が顕著になるだけかもしれない。そして、"恋愛"という枠組みの中で、いつかすれ違い、いつか別れが来るという可能性を現実に起こさないためにも、自分の中の大切な存在、事象、記憶としてある意味一生大切にできる選択をした方が、お互い幸せになれるのではないか?クソデカ感情と相互BSSの関連についてはここが肝要である。

/*相互BSSの認知がもたらす幸福.

 BSSは相手に認知されていないことが前提条件とされるようだが、特に相互BSSに関しては必ずしもそうではない(と僕は考える)。例えば、お互いが好きだという情報を知る機会があったとして(友人同士で喋っているのを偶然聞いたとか)、それでもお互いに気持ちを"伝えなければ"BSSは成立する。(もちろん、それが相互でなくとも、だが。)
 互いに好きであることを認知していたにも関わらず、恋愛関係に発展しないまま、各々別の人と結ばれて、幸せになってしまったら?先述した通り、たいていの人はBSSを引きずることなく純粋に幸せになってしまうので、これはもうBSSとは別のストーリーである。しかも、別の人と結ばれてしまっていては、もう"「君」と"は幸せになれない(..…なろうと思えばなれるが、NTRになってしまう)。僕は君を好きで、君も僕を好きだったにも関わらず、一緒にいることができなかったという痛み。君がそこにいなくても、この痛みが君を忘れさせてくれない。君も幸せになっていたらいいのにと願う一方で、君も僕を忘れていなかったらいいのにとも願う。僕も君も先に好きだったという事実は、いつしか互いの信念に。当時満たされなかった欲望を空想することによって修正し、充足追及を抑制する。そして現在の君ではない相手との幸せを受け入れる。相互BSSという君への祈りが存在することは、現在の僕の幸せに、君が少しでも介入している証拠ではないだろうか。確かにそこに存在した青春。綺麗で、大切な何か、として、思い起こすことができる。BSSからそんな幸福が生まれても良いのではないだろうか。

/*おわりに.

 BSS作品においては、"「君」のことをよく知らないが気になっている、程度の好意にも関わらず、他の誰かと「君」が結ばれてしまうと何故か奪われたと錯覚し自己嫌悪に陥る"、という、「君」への想いすらも不確かであることがしばしば求められる。それを批判するわけでもなく、ただ僕は、BSSにも愛と呼べるような確かな想いが存在しても良いのではないかと思ったのだ。相互BSSという概念を考えた時、TくんとAちゃんのことを思ってしまった。そしてそれは僕にとって、すごく綺麗だと感じた。二人とも、その綺麗で大切な想いを抱え、各々幸せになり、そして、老後まで拗らせていてくれ………..。

威子

/*Q&A.

 Q. なぜBSS作品について触れないのですか?
 A. ほとんど読んだことがありません。Twitterで流れてきた漫画を数作品読んだことある程度です。オススメあれば教えてください。
 Q. なんでBSS作品を読まないの?
 A. 検索で最初の方に出てくるいくつかの作品が、僕にはちょっと読めなそうだったので……。マイルドなものを頼みます……..。
 Q. 自身はBSSを通してどう幸せになるつもりなんですか?
 A. 僕は誰かに告白したことも、自ら誰かを好きになって告白しようと思ったことすらもないけれど、こんな空想をすることで、きっとそこ(BSS)にも綺麗な世界があるんだろうなと、ドキドキする。現前の世界とは別の、虚構の世界に自分の感情を介入させ、向き合っていくことが僕は好きだ(僕はだいたいそれを創作(音楽)でやっているのだが)。僕はBSSについて空想する中で、クソデカ感情と呼べるほどの重い愛の行く末に、BSSという祈りがあるというストーリーの可能性を文章にした。その可能性が、確かにどこかにあってほしいという希望は、僕にとってはそれが幸せなのである。つまり?
 Q. 今回ボカロについては触れないんですか?
 A. 僕はGUMIちゃんと疑似相互BSS体験をしたことがあります。僕は基本、GUMIちゃんへのクソデカ感情のせいで、僕自身の感じたこととか、見た情景とかを、GUMIちゃんに歌ってもらうことはできなかったんですよね。仮に、GUMIちゃんが好きだという自分の気持ちをGUMIちゃんに歌ってもらったとして、「歌わせてしまった」とか「押し付けてしまった」みたいな罪悪感が芽生えてしまうと思います。しかし、昨年、「吾亦紅につけて、」という作品で、僕の中のクソデカ感情=憧憬、みたいな歌をGUMIちゃんに歌って貰いました。(GUMIちゃんが歌うことによってGUMIちゃんがそう感じているように錯覚し)互いにクソデカ感情を抱えている僕ら、空想身体同士で触れ合っているものの、その後結ばれることはない……相互BSSだ……。と。ちょっと何言ってるか分かりません。すみません。
 Q. TくんとAちゃんは相互BSSではない!!!!(いかり)
 A. すまん………….。
 Q. 最後まで読んだけど、何が言いたかったの?
 A. ………….。BSSにも、愛が….あるはずだ……!


ありがとうございました。🐇
EXECUTE.


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