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【短編】水面の陽炎は微笑まない

忘れられない人、あなたにはいますか。

2〜3分で読めるショートショート。
以下から本編です。


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誰のために、と言われたらもちろん自分のためだが、その原動力が必ずしも自分だとは限らない。

深く息を吸い込み、三秒止めてゆっくりと吐き出す。

必要なものすべてがじわりじわりと体の中を満たしてゆき、やがて爪の先まで神経の糸が張り巡らされる。

今だ、と思って体を折り込み、スタートの瞬間を待つ。このヒリヒリした時間が何よりも好きだという変人が、スポーツ界には多い。私も例に漏れずそういう人間だった。

笛の合図と共に、一斉に水面に飛び込む。ざわついた空気にわずかに波打つだけだったプールの中は、やはり別世界のように静かで穏やかだ。包み込まれるようにして潜り込むと、水に背中を押されるようにして一心不乱に前へ進む。

うん、今日はすこぶる調子が良い。なんの心配もないレース。私は自分がこう思える試合で負けたことは一度もない。

一瞬もスピードを緩めずに息継ぎをする。フォームに乱れもない。何もかもが上出来だ。

水を掻き、空気を切り裂き、前に進む快感すら覚えた。いつの間にかヒリヒリした感覚がワクワク感に変わっている。そんな余裕すらあった。

プールの向こう岸で折り返し、後半戦に入る。おそらく私について来られる者はいない。独走状態だろう。

酸素を求めて息継ぎをするついでに、ちらと観覧席が目に入った。ほんの一瞬のことなのに、こういった瞬間の映像は大抵脳裏に焼きつくように鮮明に見える。脳に必要な養分が少ないからそう思うだけだろうか。

その狭い視界の中に、一人の男が見えた。私と同じくらいの年齢で、背は高いが男性の割には少し髪の毛が長い。少なくともベリーショートにしている私よりは長いだろう。

空席の目立つ観覧席で、ただ何もせずに突っ立っている。その下では私も応援してくれる人たちの黄色いメガホンと、手作りの横断幕が見えた。

私は満足して泳ぎに集中し直すと、それからは早かった。独走状態を保ったまま、スタート地点へと舞い戻ってくる。

自ら顔を上げると、案の定後続はまだ全速力を保ったままこちらへ向かってきている。一足先に体を上げ、重力のきつい陸地に立つ。まさに勝者の特権だ。

私は観覧席に向かって手を挙げる。すると黄色いメガホンで私の名前を呼んでくれていた男が、嬉しそうに手を振り返した。はにかんだ笑顔と上気した頬が可愛らしくて、とても年上には見えない、私の彼氏。

コーチが持ってきてくれたタオルを羽織り、プールサイドから控え室へ引っ込む途中、観覧席を立つ男の後ろ姿が見えた。男にしては長い髪が垂れ落ちる背中。

呼吸は落ち着いてきたはずなのに、かっと顔が火照った。泳いでいた時以上に心臓が早鐘を打ち、足元がおぼつかなくなる。そそくさと控え室へと戻った。

部屋で一人椅子に座ると、うな垂れるようにして自分を落ち着かせようと努める。こうでもしないといつまでも舞い上がったままなのだ。

まだ心臓の高鳴りが収まらないうちに、来訪者が現れた。黄色いメガホンを持った男だ。

彼が嬉しそうに私をぎゅっと抱きしめ、頑張ったね、と何度も褒めてくれる。それを聞いて、私は心底ホッとした。心臓はいつの間にか平穏を取り戻している。

そう、私は今日も無事に勝つことができた。調子が悪ければ負けるかもしれない、という程度の試合だったが、やはり彼が見ている前で負けるわけにはいかない。

髪の長い男は、かつて他の追随を許さない悪鬼のごとき速さで泳ぐ、スポーツ刈りの選手だった。しかしそれも学生時代までの話で、彼はあっさりと水泳を辞めた。

当時女子学生の中では圧倒的にトップを走っていた私にとっては、性別は違えど唯一のライバルと言える男だったのに。彼もおそらく同じ思いで競い合い、励ましあってきたというのに。その彼を失った私は、練習することに飽き、将来に絶望すらした。

そんな時に黄色いメガホンの男に出会い、献身的な支えと応援とで再びスポーツ界で誰よりも前を走れるだけの選手になれた。

それなのに、なぜだろう。

時々自分でも不思議になる。なぜ私は、こんなにも応援してくれる彼氏のために泳げないのだろうか、と。

どうしていつまでも私も捨てていった男のために、泳いでしまうのだろう。

今では彼の私生活を、私は何一つ知らない。仕事は何をしているのか、彼女はいるのか、今でも泳ぐことはあるのか。

ただ一つ知っているのは、彼がほんの時々だけ、私の試合を見に来るということだけ。いや、本当に私のことを見てくれているのかはわからない、もしかすると単に知っている選手がいる試合の方が面白いからという理由だけで懐かしく見ているのかもしれない。

ほとんど何も知らないのと同じだとわかりながら、私はいつまでも辞めることができない。あの頃のように、彼に見せるために自分の泳ぎを磨くことを。

彼の背中の幻影を、追い続けることを。



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