eternal return 虚淵玄論

※論じるにあたり虚淵玄作品のネタバレをしています。ご注意ください。



 神様は勇気とか希望とかいった人間賛歌が大好きだし、それと同じくらいに血飛沫やら悲鳴やら絶望だって大好きなのさ。
――『Fate/Zero』


一、八〇年代文化から二〇〇〇年代文化へ――虚淵玄の場合
『魔法少女まどか☆マギカ』のシリーズ構成/全話脚本を手がけた虚淵玄について語ろうと思う。

 まずは彼がどんな作品から影響を受けているのかという歴史の話をし(つまり「縦軸」)、次いで「ゾンビ」つながりでネット上でも『まどマギ』との比較が散見された『ハーモニー』の伊藤計劃と虚淵玄のスタンスやテーマの共時性について語り(「横軸」)、そして虚淵玄にきわだってみられる特徴とその変化を作品史をたどりながら『まどマギ』に至る、という三部構成で話をするつもりだ。

 ひょっとしたら、一九九六年に『新世紀エヴァンゲリオン』に人生を狂わされ、謎本や評論本を買いあさったぼくと同様に、『まどマギ』に人生を曲げられてしまった若者だって、いるのだろう。
 この原稿は、一〇代にはわかりづらい話だと思う。

 けれど『まどマギ』のストーリーをつくったひとが、どんなものを摂取してきたのか、どういう時代を生きているのか、七二年うまれの虚淵玄より一世代下である八二年うまれの人間として、考えてみたつもりだ。

 さらにもう一世代以上下の読者は、「求められなかったから説明しなかっただけさ」――というわけではなく、申し訳ないけれど知らない単語があったらググりながらでも読んでほしい。

 前置きはこれくらいに。

 日本の二〇〇〇年代文化のクリエイターは、おおむね八〇年代文化からの影響を計測することで整理できる。

 根拠は単純。

 二〇〇〇年代に活躍した若手クリエイターはおおむね団塊ジュニア(七〇年前半うまれ)とその前後の世代である。これらのひとたちは、八〇年代に思春期を送り、その時代のカルチャーを摂取している。

 一〇代に得たものを咀嚼した彼らが二〇代から三〇代にかけて生みだした創作物のなかには、かつての摂取物の影響をたやすくみてとることができる。

 それは八〇年代に一〇代をすごした人間たちへの主たる送り手であった団塊世代(狭義には四七年から四九年うまれ)とその前後の世代が、六〇年代から七〇年代初頭にかけての文化や政治状況から大きなインパクトを受け、八〇年代にうみだした作品にその匂いを落としていたのと同様の事態である。

 たとえば笠井潔や四方田犬彦、大塚英志が指摘するように、八〇年代日本の伝奇バイオレンス作品や中上健次作品、冒険小説には、正史を疑いくつがえそうという偽史や稗史を用い、第三世界の人民や「まつろわぬもの」から権力を転覆させんとする反権力的な意志が働いていた。

 これはあきらかに全共闘運動やらロックやらのカウンターカルチャーを栄養に育った世代ゆえにそうなったと考えるべきだ。

 しかしそんな創作物の影響を受けたはずの二〇〇〇年代日本のエンターテインメント・フィクションの多くは、政治性がほとんど脱色され、偽史のダイナミズムを失い、吸血鬼をはじめとするガジェットや、エロスとバイオレンスという表面的な部分が主に継承されることになった。

 八〇年代と二〇〇〇年代ではそもそもPEST(政治・経済・社会・テクノロジー)をはじめとするマクロ環境やフィクションの流通がどう変わったのかといった話が本来であればもっと必要なのだが今回は割愛し、作品と作品の、作家と作家の影響関係に絞って迫っていきたい。

 たとえば二〇〇〇年代前半に隆盛した「セカイ系」というものは、ようするに押井守や神林長平や竹本健治や村上春樹の「資質」を受けついだ作品群だった。

 セカイ系とは、「きみとぼく」の小世界と大状況を直結させたものであり、かつ、エンターテインメントのお約束的なストーリー展開を拒絶して主人公の男の子が何もしない、できないという、反―物語でもあった。

 だからその反―物語的な側面を加速させた、谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』や田中ロミオ『CROSS†CHANNEL』や『最果てのイマ』のように、ジャンルのお約束やその作品自体に対してメタ的な自己言及や仕掛けを施したり、長々と思弁を弄することも、よく見受けられた(谷川は神林と竹本からの影響が自明だし、田中は神林や筒井康隆からの影響がみてとれるメタ志向の作家だった)。

 もっとも、セカイ系の代表とされる高橋しん『最終兵器彼女』、秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』、新海誠『ほしのこえ』はいずれもメタな意匠はいっさいなく、「きみとぼく」の悲恋をある意味ではベタにやりきってヒットした作品ではあるけれど。

 たとえば、三度もアニメ化されているモンスターヒットしたライトノベル作品『フルメタル・パニック!』の賀東招二は、八〇年代の冒険小説や『装甲騎兵ボトムズ』の高橋良輔から影響を受けている。

 たとえば『Fate/stay night』や『空の境界』の奈須きのこは小説誌「ファウスト」のなかで「新伝綺」ムーブメントの旗出として紹介された。
 彼は八七年に発表された綾辻行人『十角館の殺人』以降に勃興した新本格ミステリと、菊地秀行や夢枕獏、栗本薫に代表される八〇年代の伝奇バイオレンスからの影響を公言している。
 つまり新本格と伝奇をかけあわせたものが新伝綺だったわけだ。

 八〇年代を席巻した伝奇バイオレンスの影響は、すさまじいものがある。
 二〇〇〇年代のサブカルチャーを牽引した団塊ジュニアよりも下の世代からは見えにくくなっているけれど(理由はかんたんだ。手軽にリファーできる、まとまった菊地秀行論や夢枕獏論が、どういうわけか存在しないからだ)。

 菊地秀行なら『魔法少女まどか☆マギカ』の虚淵玄はもちろんのこと(彼が一八禁のエロゲーのシナリオライターとしてデビューすることに抵抗がなかったのは、菊地秀行がエロスとバイオレンスの世界を描いていたからだった)、一般的にはセカイ系作品に近しい資質をもつとみなされている『ハルヒ』の谷川流も虜にした。

 夢枕獏なら『マルドゥック・スクランブル』の冲方丁や、『イリヤの空、UFOの夏』の秋山瑞人――彼の『猫の地球儀』は夢枕の『餓狼伝』を彼なりにやろうとしたものだった――も影響を受けた作家だった。

 ただし「資質」を受けついだ、とカギカッコでくくって注意をうながしているのは、伝奇の例でわかるように、実際には影響関係は錯綜しているからだ。

 つまり、押井や神林のファンが必ずセカイ系作家になり、菊地秀行や栗本薫を読んでいた人間が二〇〇〇年代に自動的に伝奇作家になったわけではない。

 同じ八〇年代という時代に青春を謳歌したのだから、神林長平を読む人間はサンライズのリアルロボットアニメも観ていただろうし、船戸与一やジャック・ヒギンズをはじめとする冒険小説のファンの本棚にだって、いちおうは村上春樹の本が数冊あるなんてこともざらだっただろう。

 もちろん、好き嫌いの濃淡はあったはずだ。

 それに、のちに開花させる才能がこのマップでいう左右どちらかに振れているかはひとそれぞれだったのだろう。

 たとえば秋山瑞人はセカイ系の代表格とされているけれど、伝奇からも、ウィリアム・ギブスンやブルース・スターリングに代表されるサイバーパンクからも影響を受けている。

 デビュー作の『E.G.コンバット』はサイバーパンクだったし、古橋秀之との共作『龍盤七朝』は武侠ものだった。
 いちばん売れた作品が『イリヤの空、UFOの夏』だったから彼はセカイ系作家だと思われているだけで、実際にはこのマップに記したたいがいのものに触れているはずだ。

 では虚淵玄はどうだろうか?

 彼はあとがきやインタビューで元ネタになった作品を律儀に挙げているから、影響関係は見やすい。

 デビュー作となったゲーム『Phantom of Inferno』はジョン・ウーをはじめとする香港映画(とくに八〇年代公開のものだ)や『レオン』から。

『吸血殲鬼ヴェドゴニア』は「仮面ライダー」と八〇年代伝奇から。

『沙耶の唄』は手塚治虫の『火の鳥』とラヴクラフトとスティーブン・キングから(キングに代表されるモダンホラーも八〇年代に爆発的に受容されたものだ)。

『鬼哭街』はサイバーパンクと武侠小説から。

『続・殺戮のジャンゴ』はマカロニウェスタン(と触手や異形の生物に女の子が犯されるのはやはり伝奇からだろう)からの影響が公言されている。

 事故からめざめると、沙耶という少女以外は世界のあらゆるものが腐臭に満ちた臓物にしかみえなくなっていた青年を主人公とする『沙耶の唄』は「きみとぼく」の究極にして異形の愛を描いているからセカイ系だろうし、『Phantom』や『鬼哭街』『ヴェドゴニア』『ジャンゴ』はおおむね伝奇や冒険小説/ハードボイルド系だ。

 虚淵玄はセカイ系的なテイストのものでもセックスとバイオレンスを描いても評価されているわけだ。

 職人的なオールラウンダーだと称賛されるのがよくわかる。

 小説作品ならどうか。

 ダーク・ファンタジー『白貌の伝道師』はスティーブ・ジャクソンやイアン・リビングストンや『ウォーハンマー』から。

 マンガ『ブラック・ラグーン』のノベライズは『Phantom』と同じくB級アクション映画から。

『神林長平トリビュート』には神林の『敵は海賊』へオマージュをささげる短篇を寄せている。

 高速レシプロ乗りの物語『アイゼンフリューゲル』はあとがきの類いがないからわからないけれど、死ぬとわかっていても特攻し、空を飛ぶことを選ぶ主人公の姿からは、ヤクザ映画やヤンキーマンガと、スタジオジブリ作品やGAINAXの『オネアミスの翼』をかけあわせたような印象を受ける。

『Fate/Zero』は完全に八〇年代伝奇のノリだ。
 クトゥルーの大ネタもエンターテインメントとして豪快に使う手つきが、菊地秀行『妖神グルメ』や栗本薫『魔界水滸伝』のそれを思わせる。

 星海社のサイト「最前線」で連載されていた『金の瞳と鉄の剣』は完結していないからなんともいえない。
 いまのところ『白貌の伝道師』のようなダークファンタジーを予感させているけれど。

 余談ながら、このように小説だけ見てもおわかりのとおり、虚淵作品は、テイストだけではなくて、ファンタジー、冒険小説、SF、伝奇と、ジャンルまでバラバラだ。

 ここまでなんでも書けてしまうエンターテインメント作家は、ほかには山田正紀くらいしか思い当たらない。
 山田正紀の後継者的存在などそうそういないが、このオールラウンダーっぷり(と男くささ)は非常に山田正紀的だと言っていい。

 最後にアニメだ。

 板野一郎といっしょにシリーズ構成を手がけた『ブラスレイター』は、『ヴェドゴニア』をスケールアップさせたような変身ダークヒーローのライダーものだ(企画段階から『仮面ライダー龍騎』という固有名があがっていたし、『龍騎』の脚本も手がけた小林靖子がそれこそ参加している)。
 怪物になった主人公たちが怪物を倒すというのは菊地秀行の『吸血鬼ハンター"D"』と似ていると言える。

 そして『まどマギ』。
『まどマギ』は何の影響を受けているだろうか?

 キュゥべえのようなマスコットキャラクターをはじめとするガジェットはともかく、悲劇的なストーリーラインや陰鬱なキャラクター造形は、既存の魔法少女ものから借りてきたものではない。

 虚淵はアニメ脚本家として、『まどマギ』以前に関わった『ブラスレイター』と『Phantom -Requiem for the Phantom-』で板野一郎と黒田洋介からそれぞれ薫陶をうけたことを強調する。

 黒田洋介は虚淵と年も近いから(黒田は六八年うまれ、虚淵は七二年うまれ)、この八〇年代から二〇〇〇年代つながりを語る場合には置いておくとしても、板野一郎は『超時空要塞マクロス』や『機動戦士ガンダム』『伝説巨神イデオン』への参加で知られている。
 虚淵は直接仕事をともにする以前から板野の八〇年代以来の仕事に触れ、「監督の影響を受けて『ヴェドゴニア』を作っていたんだと思います」(「オトナアニメ」vol.10)とまで語っていた。

 虚淵は、『まどマギ』第5話でさやかと杏子が裏路地で戦闘するところは、菊地秀行の影響だと言っている。『まどマギ』にも、八〇年代伝奇の影がある。

 さらに『まどマギ』関連でインタビューを受けたさいには、何度か『装甲騎兵ボトムズ』のことを引き合いに出している。

 自分が摂取してきたフィクションがもっていた「毒」のおかげで、現実の「毒」に耐えられた、「キリコに比べれば今の俺はつらくない」と思うことで乗りきれたことがある、と。

 なるほど、まどかが世界を改変して魔女を消し去ったあとも、魔女になりかわる魔獣というあらたな敵が出現し、魔法少女たちの戦いは終わらない……という『まどマギ』のエンディングは、『ボトムズ』で主人公のキリコ・キュービーが、宇宙の全能の神にして戦争をひとびとに仕向けていたはずのワイズマンを殺したあとも戦争がなくならない……という終わり方をしたのと似ている。
 キリコ・キュービー→QB→キュゥべえ、なのかもしれない。何度死んでもよみがえり、世界のルールが変わったあとも生きつづける異能者という意味で。

 それから虚淵は、『まどマギ』のプロットはヤクザ映画のそれなのだ、とも言っている。

 ということは『Phantom』や『ブラスレイター』と同じく彼が愛するジョン・ウー的な浪花節の、悲哀の世界を「魔法少女もの」という皮をかぶってやったものだということになる。

 しかし、『まどマギ』は本質的には、ほむらとまどかをめぐるセカイ系的な物語だとみなしたほうがすっきりする。

 結論は大きくことなる。けれど、ふたつの世界のどちらにいるかを選ぶという意味では村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』みたいなものだとも言える。

 けれど、とうとうと思弁を繰り広げたり、メタ展開をすることを好まないエンターテインメント作家である虚淵玄は、「主人公が魔法少女になったらゲームオーバー」なんていうイレギュラーな「メタ魔法少女もの」であるにもかかわらず、押井守や竹本健治のようには、これみよがしなメタフィクション的構成や語りを用いなかった。

 むしろ「魔法少女にならない」ことを描くために暴力描写を使い、マミさんを殺したりした。
 どう考えるべきだろうか?

『Phantom』や『まどマギ』がそうなのだが、『男たちの挽歌』みたいにどんどんひとが死んでいってキャラクターが主役ふたりにまで絞られ、ラストシーン間際にさらにひとりが死に、ほぼ全滅という終わりを迎えれば――必然的にセカイ系エンドっぽくなる。
 つまりヤクザ映画的であることとセカイ系的であることとは、なんら矛盾しない。

 いずれにしろ『まどマギ』は、もっともヒットしたセカイ系の代表格である『サイカノ』『イリヤ』『ほしのこえ』と同じく、メタな展開はせず、ベタな悲恋を描いた作品だった。
 そして、伝奇と『ボトムズ』とハルキとジョン・ウーという八〇年代文化のエッセンスを、二〇一〇年代向けにリファインした作品だったのだと言っていい。

二、円環の理あるいはコピーとしての自覚――虚淵玄と伊藤計劃
 そんな虚淵だが、同時代的にみてスタンスやモチーフが似ていると言える作家がいる。

 伊藤計劃である。

 杏子が、自分たち魔法少女は器としての身体と本体である魂(ソウルジェム)に分割されてしまい、もはや人間とは呼べない存在なのだと判明したのちキュゥべえに対して「それじゃあたしたち、ゾンビにされたようなもんじゃないか!」と言ったあと、ゾンビに一家言もつ伊藤の小説『ハーモニー』と『まどマギ』とを比較する動きがネット上で発生した。

 山川賢一『成熟という檻』でも、『ハーモニー』が描く管理社会(全体社会)像とキュゥべえ(インキュベーター)の全体主義者ぶりとを比べている。

 ゾンビ、とか、コントロールされた世界、という個別のモチーフのことはひとまず置いておこう。

 さしあたっては、虚淵と伊藤が似ていると思う人間が少なからずいた、虚淵と伊藤を並べるとなぜだかしっくりきてしまうということの意味について考えたい。

「魔法少女もの」の擬態をしている『まどマギ』と、超高度医療社会に生きる少女たちを描いた『ハーモニー』は、「少女」という共通点や閉塞感あふれる雰囲気をのぞけば、表面的にはさほど似ていない。
 それくらいの共通項で『まどマギ』を論じるのであれば、べつにほかの作品を引いてきてもいいはずだ。

 ふたりともサイバーパンク直撃の団塊ジュニアだが、それだけならばべつにサイバーパンク的な作品でデビューした古橋秀之でも秋山瑞人でも、かつて「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」という評論を書いたことがある作家の東浩紀でも、誰でもいいはずだ。

 しかし、虚淵―伊藤という組み合わせは、圧倒的に「わかる」。
 これにもうひとり「わかる」作家を加えるとしたら冲方丁なのだが――単純に『まどマギ』『ハーモニー』『マルドゥック・スクランブル』を並べて「少女」「悪」「テクノロジー」の三題噺にするだけでも評論一本くらい簡単に書けるだろう――、今回は準備の関係で論じられない。

 ぼくは虚淵と伊藤が共通している点は、

 自分がコピーであるという強烈な自覚、

 にあると思っている。
「ゾンビ」のような共通のモチーフは、これらから生じたものだ。

 もちろん、ふたりがともに映画青年であり、かつ、シネフィル的な感性ではなく現代ハリウッド映画からボンクラ映画までのエンターテインメント・フィルムをこよなく愛した人間であった、とか、映画に対する愛を隠さない(引用を辞さない)、とか、サイバーパンクだけでなく神林長平をはじめとする八〇年代日本SFに決定的に影響を受けた世代のSF者である(虚淵が寄稿したアンソロジー『神林長平トリビュート』には伊藤もオファーされていた)、といったこともある。

 これはこれで掘りさげれば興味ぶかい結論が導けるだろう。
 しかし本論においては、コピーであることの自覚をこそ、もっとも重視して論じたい。

 伊藤計劃は、ゲーム『メタルギア』シリーズの小島秀夫監督から甚大な影響をこうむっている(小島秀夫もまたゾンビ映画フリークであり、というか伊藤のゾンビ趣味は小島からの影響ではないかと思われる)。

 伊藤は「小島秀夫主義者」を名乗り、「メタルギア」の世界観に迫った書籍『メタルギア・ソリッド・ネイキッド』には「ファン代表」として考察を寄せ、デビュー作『虐殺器官』のプロトタイプになった「Heavenscape」は小島秀夫の『スナッチャー』から着想を得たものだった。
『虐殺器官』も『ハーモニー』も、あきらかに小島秀夫チルドレンの産物だった。

 戦争がビジネスになった近未来社会にしろ、冒険小説的なスパイもの(エスピオナージ)+ミリタリーという意匠にしろ、小島秀夫の作品にルーツをもとめることがかんたんにできてしまうものが、これでもかとちりばめられている。
 伊藤計劃は、小島秀夫のコピーに始まった。

 そうした小島秀夫への愛と、コピーであることの自覚とが臆面もなく奔流しているのが『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』のノベライズである。

 ここでの伊藤は、主役である老いたソリッド・スネークよりも、スネークを横目に見続けてきた傍観者(視点人物)であるオタコンや、スネークのミームを継承する雷電や、スネークのジーン(遺伝子)からうまれたリキッド・スネークのほうに感情移入して書いているように見える。

 オタコンや雷電たちは、小島秀夫の観察者であり批評家だった伊藤、小島のコピー(偽物)としてうまれて戦う伊藤のすがたと重なって映る。

 もちろん、「メタルギア」ファンには周知のように、ソリッド・スネーク自体が宿敵であるはずのビッグボスから誕生したコピーなのである。

「ぼくの身体の七〇%は映画でできている」とまで語ったかつての映画青年・小島秀夫は、映画監督になることはあたわず、コナミに入社し、ゲームという戦場を選んだ。「映画」というビッグボスからうまれたソリッド・スネーク(=ゲーム「メタルギア」)が、世界市場を席巻するハリウッド映画と戦う。

 それが新作が出るたびに全世界で数百万本のヒットをたたき出し、『メタルギア・ソリッド』リリース後に「二〇世紀最高のストーリー」とまで称賛された「メタルギア・ソリッド」(MGS)のシリーズだった。

 小島はゲームのディレクターながらに映画監督を思わせる「監督」を名乗り、いまやMGSは、ジョン・ウーをはじめとする映画クリエイターが絶賛のコメントを寄せることとなった。
 だから、映画からうまれたゲームからうみだされた小説家・伊藤計劃は、ビッグボスからうまれたソリッド・スネークからうみだされた雷電やリキッド・スネークのように、コピーのコピーなのだ。

 そのことに対する自覚と自負が、『メタルギア』のノベライズにはある。
 たとえば、スネークを助けて散っていく雷電の姿に。ビッグボスからはじまる妄想じみた「蛇による歴史」「蛇の系譜」を語り、その末端に自らを位置づけるリキッド・スネークの姿に。

 虚淵玄もまた、自らがコピーだと自覚し、コピーの歴史を描いた作家だった。
『Nitroplus COMPLETE』によれば、虚淵玄は、模型雑誌に掲載されていた『ボトムズ』の小説を読んで、物語のおもしろさにめざめたという。

 そして、模型をつくるように小説をつくるおもしろさに、開眼した。
 模型、つまり模造品をつくることから、彼の創作人生ははじまったのだ。

 デビュー作の『Phantom』からして、自分の好きなアクション映画の世界をそのままエロゲーに持ちこんだものだった虚淵は、ほぼ必ず、参照し、手本にした作品について自ら言及している。
 元ネタが誰の目にもあきらかなように引用する。
 それが礼儀であるかのように。
 彼は黙ってパクるなどということはしない。
 先行作への愛からうまれたものだと公言する。
 それは裏返せば、自分はオリジナルな存在ではないと認めているということだ。

 コピーという意識は、作品のモチーフにもあらわれている。

『Phantom』の主人公はドイツ語で「2」を意味する「ツヴァイ」と呼ばれる存在だ。マフィアに飼われたひとりの狂科学者がつくりだした感情をもたない暗殺者「アイン」(ドイツ語で「1」を意味する)が育てあげたから、彼は「ツヴァイ」と呼ばれる。

『吸血殲鬼ヴェドゴニア』の主人公は、オリジナルである吸血鬼に喰われて吸血鬼となった少年で、やはりコピーである。

『ブラック・ラグーン』のノベライズに登場する虚淵オリジナルのキャラクター「シャドー・ファルコン」は、通販で買ったインチキの忍者育成キットを愚直に実践してうまれた存在だが、甲賀デスシャドー流マスターNINJA「シャドードラゴン」こと忍術指南書の販売元の元締めであるマイク・チャンと邂逅し、感動に身を震わせることになる(そもそも原作である広江礼威『ブラック・ラグーン』自体が八〇年代に隆盛した船戸与一的な、第三世界を舞台にした政治色の強い冒険小説の影響下にあるものだ。けれど、虚淵玄はそれを2000年代に小説で本気でやろうとしても成立しない、ギャグにしかならないという自覚が、コピーのコピーでしかないという自覚があったのだろう。肝心なところでシリアス展開を拒み、脱臼させるようなギャグで落とすからだ)。

 マカロニ・ウエスタンの『続・殺戮のジャンゴ -地獄の賞金首-』はタイトルからして「続」であり――これはマカロニ・ウエスタンの邦題のマナーを踏襲したものだが、そもそもマカロニは『荒野の用心棒』からして黒澤明の『用心棒』の脚本をパクったものなので、『ジャンゴ』もまたコピーのコピーである――、革命家たちを熱狂させた伝説のガンマン「黒のフランコ」が一〇年ぶりに現れた、というところから物語がスタートする。

 しかし一〇年ぶりに現れた「黒のフランコ」は、偽物だ。
 そしてクライマックスでは、本物の「黒のフランコ」が、その栄光と名前を捨て、革命家たちと敵対する支配層の側に入り込んでいたことがあきらかになり、偽物の二代目「黒のフランコ」と初代とが対決する。
 あたかもビッグボスとスネークの対決を思わせる展開だ。

 作中ではさらに、「黒のフランコ」は、ひとりの英雄の名前なのではなく、ひとびとに語り継がれるかぎり生きつづける象徴的なものなのだ、と語られることとなる。

『Phantom』において最高の暗殺者に与えられる称号「ファントム」がアインからツヴァイ、ツヴァイからドライへと継承されていくように。
 あるいは『まどマギ』の最終話で、「まどか」が概念となって改変された世界においても「まどか」について子どもたちが語り、まどかの母だった鹿目詢子の記憶におぼろげに残っているのと同様に。
 リキッド・スネークが語るスネークの系譜――「蛇の歴史」と同様に。

 虚淵は言っていた。

 私には主義主張なんてないんです。世に問い糾したい思想なんてない。褒めてもらいたい独創性もない。ただ、いつか誰かに貰った種が心の中にあるだけです。ガンアクションが好きで、変身ヒーローや武侠片やサイバーパンクやコズミックホラーやマカロニウェスタンが大好きで、その好きっぷりがもはや自分一人の内側に仕舞い込みきれなくなって、こんな稼業についてしまいました。だから私がやってきたことは、いつだって二次展開だったんです。それが"否"であってたまるもんですか。胸を張って"是"だと叫びたい。引け目なんて感じたくない。あまりにも虚しい、恥も外聞もない寄生虫どもが跋扈する二次展開産業の中で、それでも私は、書くことの喜びを貴いモノだと信じたいのです。(『Fate/Zero vol.4「煉獄の炎」』TYPE-MOON BOOKS版あとがき、四四二頁)

 ――虚淵や伊藤には、自分はオリジンではないという痛切な自覚がある。

 そして、暗中模索のなかでクリエイターとしてスタートしたものの、彼らは書きつづけるうち徐々に、先行するオリジンの成果を整理し、形式知化し、メソッドやセオリー、ノウハウとして体得してしまった。

 だからこそ、ふたりはさらに苦しみ、そして、閉塞感あふれる世界を描くことになったのだ。
 虚淵や伊藤は、圧倒的で、容赦なく、苛烈な社会像を、人間がコマでしかありえないような世界で生きるひとを描いている。
 ふたりはともに若くして大病を患い、死線をさまよったあとで創作をしていた。
 それが生に対する冷徹な視線が獲得させたのかもしれない。

 しかしそれだけではなく、自らがコピーでしかないという来歴がみえてしまう聡明さから、偉大なる先行者を徹底してコピーすることで学んだ脚本術のテクニックの優秀さゆえに、たいがいの物語が分析できてしまい、ばかりか、自分がつくる作品ですらどのていどのものになるのか見えてしまうという退屈さにむきあわざるをえなかったのではないか。

 物語の力学(条理)をロジカルに働かせれば、キャラクターに対する愛など生じえない、死なせたくないなどというパッションが生じるはずがない。

 ふたりはともにそう考えていた。
『伊藤計劃記録』に収録されたインタビューで(『ハーモニー』のハヤカワ文庫JA版の解説でも引かれている)、伊藤は言う。

「理屈にそってキャラクターを作り、そのキャラが喋るロジックを魅力的に見せるにはどうしたらいいのかっていうことで話を考えていきます」「実を言うとエモーションの部分が一番難しいんです」。

 このように語る伊藤と、長らく、「物語の条理をつきつめるとバッドエンドにしかなりえない」と囚われ苦しんでいた虚淵の悩みは、似たようなものだったはずだ。

『ハーモニー』や『まどマギ』に登場する少女たちが感じる社会や魔法少女のシステムによる抑圧とは、虚淵や伊藤が先行者の影響力の呪縛から逃れられない、体得してしまった理詰めの脚本術という毒から逃れられないという自覚をも暗に意味していたのだ。

『ハーモニー』や『まどマギ』には、レールを敷いた、システムをつくった人間をこえられないコピーでしかないのだという彼ら自身のすがたがあらわれていたのだ。

 だから彼らは、人間ではなくそれに劣る、人間ではない存在としての「ゾンビ」というモチーフを浮上させたのである。


三、人外魔境から表舞台へ――虚淵玄の軌跡
 とはいえ当然ながら、虚淵と伊藤ではことなる点もある。

 伊藤は、ゲームに「反戦反核」をはじめとするメッセージを盛りこむ小島秀夫から影響をうけてきたがゆえに、作品のなかに社会批判的なテーマがある。

 だが虚淵には、左翼くずれの父親をみていたことからか、そういうものがうさんくさく思う感性がある(もっとも、彼の市場原理を歓迎しない心性、いわゆる「嫌儲主義」的なスタンスは左翼の親から受けつがれたものではないかと思うが)。

 だから虚淵は「メタルギア」や伊藤作品のようには、社会に対するメッセージをオモテに出さない。
 どころかむしろ、自らがそもそも社会を批判できるような立場にはない、表街道から外れた場所にいる脱社会的な存在なのだということを、作品でも訴えていたように思える。

 自分がアウトサイダー/人外であるという自覚と、人外への共感。

 これは虚淵にのみ顕著であり、彼の同世代の日本のエンターテインメント・フィクションのつくりてにはほとんどみられない傾向だろう。

 本来ならば死ぬはずだった青年が記憶を抹消され、暗殺者として第二の人生を歩むことになる――そしていちど足を踏み入れた裏社会の手からなかなか逃れられない――『Phantom』。主人公が人間ではなく吸血鬼になり、それを引きうけて生きることを選ぶ『ヴェドゴニア』。

 体制に従順することを選ばず、革命家への道を進む『ジャンゴ』。

 それまですごしてきた世界が腐肉の塊にしか見えず、おぞましい怪物であるはずの沙耶だけが美しく儚げな少女に見えるようになった主人公が、世界を拒絶し、家族や友人を殺してでも沙耶と結ばれることを選択する『沙耶の唄』が極北だろう。

 オモテの世界ではなくウラの世界へと逸脱してゆく人間を描き、彼らに対するシンパシーを隠さない作品を、虚淵玄は紡ぎつづけてきた。

 彼自身が、九〇年代にライトノベル作家を志すも挫折し、二〇〇〇年代初頭のカオスだったエロゲー業界に拾われるようにして『Phantom』を放ち、しかしそのアンダーグラウンドなエロゲー界ですら保守本流ではなく異端の存在としてしか生きられなかったからだろう。

 虚淵の第二作『吸血殲鬼ヴェドゴニア』は、虚淵が当初「商品にする」と意気込んでつくりはじめるも、しかし、制作中に「これではつまらん」と感じはじめ、自分の趣味を全開にすることで完成にこぎつけた作品だった。
 だから第三作目『鬼哭街』以降、彼はほとんど我が道を歩むようになる。

 奇しくも角川スニーカー文庫の作品として、彼の名前でメジャー流通する小説としては初となった『鬼哭街』のストーリーラインは、二〇一一年に刊行された小説『金の瞳と鉄の剣』のあとがきを読むかぎりでは、そのむかしライトノベル作家志望時代に考えたプロットを流用したものである。

 二〇〇〇年代初頭の虚淵が、ゲームが売れたとたんに「ノベライズしませんか」などと手のひらを返すように近づいてきた出版人のことを、よく思わなかったのも当然だろう。

 小説家に憧れたが挫折してサラリーマンになり、しかし、やはり勤め人としての人生からはドロップアウトしてエロゲーのシナリオライターとして生きることを決め、作中では日陰者に寄り添うような作品を描いていたのだから。

 かつて自分が書いて新人賞に応募した小説では日の光を浴びることを許さなかったはずの存在が、なぜいまさら、地下で発表した同じプロットの話を、地上の世界で出したがるのか……と。

 そうした屈託からか、かつて虚淵はくりかえし「自分はエロゲーの世界の住人なのだ」と語り、メジャー流通するアニメや小説の世界の人間ではないのだと言い、アニメや小説では規制ゆえに絶対にできない過激な表現と毒を盛った作品をつくっていた。

 ――それが、二〇〇三年にリリースされる『沙耶の唄』制作の前後から、アンダーグラウンドだったはずの表現が、アニメや小説といったオモテのフィールドに出ていき、目立ちはじめていたことに、虚淵は気づく。

「時期的にも、いわゆる2次元ポルノの敷居がすごい下がり始めた時期なんですよ。ラノベにも「これはエロゲーでやれば良いのに」という。萌え手段というか、それまでは2次元キャラと擬似恋愛できるのは、8800円払うエロゲーならではの特権だったはずなんです。それがもう、漫画の性描写は解禁になるし、ラノベもいろいろになってくるしと。結構ディスカウントされ始めちゃって。このころから2次元ポルノが、安易に商品になり始めたころだったと思うんですよ。自分の感覚として。もうちょっと後ろ暗いものであって欲しいな、買うのに躊躇するものであって欲しいな、という思いがありました」(『Nitroplus COMPLETE』)。

 若かりし日の虚淵がデビューしようとしたライトノベル業界は、パロディファンタジー全盛の九〇年代にはリリース点数もまだまだ少なかった。

 それが上遠野浩平の『ブギーポップは笑わない』登場以降、二〇〇〇年代なかばあたりまで市場は多様化しつづけ、異種交配が進み、幾人かの才能はSFやミステリにリクルートされていくことになった。

 いっぽうで「萌え」が一部のギャルゲーやエロゲーのファンの手を離れて世間一般にまで認知されるほどメジャー化するなど、時代は変わりつつあった。

 そればかりではない。
 虚淵の周囲も、変化しはじめていた。

 彼がネットで見つけてきたシナリオライター鋼屋ジンによる『デモンベイン』シリーズなどの成功もあり、虚淵が所属するニトロプラスは、会社として成長を続けていた。かつてはマンションの一室でほそぼそとゲームをつくっていたはずが、環境が変わってしまったのだ。

 拾われた犬が飼い主に尾を振る心境というのは、きっとこういうものなのだろう――そんな風に自分の胸中を推し量りながらも、アルシアはそれを自虐とさえ思わなかった。自分が犬よりも上等な立場にいるなどという、そんな幻想は既に持ち合わせていない。
 もしこれが本当に、その場限りの酔狂でなく、彼が今後ともアルシアをどうあっても"支配したい"とまで欲してくれるのならば……
 喜んで、わたしはこの人の奴隷になろう。
 少女は独り、そう密かに心に決めた。(『白貌の伝道師』九一頁)

"根無しの草"と呼ばれる混沌の僕ラゼィルに拾われたハーフエルフの少女アリシアの心境さながらに、日輪に背を向けるエロゲーという主に忠誠を誓い、力の限りに戦ってきたはずだった。

 だがアンダーグラウンドに骨を埋めたつもりが、デビューからわずか数年のうちに、地上と地下の区別は無化されはじめ、エロゲー界自体が変貌しつつあった。
 虚淵はそれを横目にみて、こう思っていた。

「ぶっちゃけ、今の18禁ゲームのユーザーに求められている、癒し的な話は俺には無理なんで」(『Django! 続・殺戮のジャンゴ-地獄の賞金首- オフィシャルビジュアルブック』)。

 ゆえに虚淵は、悩みながらも、オモテの世界でも仕事をするようになる。
 いまや作家としての実力を見込まれ、依頼されてライトノベルを書き、アニメの脚本を書くようになった。
 エロゲーという裏社会において安易なエロに走らず作劇で勝負する孤高の異端として崇められていた彼の才能は、オモテの世界に出たならなおさらに、妖しく黒く輝くものだった。

 かつてはプロットもつくらず突っ走って『Phantom』をつくり、『To Heart』ばりのヒット作をつくるつもりで脱線してしまった『ヴェドゴニア』をつくったように、あの虚淵玄といえども、二〇〇〇年代の初頭までは、作劇の技術がアンコントローラブルだった時代があった。
 だがその技術が完成されるや、作劇の理に従って物語を制御すれば、ハッピーエンドなどありえない、という境地に達し、自分を苦しめるまでになったのだ。ひとつの「型」ができあがったのである。

 その技術をもって、虚淵はアニメの世界へ飛び込んだ。
『ブラスレイター』や『Phantom』での仕事は「御用聞き」のようなものだったという。
 監督をはじめとするスタッフがやりたいことを探り、それを脚本というかたちに落とし込む。
 これは劇を統御する術がなければ不可能である。
 その意味で、アンダーグラウンドに沈潜して修行を積む期間は、虚淵玄という才能にとって絶対に必要だった。
 コピーとして、人外として暴れ回った時間が、表舞台で戦える素地をつくったのだ。

 周囲の環境だけでなく、虚淵自身も少しずつ変わっていった。

 シリーズ構成と全話脚本を手がけ、アニメ脚本家として「ひとりだち」した作品だと自ら認める『まどマギ』では、人外に対するスタンスが変化している。

『沙耶の唄』とはことなり、「魔法少女」という、オモテ世界ではなくウラの世界を生きる異端者への道を選ぶことは、作中においてネガティブな事態である。
 沙耶とキュゥべえとは、かわいい外見とは裏腹に、いちど行ったら戻れない世界へと主人公をいざなおうとする点で、機能を同じくしている。

『沙耶の唄』では、沙耶のささやきにつられるようにして異形の暗黒世界に身を浸し、オモテの世の光を遮断することの恍惚が描かれていた。
 人外の怪物である沙耶と結ばれるいっぽうで、かつての親友を殺し、サークルの女友だちの脳をいじって性奴隷にするさまを描いていた。

『Phantom』では暗殺者という人生を歩んだ人間はそこから逃れられず、いつまでもマフィアから追いかけられる様子を描いていたし、『ヴェドゴニア』の主人公は吸血鬼という人外ではない生き方を選べたにもかかわらず、あえてそのことを引きうけた。

『ジャンゴ』の少女イライザは、偽の英雄「黒のフランコ」であることを引きうけることを選び、高らかに謳っていた。

『白貌の伝道師』は「いずれ混沌の勢力が勝利を収め、グルガイアの威光が大地をくまなく覆い尽くせば、そのときは日輪すらも奈落へ堕ちる。その日が訪れることをラゼィルは信じて疑わない」と記し、血に濡れた邪の道をきりひらき、少女の屍を引き連れるダークサイドの人間を描いていた。

『まどマギ』では、しかし、「魔法少女」という裏街道へ足を踏み入れることは、最終二話をのぞけば、ポジティブな意味がみいだされていない。

 かつて『鬼哭街』で少女・端麗の魂魄を別の身体に転写することは――つまり身体と魂を切り離して扱うことは――否定されることではなかった。

『白貌の伝道師』では、少女アリシアは死にいたり精神を抜かれた脱け殻=ゾンビとなり、ラゼィルの意志に従うままに、同族であったエルフたちに大鉈を振るい次々と虐殺したのち「此処は、なんと安らかな場所だろうか」と感嘆を漏らしていた。
 身体と魂を分離して扱うこと、それによって能力を増大させるという禁忌を破ることを、かつての虚淵作品はまったく否定していなかった。

 だが、『まどマギ』は、ソウルジェムを本体にし、肉体はからっぽの器となるというゾンビ化した状態に置かれた魔法少女たちのことを、肯定的には描いていない。
 人外であるがゆえに、痛みやつらさから魂を切り離した存在であるがゆえに獲得できる大きなものがあろうと、肯定しない。

 魂と肉体とはひとつであるべきだ、魔物に魂を売り渡すべきではない、道具として使役される存在であることなど間違っている――そう言いたいかのようである。

 もっともそうした傾向は二〇〇七年発売の『Fate/Zero』にすでにみいだすこともできる。

『指先を、心と切り離したまま動かすっていうのはね――大概の殺し屋が、数年がかりで身につける覚悟なんだ。坊やはソレを最初から持ち合わせた。とんでもない資質だよ』
「……」
『でもね、素質に沿った生業を選ぶってのが、必ずしも幸せなことだとは限らない。才能ってやつはね、ある一線を越えると、そいつの意志や感情なんぞお構いなしに人生の道筋を決めちまう。人間そうなったらオシマイなんだよ。"何をしたいか"を考えずに"何をすべきか"だけで動くようになったらね……そんなのはただの機械、ただの現象だ。ヒトの生き様とは程遠い』(『Fate/Zero vol.4「煉獄の炎」』TYPE-MOON BOOKS版、三六頁)

 何かを、致命的に間違えた。今さらのように切嗣はそう痛感した。
 道具として使い捨て、結果次第でそれを良しとできる命だと――衛宮切嗣がそうであるように、久宇舞弥もそうなのだと、何故そんな勝手な見立てを今日まで信じていられたのか。
 こんな自分に、今、こんな言葉をかけられる女なら。
 彼女にはもっと違う生き方が、死に様があったはずではないのか。(同一一八頁)

 変化は突然訪れたのではなく、だんだんと進行していたのだろう。

 いずれにしろ『まどマギ』を過去の虚淵作品にくらべてみるなら、人外であることの悲哀は描かれていても、人外であることの愉悦の描写が薄まっていることはあきらかだ。

 当然なのかもしれない。
『まどマギ』の公式同人誌「ティロ・フィナーレ」に寄せたエッセイで、虚淵は自分が『まどマギ』によって「成功した」ということを認めている。

 別の場所では、『Fate/Zero』のヒットによって、自分が生涯で得るだろうはずの収入の額をもはや上回ってしまったというようなことを漏らしてもいる。

 世間がうらやむ地位と名誉と金銭を得た人間が、ヒトの道を外れた存在を称揚しても、うそくさく映るだろう。
 もちろん、虚淵が売れて変節したなどと安易に結論づけ、批判するつもりはない。

『まどマギ』ヒット後のインタビューでも虚淵は「自分の場合は世の中からもらった評価で自分が救われたことは、ただの一度もありません。つねに自分を救ったり、誇らせてきたりしたものは自分の価値観や達成感でした」と語っているのだから(http://www.futoko.org/news/page0901-1809.html)。
 根本が変わろうはずがない。

 ただしかし、事実として、もはや虚淵玄はアンダーグラウンドからの刺客ではなくなったのだし、『まどマギ』はドロップアウトを推奨するかのような作品でもない。

 ではコピーであることの呪縛は?
 これからも解放されているとみていいだろう。
 主人公の少女まどかは最終話で実体を消滅させて「概念」になり、語り継がれる存在となる。

 かつての「ファントム」や「黒のフランコ」の称号と同様に。しかし、一点だけ決定的にことなることがある。
 概念としての「まどか」は、鹿目まどかがオリジナルなのだ。
『Phantom』の主人公ツヴァイも、『ジャンゴ』の主人公イライザも、オリジナルではなく二番目の存在だった。コピーが、その名を継承していく物語だった。

『まどマギ』はちがう。
「まどか」こそがオリジンであり、そこから後世へと受けつがれていくのだ。

 虚淵作品は魂の継承の歴史を描いてきた。
 子孫を残すことを望む『沙耶の唄』の沙耶にしろ、分割された少女・端麗の魂を回収し、別の義体へと移植するまでを描く『鬼哭街』にしろ。

 しかし『まどマギ』に至り、なにかを継承する側の物語から、される側の物語へと変化したのだ。
 それは虚淵玄という才能の軌跡と一致している。

 ひとは、何かをなそうとすれば、だれかのマネから始めるしかない。
 はじめはコピーしかつくることができない。
 それを認めてくれる場所は、若く、混沌としたところにしかないのかもしれない。

 しかし、模倣をくりかえすうちに、自然と独自性はめばえてきてしまう。
 のみならず、コピーするだけでは絶対に勝てないことも、わかってくる。
 だがそうして育てあげてきた才能は、世のニーズの主流から逸脱しているものかもしれない。
 自分はひとびとが望むとされているハッピーエンドを、書けないのかもしれない。

 そうして悩み、挫折し、失敗することもあるだろう。
 虚淵玄のアニメでの仕事とて、はじめから商業的に大成功だったわけではない。
 『まどマギ』は三作目である。

 そうやって彼は、メジャーなクリエイターとして、手本にされる側になった。

 とはいえ、その成功は「魔法少女もの」としては邪道のシナリオによって獲得したものである。
 同じ毒手が、何度も使えるはずがない。

 つまり虚淵玄は、『まどマギ』ののちには、王道の作品によって勝たねばならない宿命を負っている。

 彼がどのように戦うのかは、まだ誰も知らない。

 あるいはいつか虚淵は、小島秀夫のように自分を育てた「映画」というビッグボスに戦いを挑む――あるいは体制側へと寝返った初代「黒のフランコ」よろしく虚淵が映画脚本家というビッグボスそのものと化す――のかもしれない。

 伊藤計劃が描いたリキッド・スネークに倣って歴史を語ってきた本稿は、魔法少女が一周して魔女へと変貌する過程までを刻んだここで、ひとまず円が閉じられる。


(2011年脱稿)

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