森博嗣マイナ作品解題

森博嗣本人がより自分らしいと思っている部分は、長篇シリーズ以外のところにある。


■短編集

 そもそも森博嗣は、読者としては長編より短編が好き、分厚い小説より薄いのが好き、というタイプの人間である。

「視点」と「発想」を重んじている作家だから、「視点」と「発想」が長編よりもコンパクトに、シャープに出やすい短編を好んでいるのかもしれない。

 森博嗣の短編集でおすすめを選ぶとしたら、S&Mシリーズの短編を1冊にあつめた『どちらかが魔女』と、自選短編集である『僕は秋子に借りがある』を読めば間違いない。

 日本では短編小説のマーケットは長編に比べて小さい。

 各短編集に必ず一作は犀川や西之園といった人気シリーズのキャラクターが出てくる作品を収録していたのは、そんな環境でも自作の短編集が売れるようにするための方策としてなのだろう。

 しかし、商品として需要が大きいシリーズキャラクターたちが登場する作品は『どち魔女』にまとまってしまった。

 それ以外の森短編のエッセンスは『僕は秋子に~』によくまとまっている。

 ミステリ好きを自負するひと向けの本としては『虚空の逆マトリクス』だろう。

 島田荘司が編んだアンソロジー『21世紀本格』にも収録された「トロイの木馬」をはじめ、ミステリ脳の持ち主なら語りたいことが山ほど出てくる短編が収められている。

「森博嗣ってこういう人だよね」感を味わうにはインスタントラーメンをキイアイテムにした『堕ちていく僕たち』も外せない。

 これはミステリではない。

 表題作は、森がかつて描いた漫画をノベライズしたもの。

 もっとも、森は自分の小説の執筆を「頭の中に漫画で思い浮かべたものを文字にしている」というようなことを言っており、ほかの作品と何が違うかといえば、具体的な先行作品として(マテリアルとして一回アウトプットされたものが)存在するかどうか、くらいの違いしかないのかもしれない。

 収録作の作品タイトルは「堕ちていく僕たち」「舞い上がる俺たち」「どうしようもない私たち」「どうしたの、君たち」「そこはかとなく怪しい人たち」と韻を踏んでいて美しい。


 真っ逆さまだよ。

 落ちてくる、

 堕ちていく。

 いつの間にか、それが僕。23p


 といった改行の多い表現を「詩的」とか「ポエム」とよく形容されている森だが、漫画のノベライズ、という視点から考えれば、これは漫画でいうネームを活字にしていると解釈したほうがしっくりくる(もちろん"内容"も含めて「詩的」と言われているのだろうけれど、"形式"として見ればネームを活字にしたものであって詩を書いてるわけじゃない、と捉えた方が経歴的には素直な解釈ではないかと思われる)。

 この短編集に出てくる「インスタントラーメンを食べたら男女の性別が入れ替わる」みたいな設定だとか「躰はないけど意識はある」という幽霊状態になった和子という女性の話は、漫画的なリアリティだと思った方が理解しやすい。

 漫画的なリアリティを表現するには、漫画的な言語表現をするのがふさわしい、というのが道理だろう。

 批評(家)的に重要なのは、97年刊『まどろみ消去』収録の「キシマ先生の静かな生活」(『僕は秋子に~』にも再録)だろう。

 これは2010年に出した長編『喜嶋先生の静かな世界』とストーリーラインが大筋同じである。

 長編の方がどういう小説なのかについては、森が2011年に出した新書『科学的とはどういう意味か』に解説がある。

 僕は、小説家でデビューした当初には、なるべく大勢の人が楽しめるものを想像して書いた。商品としての価値を求めたからだ。運良く沢山の人が読んでくれて、僕は使い切れないほどの印税を得た。だから、今はもう、そういった商品開発の必要がなくなってしまった。今後は、ただ自分としてみんなに伝えたいことを書こうと思っているし、最近、何冊も新書を書き下ろしたのもそのためだ。


 でも、小説を読む人たちというのは、エッセィやノンフィクションを読みたがらない。彼らが求めているのは抽象的な「意見」ではなく、具体的な「物語」だからだ。それで、いつもエッセィに書いていることを少しだけれど、小説に盛り込んで書いたのが、この作品である。(『科学的とはどういう意味か』、幻冬舎新書、105p)


 主人公・橋場は、森自身をモデルにしているのかな、と思わせる工学部の学生である。喜嶋先生という、研究者としてはとても優秀なのだけれど社交性とか政治力はない(そもそも関心がない)工学部の助手と出会い、研究人生に歩みを進めていく。

 そんな話だが、短編版と喜嶋先生がどんなひとで誰が好きでどうなっちゃうかについての大筋は同じ。ということは、ストーリー以外に膨らませた部分に森の「意見」があれこれ入っている、ということになる。そういう前提で読み比べてみると、なるほどなあと思うことしきりだ。

 

■単発長篇

 森博嗣の著作数は膨大。しかもシリーズものはひとつひとつの巻数がそれなりにあるだけでなく、「このシリーズとこのシリーズは実はここがこうつながっていて……」なんてことになっている。今から読みはじめるにはちょっと腰が重いかもしれない。だいたい、いっぱい出ていると「どっから読んだらいいかもわからん」と思うものだ。

 単発長編ものは、基本的にはそういう「○○と○○のつながり」だとか「どこから読んでいいかわからない」というのは、ない。

"基本的には"というのは、たとえば美女から「ある富豪の男から美術品を取り戻してほしい」という依頼を受けてライターとして男に取材を申し込む主人公を描いたハードボイルド(森的には「ハーフボイルド」らしいが)『ゾラ・一撃・さようなら』は、単品としても読めるが、実はとあるシリーズとつながりがある。けれど無視してここから読んだって問題はない。

 つながりがある/つながりがわかる、というのも良し悪しだ。わからないからこそ「あれってなんだったんだろう?」と考えさせる余白がうまれる。

 たとえばその余白が「みなまで言うな。それを言っちゃあおしめえよ」というハードボイルド的なストイシズムとあいまって魅力となっているのが『ゾラ~』だったりする。

 つながりなんか気にせず読んだっていいのだ。読んだあとで感想をググれば、作品間のつながりを指摘している人だらけなわけで、それが気になったひとだけが「つながってる」と言われている作品を読めばいい。

 単発長編ものを全部詳細に紹介するのではなく、独断と偏見でタイプ別にオススメして「解題」に替えさせていただきます。

 ふつうの密室連続殺人ものかと思いきや中盤は巨大な建物がぶっ壊れて押し寄せる大量の水から逃げなきゃ!

 というパニックものになり、終盤は叙述トリックとか多重人格とかごにょごにょって感じの驚きのどんでん返しが三回くらい連続するというサービス精神たっぷりな"ザ・新本格"が『そして二人だけになった』。

 ま、いまどき「新本格ミステリ」なんて言っても20代以下は知らないだろうし、知る必要もない。

 イケメン天才物理学者とかわいい助手の女の子が、人がじゃんじゃか死んでいくのに段々いい仲になっていくミステリだと思って読めば良い。こいつら頭おかしいんじゃないか? と思うだろうけど、ほんとにおかしいのである。

 森博嗣って「中性的な」とか「詩的な」とか言われているけど、実は男(の子)だよね、と思わせる「男の妄想」を具現化したような作品が『少し変わった子あります』と『銀河不動産の超越』。

『少し~』は行くたびに毎回違った若い女の子が同伴してくれるふしぎな料理店にハマっちゃう男・小山の話。なんだろう、この店&この女の子たち? という想像が、むくむく膨らむ小品。

『銀河不動産の超越』は、不動産屋に勤める覇気のないダメサラリーマンの家にほわわんとした女性がおしかけ女房的に転がり込んできて同棲して結婚して子供までできちゃってその不動産会社を継いで事業もそこそこ成功しちゃうっていうあらすじだけ書くと「なんというご都合」なドリームに充ちた作品。ま、どっちも具体的なエロい展開はない。たいせつなのは妄想であって即物的なセックスシーンなどではないのである。

 逆に男の子っぽさがあんまりない、由緒正しきオールドスクール少女マンガ系ドタバタラブコメなのが『どきどきフェノメノン』。

 大学院生の女の子が指導教官の助教授の男のことが好きで、どうにかくっつこうとがんばったり、「こいつとこいつをくっつけよう!」と画策したりする。軽く読めて、とっても楽しい。

 わけのわからん機械が作動している奇妙な建造物が出てくる小説(『ロクスソルス』とか『ゴーメンガースト』みたいな)が好きな好事家向けなのが『カクレカラクリ』。

 森博嗣は、ある時期から隠居状態に入り、たいして売れなくてもかまわないから、伝えたいことや伝えるべきと信じることを書き、本にしている。仕事としてではなく、趣味としての執筆。

 その典型のひとつが『宗田家のグッドバイ』。

 密室殺人もなければドッグファイトも剣劇もない。ケレンが一切ない。47歳のときに母を、50歳のときに父を亡くすことになる男性を主人公にした、家族小説。高齢になった親の介護だとか、死んだあとに戒名やら墓やら遺産の相続をどうするだとか、両親が住んでいた家をどうするとかをめぐる淡々とした小説。

 ことさらに死別をドラマティックに描いて「泣き」に訴えたりしない。森は父親の墓をつくらなかったそうだが(生前から不要だと言われていた)、自分の体験もそれなりに反映されているんだろう。そういう経験をした(あるいはこれからする年代にさしかかりつつある)中高年にとっては、おそらくはよくわかる物語なのだと思う。僕の親はまだ60代で、死ぬ気配もないからピンとこない。というか、エンタメとしてはおもしろくない。

 もうひとつの典型が『実験的経験』。


 不思議な死体? いったいどのような死体なのですか?

「探偵は尋ねた。あまりにも、警部の表情が面白かったからだ」

 躰のいろいろな部分が、なかったのです。

」あ、もしかして、先生……「

」何?「

」私、わかっちゃいましたよ「


 という具合で「筒井康隆みたいだな」と思ってたら、文庫版の解説を筒井康隆が書いていた。

 筒井は森博嗣が夢野久作と並んで本当に敬愛する作家のひとりである。

 ただし森は、ビジネスとしてミステリ小説を書いていたころには、そういう資質/志向を封印していた。それが前面に出ている。

 ロアルド・ダール好きでもある森だが、ハヤカワの異色作家短編集なんかが好きなひとは、こういう遊びがある作品を好きかもしれない。

 いちおう「クーリッキ」をはじめ主要登場人物はいるが、基本的には一篇一篇オチのあるショートショートである。

 タイトルに「実験的」と題はついているものけど、じゅうぶんエンタメだ。こういう作品を「文学的」なんて言うひとはどうかしている。日本の純文学業界では、気の利いたオチなんかつけないで投げっぱなしで終わったほうが「考えさせられる」とか言ってありがたがられるのだから。

 いずれにせよ、よほどのファン以外は読まなくてもいいと思う(そしてこういう発言を読んで怒っちゃう人は十二分にファンなので、その場合は「読んでいない方がおかしい」)。

・森博嗣『喜嶋先生の静かな世界』講談社、2010年

 プロットには、2つの軸がある。

 ひとつは、橋場と喜嶋先生が専門的な研究の道で成果をあげていくこと、大学だえるとか学会といった組織のなかで不器用ながら愚直に振る舞っていくこと、それらのなかでのふたりの交流をめぐる流れ。

 もうひとつは、橋場と喜嶋のロマンス……と言ってもこのふたりが男同士で恋愛するわけではなくて、橋場と清水スピカという押しの強い女の子との恋愛、それから喜嶋と計算機センタのマドンナ(死語)沢村さんとの恋愛が軸となる。

 と言っても、筋は複雑ではない。物語としては、雰囲気を楽しむタイプのものだ。


結婚をして子供ができて、家庭というものが僕を取り囲むようになる、すると、そこにはしなければならない「生活」が沢山あって、あれがあれば便利だ、どうしてもあれが必要だ、とつぎつぎと揃えなければならないものが出てくる。仕事で稼いだ金は、たちまち「生活」に消えてしまう仕組みになっている。大人っていうのは、この仕組みの中にいる人たちのことで、いつしか、自分もその一人になってしまった。そして、もうあの頃には戻れない、再び子供には戻れない、なんて懐かしく思い出したりする。278-279p


 こういう、フレーズを噛みしめるものだ。


・森博嗣『実験的経験』講談社、2012年

 森の身辺雑記みたいなネタも読める。

作家「そうでもありません。このまえは抽選で当たった三百人が聴講していましたが、六割以上は男性でした。見たところ、二十代から五十代までいましたね。まあ、普通では? あ、そうそう、手を挙げてもらったんですが、大半の方が初めて僕を見た、という人でしたよ。講演のためにファンクラブに入った人も多いのでしょう」121p

 

■小説以外の仕事

 森博嗣は小説以外の本も大量に刊行されている作家である。分類してみよう。

①ファンサービス:WEB日記や自作解説、対談集など

 1957年うまれの森博嗣は、ミステリ小説『すべてがFになる』で1996年にデビューして以来、ファンサービスの一環としてWEB上での日記公開やファンからのメールに必ず返事をする、ということを行ってきた(小説誌への連載も打ち止めにした2008年で、基本的にはそういう活動もほとんどが終了)。

 また、作家の常として、自作について書いてくれ語ってくれというオーダーがあり、それに答えるエッセイやインタビュー仕事を受けてきた。

 このあたりのものは、小説家(とか作家だと自分は思ってない。技術者だ。と森は自分では言っているけれど、「技術者の森は~」とか書いてるとややこしいので小説家あるいは作家と言う)・森博嗣をプロモーションする目的で書いていたようだ。

 そもそも森が小説を書き始めた最大の理由は、お金のためである。

 趣味に費やす時間と資金と場所を確保するために、ビジネスとして小説を書こうと思いたって、キーボードを叩き始めた。

 だから作品を売るために、あるいは本を買ってくれるファンのために必要な情報提供やコミュニケーションとしてのテキストをウェブや雑誌で書き続けていた。

 日記やエッセイも出版され、それらは小説にかける手間暇にくらべて数分の一くらいしか売れない、同じ時間を小説書くのに費やしていればもっとお金が入った、とよく言っていた。

 じゃあ、そんなカネにならない活動やめちゃえばいいじゃん。

 と思うところだが、「ファンを大事にする作家」「メールに全部返信する作家」「本が毎年20冊くらい出るのにウェブでの活動もさかんな兼業作家」ということが、森に対する肯定的なイメージを築きあげ、それがコンスタントな売上の確保につながったことは間違いない。

 当たり前だが、好きなひとと年に一回しか会えないのと毎日顔を会わせられる状況とでは、後者の方がふつうは望ましい状態である。物理的な接触の機会が少なくなると、心も離れていくものだ。

 ファンに対して日々アテンション/リテンションを絶やさず、送り手と受け手が「つながっている」と思ってもらうことは、マーケティング上プラスにこそなれマイナスになることはなかっただろう。

 しかも森の作家観/創作観は、最初のエッセイ集『森博嗣のミステリィ工作室』(1999年刊)からして「その作家の作品ぜんぶでひとつの作品」というものだった。つまり個別の作品をバラ売りしているつもりはなく、出来不出来の波があることも含めてひとりの作家であり、そういう「作家買い」を誘発するように仕込んでいた、ということだろう。たぶんね。

 こういう「ファン向け」&「ファンになってね」的なプロモーションとしての文章が、森が書いていた小説以外のテキストの、ひとつのパターンだ。

 もっとも「本を買ってね」みたいな露骨な宣伝は、言っていない。言わなくてもファンは買う。こうしたテキストの目的は、顧客との関係性をつくることが第一にあり、ファンになってくれさえしたら、そのひとたちは新作が出たら自動的に買ってくれるようになる。いくら買え買え言われても、好きでもなく興味もない作家の本なんて買うわけがない。重要度としては

関係づくり>>>>>超えられない壁>>>>>>宣伝

 なのである。昨今、ウェブマーケティングの手法のひとつとして「コンテンツマーケティング」だの「アンバサダーマーケティング」だのでよく言われているのも、これとおなじことだ。

 よく森は「自分の感覚はひとより15年くらい早い」と言っているけれど、たしかにウェブ時代にどんなコミュニケーションを顧客と取るべきか? という手法の実践としては、びっくりするくらい早かった。

 さらにいえば、実は2010年代に刊行された新書に書かれていることの多くは、むかしからウェブ日記やエッセイで書いていたことも多い。そういう意味でも早かったのかもしれない(主張や価値観の大筋が変わらないだけ、とも言えるけれど)。

 また、2003年に出た『森博嗣の浮遊研究室2 未来編』では

 

 結局、「ミステリ」「ミステリー」あるいは「本格」という文字がブランドにならなかった、ということです。モノが溢れている時代に、駄作を掴まされない唯一の指針は「ブランド」なんですけれど。121p


 と言っていたりして、今読むと慧眼だったなと思うこともある。

 とはいえ、森博嗣が10年前、15年前に書いていた日記を2014年現在、嬉々として読むひとはなかなか稀有だろう。森のファンになったら読めばいいと思う。

②趣味に関するエッセイ

 森はそもそも工作をする資金づくり(と教育費のかかるお年頃にさしかかりつつあった子供)のために、自分の時間を投資して小説をつくった。

 なので模型飛行機とかミニチュア鉄道のような、手のかかる工作についてのエッセイも多い。製作ドキュメント『ミニチュア庭園鉄道』シリーズ(中公新書ラクレ、2003年~2005年)もあれば、工作や道具についての考えや経験をつづったものもある。

『悠々おもちゃライフ』(小学館2006年)、『工作少年の日々』(集英社、2004年)、『森博嗣のTOOLBOX』(日経BP社、2005年)などなど。

 あとは、工作用のガレージ建設のプロセスをまとめた『アンチ・ハウス』(ガレージの設計を担当した阿竹克人との共著)とかね。これらはべつに小説のファン向けには書いていないと思う。おもしろいけどね。

『ミニチュア庭園鉄道2』(中公新書ラクレ、2004年)のまえがきには

これまでに百冊近い本を出版しているけれど、初めて友人に配れる一冊ができたのだ。親戚や友人に自著をすすんで見せたことは過去になかった。この本が一番自分らしい正直な内容だからだと思う。なにしろ小説というのは全部嘘の話なのである。

 なんて書いてある。あけすけすぎてすばらしい。

③科学・大学関係

 森博嗣は工学博士であり国立大学工学部の助教授だったこともあり(2008年をもって退官したようだが)、また、デビュー当時から作風が「理系ミステリ」などと言われていたこともあり、科学エッセイの仕事もしていた。「日経パソコン」に連載していた森博嗣『森博嗣の半熟セミナ』(講談社、2008年)などである。

 大学仕事を森博嗣名義で本にしたものとしては、森が学生に質問を書かせてそれに答える『臨機応答・変問自在』(集英社新書、2001年)がある。工学に関するものもあれば、人生相談もある。


先生、生きてて何になるんですか?

★それを知るために生きています。104p


 科学、大学もの仕事も、ファンサービスというよりは、もっと違う目的で(違う読者に向けて)書かれていたと思った方がいいだろう。

④詩集や絵本、フォトブック

 このへんは「ビジネスとしての出版」と考えるにはそんなに売れなかろうけれども、森のパブリックイメージのひとつであるセンシティブでポエティカルな面がとてもよく出ている活動と言える。

 たとえば『MATEKI 魔的』は「小説は書いたことがないって言ったけれど、詩は凄く好きだったんです。詩は書いていました。恥ずかしくて人には見せられない(笑)」(『100人の森博嗣』)と言っていた森による、写真付きの詩集。

Q詩と小説の違いとは何でしょうか?〈男性 20歳 学生 千葉県〉

★最も顕著なものは文字数。境界は曖昧です。88p

 と『臨機応答・変問自在2』で書いていたとおり、森らしいタイトル、場所、人物の設定が、この詩集にもある。

 ファンにとってはたまらないアイテムが詩集やフォトブック、そして絵本である。

⑤最近のエッセイ:個別のテーマごとに興味を持つだろう読者へ向けて

 当初の目的であった「カネ稼ぎの手段としての小説執筆」が成功し、趣味に使える時間と場所とお金が確保できた森は、2008年いっぱいくらいを境にして小説その他の執筆業を「ビジネス」から「趣味」にきりかえていく。

『常識にとらわれない100の講義』にそのあたりの話が端的にまとまっている。


 さて、この頃、「小説は読まないけれど……」という読者の方からのメールをいただく割合が増えている。いつも書いていることだが、小説よりも売れないし、小説よりも書くのに執筆時間がかかるけれど、この種のものを書き残しておくことは、小説よりは多少は意味があるように感じる。何故なら、小説は結局全部「嘘」であるけれど、こういった文章には、それが少ない。とにかく、素直に、正直に書いている。2p


 趣味のための資金稼ぎという当初の目的を果たし、小説を含む文筆業が「ビジネス」ではなく「趣味」になった森博嗣の文章からは、ファンサービスめいたものが削ぎ落ちている。すがすがしく、そして、かつての森を知る者ならば、ああ、そういうことだったのか、と思うはずだ(「そういうこと」の内実は、それぞれに多少違うだろうけれど)。


 小説は、以前は売れるものを書いた。みんなが喜びそうなものを書いていた。仕事だったからだ。今は「引退」したから、小説は趣味になった。だから、新作を書くときには、森博嗣らしくないものを書こう、という気持ちが強くなった。以前も、これはあったけれど、やはり大勢の人が期待しているのは、「代わり映えのしない」ものだから、自分を抑えて、作品をデザインしていた。84p


 もはや顧客として扱う必要のなくなった「大勢の人」との付き合い方の記述はあけすけであり、たんに読んでいておもしろいだけでなく、勉強になる。


 インターネットのおかげで、沢山の個人の言葉を聞くことができるようになった。(中略)

「おお、これは凄いな」と感心するのが五パーセントくらい、「まあよくあること、普通だね」と確認をすることが八十パーセントくらい、あとの十五パーセントは、「うわ、馬鹿だなあ」という感想である。(中略)

 ああ、こんなふうに考えてしまうのか、そういうふうに捉えるのか、と馬鹿さ加減に目から鱗が落ちる。(中略)とにかく、大変有益だ。186-187p


 近作は本ごとにタイトルを見れば扱っているトピックは明白だから、各人の興味に応じて読めばいい。

 たとえば『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』は、森がよく受ける相談「ものごとを客観的に(or抽象的に)考えるにはどうしたら良いでしょうか?」に対する回答をまとめて書いた本である。

 創作に関しての森の考えがぎゅっと集約されていて有用なのは、『科学的とはどういう意味か』と『小説家という職業』だろう。

『科学的とはどういう意味か』は、タイトルどおりの科学をめぐる日本の状況についても書かれているが、森の小説観もよく出ている。

 もう少しわかりやすく書けば、評判と売れ行きが比例しない。


 それでも、一つだけ指標となるものを見つけた。それは、掲示板の意見であれ、書評サイトであれ、とにかくそういった「声の数」は、だいたい本の売れ行きに比例しているということだった。ネットでは、こういった数を簡単に検索できるから、全体数の集計も一瞬で可能だ。152p


 ところで、熱狂的な読者から「森博嗣が過小評価されているのが気に入らない」という「ありがたい」メールをよくもらうのだが、僕自身は十分に評価されていると自覚している。それは、僕の本が売れた冊数が僕にとって「評価」の指標だからだ。たぶん、読者は、別の「声」とか、あるいは「賞」なんかが「評価」だと思っているのだろう。ちなみに先日、Amazon10周年記念のとき「殿堂入り」の盾が贈られてきた。21世紀になってからの10年間で、本が売れた著者として20人選んだようである。こんな名誉なことはない。個人が褒めてくれるのとはレベルが違う、本当の「評価」だと僕は感じる。153p

 知り合いの書店員数人の話や、ファンから送られてくるメールや、あるいは評論家の意見や、そういう個人的な「好み」をいくら知っても、全体像は見えない。編集者はこう口にする。「評判は良いのですが、なかなか売れなくて」と。それは明らかに、「評判」というものを的確に測定していない証拠だ。


 人の意見、感情、表情を観察することは、個別には大切だけれど、全体を数字で観測することが、まず先決だと思う。155p


「売上」(定量的な数字)よりも「評価」(定性的な評価。とくに身内からの評判)を重んじているプレイヤーだらけになると、産業としては衰退していく。

 これは純文学にも本格ミステリにも、少し前までの落語にも見られた、わりとよくある現象である。

「数字、ファクト、ロジックで判断せよ」とはライフネット生命の出口治明の口癖だが、そういうひとは出版界では、とくに小説の世界ではまったく多数派ではない。

 そんななか、小説に対してファクトベースでものごとを見ている作家が森だった。

 そしてそういう見方に加えて、具体的な実作の方法論を書いているのが『小説家という職業』である。ただしもっとも繰り返されることは「とにかく自分で書け。書くしかない」ということで、これは他の著作にもよく出てくるメッセージだ。

 この本に特有のものであり、作家(志望)にとっても作家でない人間にとっても「なるほど!」と思うのは、ネットが普及した現代においてミステリはどうあれば商品として成立しうるのか、という考察と工夫だろう。


 たとえば、「結論をしっかりと書かない」結末や、作品の中にちりばめられた答のない謎を用意する。すると「これってなんなんだろう?」とおさまりが悪いままの読者がネットにアクセスする。そこで作中には書かれていなかった解答や考察、議論を見る。「ああ、そうか」と納得すると同時に、仲間に入れたという安堵を得る。「ネットは、そういった欲求も同時に解決する機関(新しい社会)なのである」(75p)。


 秀逸なしかけだ。


 僕は、図書館や古書店の問題には、「何度も読みたくなるような作品」で対抗するしかない、と考えた。作品の随所に、簡単には読み解けないものを織り混ぜておく。その作品ではなく、別の作品でそのヒントを見せる。ネットで、こういった部分が話題になれば、「もう一度読みたい」と思う人が増えるだろう。再読するためには、本を手許に置いておかなければならない。77p

 また、ネタばれについても、簡単にそれができないような機構を盛り込むことで対処ができる。一言で説明できないようなネタにすれば良い。あるいは、人によって解釈が異なるようなネタにする。77-78p

 さらには、わざと問題点を忍ばせておく、という手法もある。誤解を誘うようなものでも良い。(中略)読み手は、これで苛立つことになる。そしてネットでそのことを指摘したり、あるときは「間違っている」と糾弾するような書き方もするだろう。しかし、それが作品を広める。つまり、宣伝効果があるという計算である。78p


 今日ではSound Horizonやカゲロウプロジェクト、『ゆめにっき』といったコンテンツも同様の「仕掛け」を施し、成功している。ようするに「作品全部に触れても判然としない謎があって、誰かと話したくなる」ような仕掛けであり、ネットがそのコミュニケーションの舞台になっている。そんな日が来ることを90年代から考えて実行していた森博嗣の先駆性には、脱帽するばかりである。

「ユーザー間のコミュニケーションを誘発してバイラルさせるコンテンツ設計」のことなんかを昨今では「グロースハック」などと言っているが、小説界のグロースハッカー以外の何者でもない。天才が手の内を見せてくれたことの価値は、出版界にとって、クリエイターにとってめちゃくちゃ大きい。

 これから売文業やコンテンツ産業に関わる人間には、『科学的とはどういう意味か』と『小説家という職業』は必読すぎる二冊だ。


・森博嗣『森博嗣のミステリィ工作室』、1999年

 関係者を集めて、探偵役が推理を披露するシーンも、ありきたりのお約束の場面である。

 一見論理的に見える言い訳を、探偵役がくどくどと話すことになるのだ。これは「論理」ではなく「言論」に過ぎない。実際にはまるで論理性がない。直感的思考に屁理屈をつけているに過ぎない。黙って聞いている奴らも奴らだ。全員が酔っているとしか思えない。もうリアリティは完全に崩壊している。だが、しかしながら、まだまだ「このクサい芝居」に需要があることが、ファンレターなどをもらってわかった。119p

 森博嗣がフェイバリットのミステリ100作を選んだ「ルーツ・ミステリィ100」、『すべてがFになる』から『地球儀のスライス』までの自作についてあとがきを書いた「いまさら自作を語る」(森は自作にあとがきをつけず、シリーズが完結したあとでなければこの手のものを書かない)、最初期のエッセイや、敬愛する萩尾望都との対談を収録。

「ルーツ・ミステリィ100」は、「衝撃(impact)…読んだときのびっくり度」「独創(unconventionality)…新しさ、オリジナリティ」「洗練(sophisication)…作品としての完成度、知的度」「感性(sensibility)…感覚的な鋭敏性」「残留(reminiscence)…心に刻まれる深さ」という基準で選ばれている。作品セレクト自体よりも(便宜的にせよ)何をモノサシにするかに「ものの見方」は集約されている。

 もちろん、『Xの悲劇』を読んだとき、探偵ドルリー・レーンが最後に推理を開陳していく場面で「どうして他人の行動をそこまで突き詰めて考えられるのだろう、自分がもし犯人としてその場に居合わせたらどんなに怖いだろうか、そう思うと背筋が寒く」なり、"怖い"と感じたというミステリ原体験。であるとか、デイヴィッド・ハンドラーについて「最近では一番好きな作家」と言い、犀川と西之園のシリーズを書くときに目指したのはハンドラーのホーギーシリーズである。という個別のエピソードもおもしろいけれど。

 つねづね「ビジネスとして小説を書いている」と口にしている森だが、そのスタンスがうかがえるのは次の2箇所だろう。ひとつめは自作『封印再度』についての「あとがき」だ。


 さて、本作では、犀川と西之園の関係の進展がメインテーマであり、メイントリックとなっている。こんなごく当たり前のことを、とあるインタビューで答えたら(ホームページにも書いたと思う)、「あとで作者が真意を説明するのはみっともない」などと叱られたりもした。もっともなことである。けれど、「あとがき」を書いたり、ホームページを作ったり、本書のような出版物を出すことが、すべてみっともないことだ。書評など、人の作品をとやかく言うのだから、さらにみっともない。格好の悪いことをしても時間とお金を交換している。格好をつけている場合でもない、と森は考えている。127p


 つまり、みっともなくても必要ならばする。と言っている。しかし、顧客であるところの読者との付き合いについてはこう言う。


――森さんはファンを意識されますか?

森 全然しませんね(笑)。ホームページを開設しているのは、何かサービスしないと……という気持ちからですが、書くときは(ファンからは)遠くにいます。186p


 大事にはするが、作品を書くときには距離を保つ。このあともくりかえしくりかえし、この立場表明はされている。森博嗣は、このときから森博嗣だった。


・森博嗣『臨機応答・変問自在』集英社新書、2001年

「先生は、どうしてこんなつまらない本を出版するのですか?」

というひとことから始まる。

 森博嗣は某国立大学の工学部助教授であり、学生に質問をさせることで出席をとり、その質問に自分で答えたプリントを配布するという授業を何度も続けていた。この本は、数万におよぶQ&Aから、編集者が選別し、カテゴリ別に分類して掲載したものだ。

「いろいろな質問」「建築に関する質問」「人生相談?」「大学についての質問」「科学一般についての質問」「コンクリートに関する質問」「森自身に対する質問」に分けて、学生からの質問とそれに対する応答を載せている。

 工学の授業に関する質問もそれはそれでおもしろいが、やはり興味深いのは「Q芸術というのは創造することだと思っていましたが、そうだとすると、創造とは非生産的なことなのでしょうか? ★森は少なくとも「創造」という言葉をそのように使っています。「創る」という文字は、今あるものを壊すという意味を含んでいる。(中略)生産する行為とは少し方向性が違う。米を創造するとか、工場で車を創造するとはいわない」(36p)といった、芸術観めいたもの。

 あるいは「Qピラミッドパワーってどんなパワーですか? ★人間の思い込みの力」(50p)といった、学生の質問がなければ森博嗣が一生考えなかったような問いとそれに対するユーモラスな答えだろう。

 自分が教育者に向いていると思ったことはただの一度もない。と語る森だが、「Q先生、生きてて何になるんですか? ★それを知るために生きています」(104p)だとか「努力できることが才能。だから、成功は百%才能だと思う。才能は持って生まれたものではなく、思い立ったときに、あるいは、やる気があるときに生まれるもので、いつでも消える。自分自身をどれだけコントロールできるかが才能です」(111p)といった回答は、ある意味でとても教師らしく、読む者に示唆を与えることばだと思う。

Q森先生が小説家だったなんて知りませんでした。一度本を教えてください。どんな小説を書いているのですか? ★読む必要はありません。(230p)

Q興味のない人に興味を持たせるには、どうすれば良いですか? ★諦めましょう。(117p)


・森博嗣『封印サイトは詩的私的手記』幻冬舎、2001年

 森博嗣のサイト「浮遊工作室」内「ミステリィ制作部」で公開されていた「近況報告」のうち1999年分を収録したもの。

 サイトの来訪者136万人突破記念アンケートを行い、その結果を冷静に分析しているのがおもしろい(700人以上が回答、年齢は15歳から58歳までで平均年齢は24.6歳。男女比は51対49)。「本格ミステリィ」という言葉に対して、森の読者が持っているイメージを聞いたところ


半分以上の人が、「マイナなもので、私は好きになれない」と認識しているようです。つまり、キャッチコピィとしてはマイナス効果が大きなラベルだといえるでしょう。森のHPのアンケートでこの結果なので、社会の平均的な層では「本格」はもっと厳しい状況にあるといえます。478p


 だったという。ミステリ小説誌『メフィスト』が6万部発行(137pの記述による)していたこの時代に、である。小説の世界では、定量分析を行って作品づくりに活かす作家や編集者はきわめて少ないが、マーケッターなら当然のことだ。森はそれをしていただけだった(ファンの声を作品に反映することはない、とはたびたび言っているが、聞いたものをまったく無視できるように人間はできていないし、関心がないならアンケートなど採らないだろう)。


 この本を手にした皆さんは平均的ではない。限られた人だ。4p


 こういう、ファンをくすぐる言い回しも、商売として考えるなら当然のことだ。

 そのほかに興味深い点としては、文体に関する執着があげられる。『冷密』文庫版ゲラ作業について、


一番の違いは、擬音がわりと多いことでしょう(それでも普通に比べれば少ないけれど)。この1作で10箇所くらい擬音があります。(中略)「ははは」と笑うこともあまりないし、「きゃあ!」と悲鳴を上げる、なんて表現も森の作品には珍しい。(中略)

 ノベルスと文庫は、しかし、4000箇所は異なりますが(笑)、それは、文章がより最適化されている、という修正で、内容は不変です。85p


 と言い、


 文章のリズムにはとても興味があります。言葉選びに対する面白さこそ、文章を書く意義の大半だと感じていますし、自分の中の非常に曖昧なセンスに触れるツールの1つでもあると認識しています。文体は常にチャレンジしたいし、固まりたくないと思っています。300p


 とも書いている。『小説家という職業』では「文体なんかどうでもいい」と書いていたが、自分のこだわりと、自分以外の誰かに小説を書くときのアドバイスとして挙げるプライオリティの順番は、きっと違うのだろう。

・森博嗣『臨機応答・変問自在2』集英社新書、2002年

Q犀川助教授に憧れて、就職活動をやめ、大学院に進学しようと決意した某国立O大文系の私ですが、これからの五年間に対して不安が結構ありますね。いわゆるドキドキ。そんな私に良きアドバイスを!!〈男性 20歳 大学生 大阪府〉

★自分の力で解決して下さい。239p


 前著がエッセイの倍、小説の半分くらい(!)という売上を記録したことから企画された第二段。ただしこの本では学生からの質問ではなく、一般読者から公募したものが収められている。

「何でも質問していい」と言うと、信じがたい馬鹿があらわれるのが世の常だが、それらとセットで森の回答を読むと実に味わい深い。


Q眠っているときに見る「夢」と、叶えたい願望をさすときの「夢」。これって同じものなのでしょうか?〈男性 22歳 学生 熊本県〉

★同じものだったら、幸せですね。お大事に。34p


 また、編集上のミスなのか意図的なのか、同じような質問が別のカテゴリで掲載されており、それに対する回答が違うのもおもしろい。


Q世の中に不思議なことは一つもないのですか?〈女性 17歳 高校生 兵庫県〉

★そういう質問が出ることで、少なくとも一つはあります。21p

Q京極夏彦先生の作品の台詞に「この世には不思議なことなど何もないのだよ」ってありますが、森先生はいかがでしょう?〈男性 23歳 大学生 京都府〉

★そう思うときもしばしばありますが、やがて後悔します。118p


 もちろん、創作に関する質問への答えは、いつもどおりシャープだ。


Q美しい(森さんが美しいと考える)文章と、そうでない文章との違いは何に起因するとお考えでしょうか?〈男性 36歳 会社員 静岡県〉

★主として、発想とリズムです。97p

Q小説を書くに当たって気をつけている点はありますか?(中略)

★突飛なものをいかに滑らかに描くか、ではないでしょうか。130p


 ただし、いつもどおりシャープな創作論は、他の本でも大概読める内容ではある。


・森博嗣『君の夢 僕の思考』PHP研究所、2002年。

・森博嗣『議論の余地しかない』PHP研究所、2002年

 しかし本人の評価が最も重要である。他のものは、すべてゴミだと思っても良い。『君の夢 僕の思考』75p


 PHPの木南が森の小説やエッセイの一節から文章を抜き出し、それに森がデジカメで撮った写真の上と短いメッセージをつけくわえたもの。

『議論の余地しかない』は、『君の夢 僕の思考』のために作ったコンテンツが半分残っていたのでできた続編である。

 たとえば『君の夢 僕の思考』ならば、「動機 a motive」と題されたページには、朝日のさしこむ木々の写真に、「動機なんて、本当のところ、僕は、聞きたくもないし、聞いても理解できないでしょう。それに、本人だって説明できるかどうか……。こんな欲望が、言葉に還元できるものでしょうか? 他人に捏名できて、理解してもらえるくらいなら、人を殺したりしない。そうではありませんか?」『詩的私的ジャック』432頁という小説の一節と、「ただどうしようもなく理解してほしい、という動機が大半だろう。それ自体は理解できなこともない。」という書き下ろしの言葉が書かれている。

 たとえば『議論の余地しかない』であれば、「理論Theory」と題されたページでは、石と落ち葉が挟まった側溝(?)の写真に、「理論なんて、つまりは、ただのコンクリート舗装か、ガードレールみたいなものに過ぎない」『今はもうない』219頁という小説の一節と、「作りあげる手順はだいたい決まっていて、通り心地にも大差はないが、あるとないでは大違いである。」という書き下ろしのメッセージが書かれている。

「大勢だと疲れる。」という吐露もあれば、「美しい形とは、付け加えて作ったものではない。削って残ったものである。」という美的感覚に対する表明もある。「恋人にも、結婚相手にも、いかに信頼し、愛し合っている人にでも、これだけは干渉されたくないという領域を持つことは、人間として大切なことだと思う」(『君の夢』53p)だとか、「仕事至上主義ほどプアーな発想はない。仕事の大切さは、すなわち、貧しさのバロメータである」(同書99p)という、ああ、森博嗣だな、と思うものもあれば、「孤独は都会にある。だから都会が好きだ」(同書69p)という、けれど都会には住んでいないんだよな、という一節もある。

 森が関わった本のなかでいちばん近いものは、森が翻訳したジェーン・フルトン・スーリ+IDEO『考えなしの行動?』だろう。写真+ひとこと、というスタイルが似ている(本の目的はだいぶ、ことなるけれど)。

 このころのデジカメの画素数が少なく粗い写真が、森の詩情とあいまって、切ない。


・森博嗣+阿竹克人『アンチ・ハウス』2003年

 森が、ガレージの設計をバックミンスター・フラーの研究者でもありピアニストでもある設計士・阿竹克人に2001年11月に依頼をし、2003年に完成するまでのドキュメントをまとめたもの。

 そんなの何がおもしろいんじゃ、よっぽどのファンアイテムだろう、と思うひともいるだろうが(僕も読む前はそう思っていた)、これがとてもおもしろい。

 大きなトラブルが発生し、落としどころを見つけるまでのプロセスがおもしろい。しかもその大イベントが2つもある。

 ひとつは、「道路の両側に樹木が生い茂っていてほしい」、そのために「みんな道に面したところに木を植えなさい」、それも道路に面している半分の長さに木を植えろ、10メートルおきに高さ2.5メートル以上の木を1本植えろ、という行政指導との戦いである。

 森のガレージは前の道路に間口5メートルしか面しておらず、5メートルの半分に木を植えたら自動車が入れなくなる。そもそも指導の目的は、もともとは山を切り開いた土地だから、宅地に木を植えてフォローしろ、ということなのだが、森が買った土地はすでに鬱蒼と木が茂っていて、改めて生やす意味がない。

 にもかかわらず、行政はルールを杓子定規に運用して無意味かつ危険が増すだけのことを要求してくる。これが山場のひとつめ。

 もうひとつは、ガレージをつくる予算を1000万円、完成は2002年中とオーダーしていた森と、受注した設計士の阿竹克人との、予算と納期とクオリティをめぐる食い違いである。

 森はお金がないわけではないが、自分が考えるガレージはせいぜい1000万円だろうと思っているのだが、阿竹は倍以上かかると主張してコンフリクトが起きる。

 対役所では共同戦線を張っていた森と阿竹が、こんどは見解を違えて長文メールを何度も往復する。しまいには、森はいっそチャラにして仕切り直そうなどと言い出す。これまたスリリングである。

 計画どおり行くと思うな、失敗するのを前提にやってみるべし、と森はよく言っているが、「トラブルがあって当たり前」とはこういうことを指していたのだな、ということがわかる一冊。


・森博嗣『MATEKI 魔的』PHP研究所、2003年

「小説は書いたことがないって言ったけれど、詩は凄く好きだったんです。詩は書いていました。恥ずかしくて人には見せられない(笑)」(『100人の森博嗣』)と言っていた森による、写真付きの詩集。


Q詩と小説の違いとは何でしょうか?〈男性 20歳 学生 千葉県〉

★最も顕著なものは文字数。境界は曖昧です。88p


 と前年2002年に出た『臨機応答・変問自在2』で書いていたとおり、森らしいタイトル、場所、人物の設定が、この詩集にもある。

 島田荘司は『本格ミステリー宣言』のなかで「ミステリーを書きたければ詩を書け」と言っていたし、森が好きなエラリー・クイーンの翻訳者には鮎川信夫がいたし、田村隆一は(やはり森が好きな)ロアルド・ダールの翻訳もやっていた。


 これこそ少数にして残された墓地

 認識は死を拒む物質に刻まれた墓標(「愛情は英雄か」)


 なんて詩は、ちょっと「荒地」派っぽい気がしないでもない。もちろんもっとポップなものもあって、


 凍りついたシネマシーン

 孤独な僕のサスペンション

 溶けだしたキスを繰り返す

 閉じ込めたキスを思い出す

 だけどもう動かない

 孤独な僕のサスペンション(「私的詩的素敵」)


 これなんてほとんどフリッパーズ・ギターみたいなアドレッセンスを感じさせる。森自身は『森博嗣のミステリィ工作室』で、石川啄木と三好達治の詩集を自分のルーツとして挙げていたけれど。


 遠い日に感じた、むせかえるような甘酸っぱさを思い起こさせるような言葉が、凝縮


されている。


・森博嗣『ミニチュア庭園鉄道』中公新書ラクレ、2003年

・森博嗣『ミニチュア庭園鉄道2』中公新書ラクレ、2004年

・森博嗣『ミニチュア庭園鉄道3』中公新書ラクレ、2005年

 森が自宅の庭に建設した約1/6スケールのミニチュア鉄道。私鉄・欠伸軽便鉄道弁天ヶ丘線。3人までが乗車できる。ひとりで土木工事をし、線路を敷いたものである。

 このシリーズには、2000年夏から2005年初までの制作プロセスがドキュメントされている。一気に読んだ方が感動は増す。その理由も書いてある。


 一般に「映像は正直だ」「映像はわかりやすい」「映像は訴える力がある」という言葉を(おそらく特にテレビで)耳にします。しかし、たとえば、模型の趣味の場合、ビデオやDVDはだいたいつまらないものが多いのです。これも「今」しか見られないことに起因していて、やはり製作記事などのテキストの方がずっと面白くなる道理。(中略)静止画とテキストだけのHPや書籍の方が、情報を時間軸で積み重ねることで、より正確にものを伝えられる可能性を有していることは、今のところ幸いといえるでしょう。『ミニチュア庭園鉄道3』、62p


 だんだんできあがっていく様子が、とにかく楽しそうにつづられている。かぎりなく素に近い森博嗣がここにいる。


これまでに百冊近い本を出版しているけれど、初めて友人に配れる一冊ができたのだ。親戚や友人に自著をすすんで見せたことは過去になかった。この本が一番自分らしい正直な内容だからだと思う。なにしろ小説というのは全部嘘の話なのである。『ミニチュア庭園鉄道2』ip


 この環境、この精神状態をつくりだすために、森は小説を書いた。そして手に入れた。


 この趣味をやっていると、周囲のみんなからよく「根気が良い」「器用ですね」などと言われるが、それはまったく逆だ。根気がなく、不器用で、モノをちゃんと最後まで完成させられない。そういう子供だった。だからこそ、こうして息を止め、自分をコントロールして、じっと集中することが楽しい。そんなことができる自分が嬉しい。なんだか、成長したように錯覚できるからだろう。140p


 そりゃあ幸せだろう。これを読んで何も触発されないとしたら、そのひとはちょっとどうかしている。


・森博嗣『森博嗣の浮遊研究室』メディアファクトリー、2003年

この世界に片足を入れてみて一つ感じたことは、「犯人が誰なのか」という謎や、犯人の意外性がそもそも、世間ではそんなには求められていない、という事実。これ、本能的に「面白く読もう」という意識かもしれませんね。誰が犯人かを自分でつきとめてやろう、とか、それを上回る意外な犯人を期待している、というファンは少数派でしょうね。304-305p


『ダ・ヴィンチ』連載の『奥様はネットワーカ』連載終了後にウェブマガジン「WEBダ・ヴィンチ」上に2001年10月からスタートしたエッセイ風フィクション企画。

 森のサイト「浮遊工作室」をパロッて「浮遊研究室」にしたとのこと。

 森は2001年をもってウェブ上への日記の公開をやめることにしていたから、そのエッセンスを一部こちらにまわして……という目論みだったようだが、「日記」とはあきらかに違う読み物になっている。

 まず、助教授・森博嗣、隣の研究室の助教授で森の後輩で嗜好不可解な車道栄、秘書でミステリィ好きで私生活不明な御器所千種、いろいろこだわる助手で性別不詳な上前津伏見の4人による会話形式で進む。これは森博嗣の他に3人の著者(プロの文筆家ではなくアマチュアだという)がいて、4人で共同執筆というかたちをとった「フィクション」だという。具体的には


 3人が提案してきたテーマから毎週6つを僕が選び、まず簡単なコメントを書く。すると3人がそれぞれ言いたいこと、思い付いたことをメールで書いてくる。それを材料にして4人がその場で会話しているように、文章を切り刻み、並べ直す。どうしてもつながりがないところがあれば、自分の発言を挿入すれば良い。『森博嗣の浮遊研究室5 望郷編』293p


とのこと。毎回「日常」「言葉」「定義」「世情」「建築」「人生」「ミステリィ」「映画」といった多岐にわたる内容で4人がだべりながら進む。

 引用するのは森助教授の発言だけにさせてもらうが、やはり小説論、ミステリ論がおもしろい。


つまり、トリックは、一言で簡単に人に伝達しやすい、びっくり度が誰にもわりと評価しやすい、という単純さを持っています。そのため、分類したり、順番に並べたり、といった分析や統計には向いているのですが、ただ、それが、作品の面白さを直接的には代表していないところに、本格ミステリィ界が抱えている根本的なジレンマがあるわけです。だから、「作品は面白いけれど、トリックは小粒」とか、「ミステリィとしては面白くない」「ミステリィ読みには薦めない」といった評価がまかり通ってしまう。これは、新しい人や、外から見ると、非常に閉鎖的に感じられるでしょう。かつて、SF界がこれで衰退したと聞きます。こういった二重評価が、ミステリィ界を衰退させる原因になることは明らかです。気をつけましょう、なんて言っても、既にもう衰退しつつありますが……(笑)。145p


 マニアが評価する要素と、それ以外のひとたちが購買するときに見るファクター(売上に相関する要素)は違う、ということに、森は気づいていたし、早くからそのことを対外的に指摘してもいた。

 あとは40歳近くなるまで小説を書いたことがなかった、という神話的なエピソードを、自分でちゃぶ台がえしをしているのが驚くべき点だろうね。


あ、そう言えば、僕ね、漫画を書くまえに小説を書いたことがあるんですよ。それもミステリィ。今まで誰にも言ったことないんですが。(中略)中学2年生の頃かな。クィーンを2、3冊読んだあとに、自分でルーズリーフに手書きで100枚くらい書いた。友達に見せて、物理の先生にも読んでもらったら、凄く丁寧に赤を入れて、文章を直してくれた。404p


・森博嗣『森博嗣の浮遊研究室2 未来編』メディアファクトリー、2003年

それにしても、オビって、いらないものだよね。誰があんなものを望んでいるのでしょう? 日本の書籍って、オビのためにデザインも台無しになっているしね。225p


『WEBダ・ヴィンチ』連載をまとめた本の第2弾(2002年11月25日~2003年6月23日更新分)。

 2003年2月3日に書いていることが、今から見れば興味ぶかい。


 最近は小説を読むということもなくなりました。1年に5冊読めれば良い方でしょうか。読書はもっぱら雑誌だけ。それも、趣味的でマニアックなものがほとんどです。しかし、1年まえに日記の公開をやめたのに、それを機会に入れた仕事でもう手一杯になっている感じがします。そろそろ、自分の生活の中から時間をひねり出すのも限界に近づいている、という気がしていて、これ以上の時間を作るには、何かをやめるしかないかも。その最後の手段はもう少しさきかな……。82p


 まあ、興味をもつのは、この前後を知っている森博嗣自体に関心があるファンか評論家・研究者だけだろうが。

 あとはほかの本でも書いているようなことが、わりと載っている。


・森博嗣『工作少年の日々』集英社、2004年

「工作少年」としての自伝的なエッセイを脱線たっぷりに書いた一冊。

「小説すばる」2002年11月号~2004年4月号に連載されたエッセイをまとめたもの。一年半もエッセイを連載したのは初のことであり、森にとっては一か月に一回書くことは一週間に一回とか毎日書くほうがずっと楽(前回書いたことを忘れてしまうから)、だという。

 工作に関する考察で、おもしろいことはいくつもある。


 道具が悪いと、本当に良い仕事は望めない。もし、あなたが何かを上手くできないとしたら、それは間違いなく道具が悪いと疑って良いだろう。ただし、その場合、あなた自身が道具である可能性もあることに注意しなければならないが。43p


 けれどこうした工作に関することは、森はほかのところでもたびたび書いている。

 書かれている情報以上に「おもしろいなあ」と思うのは、こういう筆の滑り具合だ。


ちなみに(と書きながら、ほとんどちなんでいないが)スバル氏は、どうしてスバル氏なのかといえば、芸名とか源氏名ではなくて、それが彼女のニックネームというか、そうそうすっかり忘れていた、ペンネームだからである。水商売ではない。水商売というのは、水道局のことではない。このままどんどん話題が逸れていくと、そのうち『千と千尋の神隠し』の話になるかもしれない。19-20p

しかし、さすがにこれは外せないだろう。否、外そうと思えばわりと容易く外せるし、森博嗣ならば軽く外してくるだろう、とコアなファンは予想しているはずだから、その裏をかいてやっぱり書こう。と書いたとたんに、書きたくなくなってきたが、あこういうのを「心のフラッタ」と命名したいものであるけれど、ここまで書いた文字を無駄にしたくないので、しかたがない、じゃあ書くか、とか迷っているだけで、文字になる、というのがこの仕事の不思議、しかしちょっと嬉しかったり。221p


 こういうところにあらわれる、中身のない遊びの文章がまた、楽しい。


・森博嗣『森博嗣の浮遊研究室5 望郷編』メディアファクトリー、2005年

 これまでにも幾つかのシリーズものを創ってきたけれど、僕の場合、だいたいいつも5作で1つのまとまりをなす傾向にある。小説の場合もそうだったし、ウェブ日記のシリーズも5冊だった。(中略)それくらいになると「もう潮時だな」と感じてしまうのだろう。4p


 というわけで『WEBダ・ヴィンチ』連載のこの企画も最終巻。2004年8月23日分から2005年3月14日更新分までを収録。企画を振り返ってのあとがきでの「プロとは?」という考えが、興味深い。


 僕以外の3人の方はアマチュアである。乱暴な表現で恐縮だが、アマチュアは自分が言いたいこと」を書く一方で「こうは思われたくないこと」には大変敏感だ。プロは、言いたいことよりも「言ってもらいたいこと」に敏感で、「こうは思われたくない」と知りつつも求められているものを書く傾向にある。端的にいえば、アマチュアは誤解されないように発言するが、プロは誤解されてこそプロなのである。293p


 報酬を得るための執筆であり、それを得るために必要なら誤解も辞さない、というスタンスは徹底している。


 読者の方からよくいただく質問で、「いつまで小説の執筆を続けられるのですか?」というものがあります。いつまでも続けるつもりはありませんし、たとえば死んだら続けられません。(中略)小説は森にとっては臨時のバイトに近いものであって、大袈裟な将来計画というものは立てていません(せいぜい5年後くらいまでです)。107-108p


 いま読み直して慧眼だったな、と思うのは次の一節である。


 10年ほどまえから、「現代の若者は活字世代だ」と感じてきましたが、最近はそのピークも過ぎ、今は「写真世代」になりつつあるように思われます。人が受け入れる文章量は減少し、言葉はますます短く選ばれるようになることでしょう。156p


 あとはいつもの森博嗣。


・土屋賢二×森博嗣『人間は考えるFになる』講談社、2004年

 森と、森が「凄い影響を受けてる」とリスペクトを隠さない哲学者の土屋賢二との対談、および土屋による短編ミステリと、森による対談風の短編小説を収録。

 対談内容はふたりとも大学で働く学者だけあって大学や学生についての談義もあり、趣味や「友達は必要か!?」そしてやはり「(売れる)ミステリーの書き方」に及ぶ。

 森博嗣が科研費(科学研究費。文部科学省からもらう研究費)の書類を書いて文章の書き方を覚えた、という話に始まり、じゃあミステリはどうやって書いているんだ、いや、十ページ先ぐらいのことまでしか考えていない、まず、場所を決めて、登場する人間を揃えて、書きはじめてからどうしようかなと考える、であるとか、いや、そもそもその前にタイトルを先に考える、といういつもの話に入って行く。


森 そうか……。しかし殺すとか憎むというのは、基本的に相手になにかを求めているんですね。求めて得られないから反対の感情が出てくるのだと思います。

土屋 え、何を求めているんですか?

森 愛されたいとか、関係をもっと深くしたいとかでしょうか。元から人間関係にあまり期待していない人間はもつれないわけです。110p

 といった人間観に関する話題もおもしろいが、白眉なのはやはり森の創作手法についての話だろう。

土屋 実際に書くとき、そもそも何から書き始めたらいいのかわからないんですよね。

森 それは、事件さえ起こせば。

(中略)

森 たとえば「アキラはドアを開けた」と最初に書くんです。「そこに死体があった」とか。あとは何の死体かって書くしかないですから、そういう具合に、否が応にでも話が進んでいきますから。153p

森 大丈夫です。だから、行き当たりばったりで書いていって、辻褄の合わないところは前に戻って直せば良い。154p

森 エッセィなら、読者はどこでも、これは明日読もうって本を閉じちゃうんですけれど、小説はきりが良いところに来ても、「そのときだった」とかって書いてあると、そこでやめられませんよね(笑)。先を読まずにいられない。書いてしまうんですよ。そういうふうに。理由を考えていなくても、「そのときドアがノックされた」とかって。書いてから、いったい誰が来たんだって考える(笑)。自分も書くのがやめられませんね。161p


 これは週刊漫画でよく使われているテクニックであり、こんにち隆盛を誇っている「小説家になろう」や「E★エブリスタ」といった小説投稿サイトで細切れに連載されているネット小説でも、「続きを読みたくさせる」ために頻繁に用いられている。

 ネット小説ではファンタジーかデスゲームかホラー、あるいは恋愛ものが主流で、ミステリの人気作品はきわめて少ない。しかし森の技法を応用すればミステリでもいけるのではないかと思わせる。その点において、今こそ読まれるべき本だと思う。


・森博嗣『森博嗣のTOOLBOX』日経BP社、2005年

 パソコン専門誌『日経パソコン』に2年連載したエッセイをまとめたもの。小説家デビュー以前にプログラミングの本を3冊書いている森だが、本書にはPCのことやプログラミングの話はほとんど出てこない。「道具」について書かれている。


 しかし、良い道具を持つことは、人の視点を変える。素晴らしい道具に触れると、ときとして視点は高くなる。(中略)

 どんな仕事もそうであるが、最も抵抗が大きいのは、まちがいなく最初の一歩だ。「さあ、ではやってみるか」と腰を上げるときこそが、最大の山場である。本気でやる気になりさえすれば、もう仕事の半分以上は終わっていると考えても良い。そして、このやる気を起こさせる最も手っ取り早い手法とは、良い道具を手にすることだ。4p


 ということらしい。


 固有名詞を覚えないという話を書いたが、頭脳ではなく、外部の記憶装置に頼れば良い。語学もそうだ。もうすぐ翻訳機か通訳機が登場するだろうから、英会話を覚える必要なんてない。28p

 メディアが劇的に変動したことによって、コンテンツも多少影響を受けるかもしれないけれど、それでも一時的なものだろう。問題はメディアではない。コンテンツなのである。価値は常にコンテンツにある。変わるとすれば、生産性や携帯性であって、楽しさ、面白さ、あるいは、そこに含まれている情報は不変だ。64-65p


 こういったものから、森の「道具」観が、ひいてはそれを作り、使う「人間」に対する視線が見えてくる。とくに「作る」側からの「道具」観である。


 僕は、自分のことを研究者だとか、作家だとは認識していない。常に技術者であろうと心がけている。たぶんそれは、ものを作るときにだけ見えてくるものを知ってしまったからだ。112p


「教訓めいたもの、助言めいたものは、おそらく本書には書かれていない」(5p)と森は言うが、そのことばは示唆に富んでいる。


 たとえば僕の場合、若い頃にシューティング系のゲームにはまったが、点数がどんどん増える期間と、伸び悩む期間が交互に訪れることに気づいた。そして、実は、点数が伸びない時期に、いろいろ悩んで試したことが、その後の成長期を支えていることに、あるとき思い至ったのである。98p


 あいかわらず写真は美麗で、そちらが訴えかけてくるものも大きい。


・森博嗣『100人の森博嗣』メディアファクトリー、2005年(文庫版)

『森博嗣のミステリィ工作室』に続き、自作小説のあとがきや、読書や趣味、思考に関するエッセイ、ほかの作家が書いた作品や自作のコミカライズについての解説を収録。森をデビューさせた講談社の編集者・宇山秀雄と唐木厚にデビュー前に送った手紙、なんてものまで読める。


 島田氏は、「密室」というものが迷信やお化けを信じない現代には、それほどの謎となりえない……、つまり、読んでいる人も「なにか仕掛けがある」と思って読むため、驚きにならない、という内容を書かれています。それならば、最先端科学そのものを迷信のように扱って、人工的なお化けがいるのではないか、という雰囲気を作ってみようと考えたわけですが、いかがでしょうか?245p


 だそうである。森のミステリ観がうかがえるところが、やはりおもしろい。


 このように、ミステリィでいうところの「論理的」とは、「論理を力強く使用している」という意味であって、必ずしも「論理を正しく使用している」わけではない。156p


 であるとか、自作『黒猫の三角』について。


 本格ミステリィというジャンルがある。自分なりにそのイメージを持っている。そして、自作品の中で、最も本格ミステリィ寄りの作品が本作『黒猫の三角』だと考えている。また、ミステリィとしてのバランスからも、「森ミステリィの代表作は?」と問われた場合に作者が答える一冊はこれだ。14p


 と言っているところ。自作『そして二人だけになった』について、

 たとえば、Aが視点のときに、「Aは嬉しそうだった」とは書けない。「Aは嬉しそうな笑顔をつくってみせた」ならばOKである。そういったルールがあることを、小説を書くまで知らなかったので、なかなかに新鮮だった。だから、この視点の切り替えを積極的に用いた作品を書いてみよう、という発想は早い段階であった。

 などである。


・森博嗣『森博嗣の半熟セミナ』講談社、2008年

助手「タイカヒフクって、攻殻機動隊みたいでかっこいいですねぇ」

博士「コーカクキドータイ?」31p


 てなノリで展開される、博士と助手による会話形式の科学問答エッセイ。お題は科学一般、数学、工学、工作、観察、電気工学、物理、航空工学、社会工学、建築、自然言語、論理など多岐におよび、「階段の電気ってどんな回路?」に始まり「人に優しい科学」で終わる。2005年10月から2008年3月までの2年半、「日経パソコン」に連載。


博士「竿竹屋は必ず潰れるのだ。だから、潰れない理由を考えること自体が無意味だ」8p


 という、当時ベストセラーになった山田真哉『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』に対するツッコミなど、ちょいちょい挟まる小ネタもおもしろい。


助手「難しいことは抜きにして、やっぱり、宇宙戦艦ヤマトはありえないんじゃないですか?」

博士「おお、そこへ話を持っていきたかったのか。うーん、たしかに、あれは船の形だから、宇宙空間では不合理かもしれない」39p

助手「やっぱり、まん丸の形が理想的ですよね、デススターみたいな」

博士「そう、でも、悪者の基地とか宇宙船が、中心をちょっと爆破されたくらいで全壊してしまうんだ。フェールセーフがなっていない。あの程度のテクノロジィでは、宇宙は支配できないだろう」39p


 これなんて『空想科学読本』みたいな内容である。

 しかしいちばんおかしいのは、イラストは奥様・ささきすばるに依頼したが、内容が理系的なものだったので「どう描いて良いかわからない」ということになりイラストの下描きおよびメカニカルな部分のペン入れは森博嗣自身が行っている。という裏話だろう。

 あとは森がときどき使う「最適化」という言葉のニュアンスを説明しているところなんかが、ファン的にはおさえておきたいポイントか。


博士「ありがとう。君も、この頃、最適化されてきたね」

助手「あ、それ、先生よくおっしゃいますよね、最適化されたって。効率化されたというのと、同じ意味ですか?」

博士「うん、まあ、そうかな。ほかにも、合理化という言葉がある。最適化は、プログラミングなんかでよく使われるような器がするなあ。日本語で普段に使うときは、効率化や合理化と、あまり違いはない」

助手「具体的には、無駄をなくして、仕事が速くなるわけですね?」

博士「そうだね。繰り返し同じ作業をしているうちに、ここをこうすれば無駄がなくなる、と気づいて改善する。それが最適化だ。効率化というのは、取捨選択をしたり、大量処理をするようなときに使う。合理化は、必ずしも効率化ではない。理にかなったことをする場合に使うのが本来だが、日本では、効率化の意味が強いようだね」112p


・森博嗣『悠々おもちゃライフ』単行本小学館2006年、講談社文庫2007年

『ミニチュア庭園鉄道』シリーズが、趣味の鉄道工作のプロセスをドキュメントしたものならば、こちらは完成形(という言い方を森は好まないだろうが)のガソリンエンジン機関車などの色鮮やかな写真が拝める一冊。

 小学館の月刊誌「ラピタ(Lapita)」に2004年から2006年10月号まで掲載された「森博嗣のオモチャイング・ライフ」を収録したもの。毎回エッセイと、庭園鉄道やガレージ、書斎の写真をセットに掲載している。と言っても、写真と本文に必ず強い関係性があるわけではない。エッセイはいつもの森節である。


 TVも雑誌も、どこどこの店のなになにが美味いとか、実に細かいこと、いうなれば些末なことに拘る話題ばかりで、具体的な情報の羅列に終始している。はっきりいうと、僕はだいぶまえから少々うんざりだった。何故もう少し抽象的に扱えないのか。もっと抽象的なコミュニケーションを指向してほしい、ずばっと本質を語ってほしい、と願っているこの頃である。85-86p

 つまり、こういう理屈だろう。好きなことは長続きしない。何故なら、好きな対象は変化する、好きでなくなるからだ。気が多いというか、浮気性というか、そういう僕みたいな人は、好きなことを仕事にしない方が良い。仕事はあくまで、好きなことをするための資金を調達するベーシックな活動である。そうすることによって、仕事が常に有意義になり、長く続くというわけである。200p


 これらは『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』や『「やりがいのある仕事」という幻想』と同じことを語っている。

 あるいは逆に、


 自分で一人で楽しむことは、それなりに難しいことかもしれない。ついつい周囲が気になるものだ。知らず知らずのうちに見栄を張ったり、人からなにか言われると、もの凄く気になったりする。趣味には、できるかぎりそういった社会性を持ち込まない方が良い、というのが僕の考えである。2-3p


 こういう一節は、『創るセンス 工作の思考』なんかでたびたび書いている、自分はほとんど他人からの評価を気にしない、という表明とは、少し違っているように見える。

 けれど基本的には、そんなむずかしいことを考えながら読む本ではない。写真からあふれる多幸感を楽しむものだ。幸せのひみつも、書いてある。


だいたい、幸せを感じるときというのは、1人のときだ。たとえば、奥様がコンサートに出かけている夜とか、奥様が娘のところへ泊まりにいっている休日とか、奥様が旅行に出かけている1週間とか、などである。29p


・ジェーン・フルトン・スーリ+IDEO『考えなしの行動?』森博嗣訳 2009年

 アメリカのデザイン・ファームIDEOのディレクターであるジェーン・フルトン・スーリによる、思考と発想をうながす写真集。移動中に両手を使いたいから持っていた袋を口にくわえた女性だとか、足のあいだにバッグをはさんで立ち話をするひとだとかが映っている。何を考えるのもあなた次第、というわけだ。

 8pにわたる訳者まえがきが付いているが、ほかの著作でも見られる森博嗣の問題意識がよくあらわれている。『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』『小説家という職業』『創るセンス 工作の思考』などとあわせて読むと、よりしっくりくる本である。


・森博嗣『小説家という職業』集英社新書、2010年

 ビジネスとして小説を書き続けてきた森博嗣による、小説創作論である。もっとも繰り返されることは「とにかく自分で書け。書くしかない」ということで、これは他の著作にもよく出てくるメッセージである。

 作家(志望)でない人間にとっても「なるほど!」と思うのは、ネットが普及した現代においてミステリはどうあれば商品として成立しうるのか、という考察と工夫である。


 たとえば、「結論をしっかりと書かない」結末や、作品の中にちりばめられた答のない謎を用意する。すると「これってなんなんだろう?」とおさまりが悪いままの読者がネットにアクセスする。そこで作中には書かれていなかった解答や考察、議論を見る。「ああ、そうか」と納得すると同時に、仲間に入れたという安堵を得る。「ネットは、そういった欲求も同時に解決する機関(新しい社会)なのである」(75p)。


 慧眼すぎる。


 僕は、図書館や古書店の問題には、「何度も読みたくなるような作品」で対抗するしかない、と考えた。作品の随所に、簡単には読み解けないもおを織り混ぜておく。その作品ではなく、別の作品でそのヒントを見せる。ネットで、こういった部分が話題になれば、「もう一度読みたい」と思う人が増えるだろう。再読するためには、本を手許に置いておかなければならない。77p

 また、ネタばれについても、簡単にそれができないような機構を盛り込むことで対処ができる。一言で説明できないようなネタにすれば良い。あるいは、人によって解釈が異なるようなネタにする。77-78p

 さらには、わざと問題点を忍ばせておく、という手法もある。誤解を誘うようなものでも良い。(中略)読み手は、これで苛立つことになる。そしてネットでそのことを指摘したり、あるときは「間違っている」と糾弾するような書き方もするだろう。しかし、それが作品を広める。つまり、宣伝効果があるという計算である。78p 

「ユーザー間のコミュニケーションを誘発してバイラルさせるコンテンツ設計」のことを昨今では「グロースハック」と言っているが、小説界のグロースハッカー以外の何者でもない。天才が手の内を見せてくれたことの価値は、出版界にとって、クリエイターにとってめちゃくちゃ大きいことなのだ。これから売文業やコンテンツ産業に関わる人間には、必読すぎる一冊である。


・森博嗣『毎日は笑わない工学博士たち』幻冬舎、2000年

 森博嗣のサイト「浮遊工作室」内「ミステリィ制作部」で公開されていた「近況報告」のうち1996年分と97年分を抜粋し、印刷物にしたもの。『すべてがEになる』の続編として刊行されたが、同書は98年の分を収録しているので順番が前後している(森のデビュー作も執筆したものとしては4作目だったが最初に出た、というエピソードを否応なく思い起こさせる)。

 小説に比べたら本づくり(編集)が10倍は労力がかかっただろう、と書いている。

 森が、小説よりもエッセイの方が読みやすく、読んでためになる確率も高く、情報量も多い、だからエッセイの方が売れている、と長年信じていたという話は有名だが、本書ももちろん小説よりずっと売れなかった。小説に比べてエッセイのコスパ(投資に対する利潤)が悪いことも、よく書いている。

 さらに言えば本書は、ウェブに載せた日記を印刷物として出版する前提で毎日(商品として)エッセイのつもりで書こうと思い始めたのは97年のなかごろからだったというから、この本は「素朴な記録と無邪気な意見が、のどかで無防備な表現で書かれている」(10p)ものである。サイトでの活動はファンサービスでありプロモーションの一環として行っている、と森は言っている。そう思って読むと、「ビジネスとしてではなく趣味として書いている」という2014年現在のエッセイの文体とはまったく違う、ある種の営業的な社交性を帯びた文章がここにある。

 もちろん、現在とは森自身もそれを取り巻く環境も変わっていることも多い。たとえば


K木さんが森の読者ハガキから分析した結果(すべて100枚を任意抽出したサンプルを対象)によると、『F』『冷密』『笑数』『詩私ジャ』の4冊の読者平均年齢は、30.0、26.4、27.4、26.3歳で、また、男性比率は、66、61、72、56%だそうです。119p


 とあるが、後年の著作では、読者は老若男女いるが、ファンレターのほとんどは若い女性からである、とある(ただ、2012年に刊行された『実験的経験』では、ファンクラブ向けに講演会を行ったら6割くらい男性だった、とも言っている。するとやっぱり初期から変わらないのかもしれない)。

 なんにせよ、変わった部分、変わらない部分をたしかめながら楽しむファンアイテムとして、こういう本はある。


・森博嗣『TRUCK&TROLL』TOKYO FM出版、2010年

 僕は、ブログなどで森博嗣の悪口が書かれているのを読むのが大好きです。毎日素人のブログを200ぐらいは軽く読みます。面白いから。貶しているところが一番面白い。だから、悪口ほどじっくり読みます。貶されて自分の作品が変わるってことはないけれど、そういうのを読むと、もう一度同じ方向性のものを書きたくなります。104p


 TOKYO FMの携帯サイトでの音楽をテーマにしたエッセイ連載をまとめた書籍の第2弾。例によって例のごとく「音楽をテーマに」と言っても音楽そのものについて必ずしも書いているわけではなく、音楽から着想、発想した何かについて"抽象的に"書かれている。

 よしもとばなな、浦沢直樹、京極夏彦との対談を収録。

 2008年ですべての連載を切り、12年続けてきたネットでの日記公開を終了、TVや新聞、雑誌などの取材に応じることも、講演会や名刺交換会(サイン会は元々していない)もしないことを発表した森が、2009年に書いていたもの。つまり「森博嗣の近況がそれとなくわかる唯一の文章が、結果としてこの『TRUCK&TROLL』だけになった」(9p)。

 表紙イラストはEL&Pの『タルカス』のパロディ。


・森博嗣『つぶやきのクリーム』講談社、2011年

 森博嗣のエッセイはファクトの観察や率直な実感に基づいていて、妙な精神論や願望で塗りつぶされていないのが気持ちいい。

 この本でもたとえば、紙の本より電子の方が読みやすい、書店でやっている「フェア」なんて出版社側の都合によるもので客にとっては関係ない、電子出版はAmazonのようなプラットフォーマーが主役であって出版社にとっては防戦である、「売れない商品、売れ残り商品を沢山並べている店、それが書店である」(148p)、といった具合のことが書いてある。

 本書は、半年くらいのあいだに思いついた「呟き」を一〇〇個あつめ、補足的な文章を加えたエッセイ集である。呟きを思い付くのは難しかったが、補足の文章は三日分で書いたという。

「呟き」つながりでTwitterについての考察もある。大衆は「話が聞いてもらいたい」人ばかり、「相手にしてもらいたい」だけでブログに書くていどのコンテンツもないので「つぶやき」だけになり、「それさえもできないから、単にコピィするだけになる」(パクツイ!)。

 まったくその通りだと思うが、おもしろいのはこの考察自体よりもむしろ、このひとはひとことのつぶやきであってさえ、意味があり価値がある言葉をコンテンツとして提供しようとしているんだな、というスタンスの方である。コミュニケーションとしての言語にはほとんど興味がない。もっぱら作品として成立する、言語による構築物だけに関心があり、価値をみいだしていることがわかる。

 もっと言えば、言葉それ自体にも、それを受けとって何か感じたところで、「感動したことに対して、なんらかの思考、あるいは行動が伴わなければ意味がないということである」(191p)。

 マインドだけでなく、読み手に行動の変化をもたらすために、強い言葉に凝縮し、「呟き」として結晶化させるのが、大変なのだ。

「偉い人の話を聞いて、うん、そうだ、そのとおりだ、と思っても、偉くなったわけではない」(190p)。「偉い人の話を聞いて、それをそのままブログに引用しても、これっぽっちも偉さには近づけない」(192p)。


・『創るセンス 工作の思考』集英社新書、2010年

 技術の神髄、なるものは、文章では説明しがたい。文章化が本来できないようなものこそが技術の核心的「センス」だ。しかし、森が専門にしてきた「工学」は、技術をアナログからデジタルなものへと定量化してきた分野である。けれどその代償として、「技術のセンス」が失われた、と森は言う。アナログからデジタルへの転換によって生じたギャップにスポットライトを当てたものが、本書である。

 森は、「技術のセンス」なるものを、分解している。①上手くいかないのが普通、という悲観②トラブルの原因を特定するための試行③現場にあるものを利用する応用力④最適化を追求する観察眼である、と。こういうものを伝えるために、この本は書かれている。

 ……のだが、研究も小説の執筆も「ものを作る」点では同じだ、という森だから、必然的に小説の創作についても話が及ぶ。

 趣味の工作とビジネスとしての小説には似ている部分も多いが、小説は他者にとって価値のあるものを提供しなくては商売にならない、ということが決定的に違う。さらっとそんなことを書いているが、ここが森と作家志望の9割以上との違いだな、と思う。大半の人間は「プロを目指している」と言いながら、自分の楽しみのため(だけ)に書いているからだ。ものを作っていて失敗やトラブル、計算違いのことに遭遇するのは当たり前のことで、それをどうにかするのが本当の仕事なのだ、という感覚も、あんまりないだろう。すぐに「どうやったらうまくいきますか?」と聞くひとばかりだ。てめえでやりながらものにしていけ、という話である。

 重要なのは計画以上に実行力であり、実行フェーズでは失敗をすることが問題なのではなく、そこから建て直すこと、修正しながら進めていく機転と胆力である。というのは、ビジネススクールやスタートアップ業界でも、よく言われていることだ。


作品を一つ発表し、そのつど観測する。いろいろなものを書いてみて、データを収集する。そのリサーチの結果を、次の作品に活かす。ビジネスならば、ごく当然のやり方だ。僕は小説家というよりは、メーカだった。一人だけのベンチャ企業である。176-177p


 ただ、このひとが異様だな、と思うのは次のような一節にある。


そもそも、実際に誰かから評価をされても、それで自分の感情が影響されるようなことは、過去になかった。褒められてもそんなに嬉しくないし、貶されてもそんなに悔しくない。それはやはり、自分の評価の方がずっと正確だという確信があったからだ。194p

 人間は感情の生き物だし、ふつうは、他者からの評価を気にする。承認欲求のかたまりのようなものだ。しかし森の場合、他人からの評価をデータとして収集はするし、データを次の作品づくりに着実に活かす。しかし、どう評されたところで感情に影響はしない。というのだ。たしかにこのスタンスで創作ができるなら、まぐれ当たりではなく、コンスタントにヒット作品を書けることにも納得がいく。


・森博嗣『常識にとらわれない100の講義』大和書房、2012年

 編集者は、よく「なにか新しいことがしたい」と言う。だから、新しいアイデアでもあるのか、と尋ねると、それは、書店に立てるポップだとか、帯の文句だとか、なんというのか、どうでも良いとも思えるディテールでしかない。このまえは、やはり「是非新しいことがしたいと思いまして、考えたのですが、短編を一作、書き下ろしで加えていただけないでしょうか」と提案された。いったいそれのどこが「新しい」のだろうか?64p


 森が毎日思いついたことをひとつかふたつ、一行か二行書きとめておき、それが百集まったところで一気にその説明文を書く、という手法でつくったエッセイ集の第二弾(1作目は『つぶやきのクリーム』)。


 さて、この頃、「小説は読まないけれど……」という読者の方からのメールをいただく割合が増えている。いつも書いていることだが、小説よりも売れないし、小説よりも書くのに執筆時間がかかるけれど、この種のものを書き残しておくことは、小説よりは多少は意味があるように感じる。何故なら、小説は結局全部「嘘」であるけれど、こういった文章には、それが少ない。とにかく、素直に、正直に書いている。2p


 趣味のための資金稼ぎという当初の目的を果たし、小説を含む文筆業が「ビジネス」ではなく「趣味」になった森博嗣の文章からは、ファンサービスめいたものが削ぎ落ちている。すがすがしく、そして、かつての森を知る者ならば、ああ、そういうことだったのか、と思うはずだ(「そういうこと」の内実は、それぞれに多少違うだろうけれど)。


 小説は、以前は売れるものを書いた。みんなが喜びそうなものを書いていた。仕事だったからだ。今は「引退」したから、小説は趣味になった。だから、新作を書くときには、森博嗣らしくないものを書こう、という気持ちが強くなった。以前も、これはあったけれど、やはり大勢の人が期待しているのは、「代わり映えのしない」ものだから、自分を抑えて、作品をデザインしていた。84p


 もはや顧客として扱う必要のなくなった「大勢の人」との付き合い方の記述はあけすけであり、たんに読んでいておもしろいだけでなく、エンターテインメントのクリエイターならとても勉強になるものだ。


 インターネットのおかげで、沢山の個人の言葉を聞くことができるようになった。(中略)

「おお、これは凄いな」と感心するのが五パーセントくらい、「まあよくあること、普通だね」と確認をすることが八十パーセントくらい、あとの十五パーセントは、「うわ、馬鹿だなあ」という感想である。(中略)

 ああ、こんなふうに考えてしまうのか、そういうふうに捉えるのか、と馬鹿さ加減に目から鱗が落ちる。(中略)とにかく、大変有益だ。186-187p


・森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』新潮新書、2013年

 森がよく受ける相談「ものごとを客観的に(or抽象的に)考えるにはどうしたら良いでしょうか?」に対する回答をまとめて書いた本である。

 森は例によって淡々と考えを書いていくだけだし、編集者がつけたというタイトルはかたっくるしいものだが、思わず笑ってしまうところがある。


最近二冊ほどの著書で、僕は「原発の事故によって、原発は従来よりも安全になるだろう。これまでよりも原発に反対する理由は少なくなった」と書いた。これに対して、反原発の人から数件の抗議をいただいた。ただ、それらには「理由」が書かれていなかった。単に、「学者なのにこんなこともわからないのか!」「子供が泣いている」「結局は、御用学者なのか」というような感情的な言葉しかなかった。12p


 こんなことを本の冒頭に書いてしまったら「あー、この人がいくらがんばってこんな本書いても、ぜったい伝わんないよなあ」と思ってしまうのが自然だろう。

 あるいは、「バールのようなもの」の"のようなもの"がいったいどんな意味を持っているのか、延々と考察する箇所。「バールのようなもの」と言えば清水義範による小説およびそれを原作にした立川志の輔の新作落語が有名だが(youtubeですぐに聴ける)、それらに言及することもなく、独自の"のようなもの"論がまじめに展開されるわけだが、清水―立川の「バールのようなもの」を思い起こしながら読むと、なんとも可笑しい。


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