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ドライブ・マイ・カー/アナザールート

 駐車場には停車中の家福の愛車サーブ900と、その両脇に立つ家福とみさきの姿。二人と相対するように立つ演劇祭スタッフのユンス、柚原。

 高槻の代役は家福以外にはいないと思われたが、家福には別の考えがあった。


「ワーニャの台詞を言えるのは僕だけじゃない。台詞を覚えている人間はここにもう一人いる」

 家福が指さしたのは、みさきだった。

「え……?私?」

 みさきが驚いて家福を見上げると、家福は口元にわずかに笑みを浮かべて小さくうなずく。

「む、無理ですよ、演劇なんてやったこともないし……。舞台に立つなんて……小学校のときの劇くらいしか」

「でも、台詞は覚えているんだね?」

「それは……毎日カセットの声を聞いて運転していたから……家福さんの話す台詞も聞いていたし……」

「それなら大丈夫。テキストはもう君の中に入っている」

「でも、演技なんてできない……」

「それはいいんだ。演じようとしなくていい。むしろ器用な役者ではダメなんだ。演じようとしすぎてしまう。役の心がつかめていないのに、そこに心があるかのように上手く振る舞えてしまうんだ」

 家福はみさきの顔を覗き込むように見つめる。

「僕が欲しいのは見た目や形じゃない。本当に心がそこにあると、観客にも感じ取って欲しいんだ」

 みさきは不安な顔を隠そうともせず、家福の顔を見つめかえす。

「この前の晩、車の中で高槻が音の語る物語について話をしたとき、君にはそれが本物に見えた。彼が嘘を言ったり、作り話をしているとは思わなかった。僕もそうだ。僕にとっても彼が演技をしているようには見えなかった。彼の身体も彼の語る言葉も、まるで彼の心に操られているかのようだった」

 みさきは小さくうなずいて、家福の言葉を待つ。

「彼のように、君も君自身でいるだけでいい。どこかで見たような誰かの物まねなんかする必要はない。自分のまま感じ、自分のまま台詞を言えばいい。何も言いたくなかったら言わなくたっていい。結局のところ、台詞は沈黙によってしか台詞としての意味を持たないのだから。僕の言ってることわかるかな?」

 みさきは家福の質問には答えなかった。サーブ900に視線を落とし、そのボディを指先で優しくなでた。まるで大型犬の背中でもなでるかのように。

 家福はその場の思いつきでこんなことを言い出したわけではなかった。家福は感情を表に出さないドライバーとしてのみさきを気に入っていたし、役者としての資質についてもどこか惹かれるものを感じていた。

 家福の中には、ユンス夫妻の家に招かれたときの飼い犬と戯れるみさきの姿があった。

 過去にそうしなければならないどんな事情があったにせよ、みさきは抑圧的な何かを背負いながら、それでも自分を律することができていた。後はその内面を恐れずにさらけ出すことができさえすれば……。

 サーブ900のボディに触れたまま、みさきは静かに口を開いた。

「私この車が好きです。この車を運転しているときの私も。でも、舞台で役を演じる自分は想像できません」

 ユンスが横から加勢する。

「家福さん、この役はやはり年配の男性でないと」

 家福は少し考えてから口を開く。

「観客の固定観念を壊すと思えばいい。日本語、英語、韓国語、それから韓国手話、多言語で演じるのはそのためでもある。性別についてもこだわりは捨ててしまった方がいい」

ユンスは眉をひそめて何か言おうとするが、家福はさらに言葉を続ける。

「宝塚歌劇や歌舞伎の女形だってある。そうすることで見えて来るものもきっとある。人は性の役割からも自由になるべきなんだ」

「他の役もそうであればいいですけど、ワーニャだけというのはやっぱり変ですよ。舞台の統一感が損なわれてしまいます」

「何でも統一すればいいというものじゃない。人がそれぞれ同じ人間ではないように、肌の色、宗教、考えていることは誰一人同じではない。それを統一しようだなんて……。人を轢いたら車の運転を禁止にし、酒を飲んだ人間が傷害事件を起こしたら、今度は酒を飲むことも禁止にするのか?」

「それとこれとは話が」

「原因があって結果がある、それは確かだか、すべての原因の元を絶とうとしたってそんなことはできるわけがない。人が生きるのだってそうだ。すべての道をふさいだって前に進むのをやめることはできない。それが人間というものだろう。道をふさがれドライブすることを止められたって、ライブそのもの、生きるのを止めることなんてできはしないんだ」

「じゃあ、みさきさんの気持ちはどうなるんです?舞台に立ちたいと思っていない人間を舞台に上げるのは、演出家として演劇人として正しい姿と言えますか?」

 家福は言葉に詰まる。うつむいて足元の一点をじっと見つめる。

「家福さん、もうやめましょうよ。こんなことをしたらあなたのキャリアにも傷がついてしまいますよ……」

 地面を見つめたまま、家福がぽつりとつぶやく。

「そう、僕は正しく傷つくべきだった……」

「何言ってるんですか、やっぱり演技経験のないみさきさんが演じるのは無理なんですよ。やはり家福さんにやってもらうしか」

「……僕はできない」

 ユンスはため息とともに言う。

「それなら中止しかありませんね」

 うつむいたままの家福、絞りだすように声を発する。

「今、それを決めなければなりませんか?」

 ユンスの隣に立つ柚原、半歩前に進み出てきっぱりと言い放つ。

「二日待てます。それまでに答えを出してください」


 以降、本編通常ルートへ戻る。


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