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さよなら “世界の笠谷”

 えっ! “世界の笠谷” が亡くなったって...。 テレビが報じるニュースに、肝を潰すほど驚いた。
 笠谷といっても若い子は知らないかもしれないが、いまから半世紀ほど前に、第11回オリンピック冬季競技大会が札幌を舞台に開かれた時、スキージャンプ70メートル級で優勝金メダルを獲得し、全国民を感動の渦に巻き込んだ名選手なのだ。
 笠谷さんと電話で会話をしたのは2005年秋だから、もう20年ほども前になる。文庫本 『昭和史の闇 一九六〇一八〇年代 現場検証』 (新風舎刊)に、その時代の事件を20 件ほど取り上げた時、明るいニュースも入れようと、選んだのが笠谷選手のジャンプ優勝の話。
 この70メートル級ジャンプには、笠谷選手をはじめ、 金野昭次、青地清二選手が一位、二位、三位に入り、金、銀、銅メダル独占し、冬空に三本の日の丸が翻り、全国民を熱狂させたものだ。
 ところがこの後の90メートル級は振るわず、最高が笠谷の7位と惨敗。なぜ負けたのかと国民の不満が高まる中、それに対する笠谷選手の言葉があまりに印象的だったのをいまも覚えている。
 「実力がなかったということでしょう。しょせんは自然との闘い、自然には勝てないとい うことです。 自然に勝てなければ人間にも勝てない、そういう世界なのです」
 その言葉になぜか、修行僧に共通するものを感じて、息を呑んだものだった。
 笠谷さんは後志管内仁木町出身。小学二年生からスキー・ジャンプ競技を始め、余市高校一年の一九六〇年、全日本選手権で最長不倒を飛んで頭角を現す。 明治大を経てニッカウヰスキーに入り、日本のエースとして活躍した。 強靭な足腰を生かした踏み切り、着地の際の両足を前後させるテレマーク姿勢は、抜群の美しさと讃えられた。
 引退後はコーチとして後進の育成、指導に励んだほか、国際飛型審判員として長野五輪など多くの国際大会に関わった。 全日本スキー連盟ジャンプ部長、競技本部長、常務理事など要職も歴任。 二〇一〇年夏、職務を退いた後は、闘病生活が続いていた。
 病と闘いながら往った笠谷さん。 私たちに、大きな夢を、希望を、ありがとう!

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