いつまでも いると思うな 親と推し

先日あまりに辛かったことがあったので帰宅してからぐわっと書いた日記のようなものです。

劇団発足から14年。私がそのうちの10年を見届けたとある劇団がある。そして昨年、その劇団から一人の団員が退団した。彼は劇団をやめたと同時に、俳優であることもやめたとのことだった。
彼の引退を、私は劇団のHPを見て知った。一瞬だけ喉の奥が詰まって、そっか……と溜息が漏れて終わった。
その時は、たったそれだけだった。

その劇団で誰が一番好きだったかと聞かれれば、彼だった。しかし、その10年の間、私は彼を推していたかと聞かれれば、絶対にそんなことはなかった。「推し」という言葉を最近になるまで知らなかったし、未だに「推す」の定義もよく知らない。
何より私は、誰にも「彼が好きだ」と言った事はなかった。誰にも聞かれなかったし、聞いてくれる人がいなかったから、それを口に出す機会もなかった。誰かを見に行っているというよりは、その劇団を追っているという表現の方が正しかった。劇団の舞台にはいつも一人で行っていたし、アンケートにだって、彼が特別良かったとは書いていなかった。
だから、彼を特別応援していたかと聞かれたらそういう事実は今までもなかったと思う。その事実は、私が作らなかったのだ。私は今も昔も、その小さな劇団において「劇団が好きな、いち観客」であることに重きを置き続けていた。

彼の熱い演技と、屈託のない笑顔が好きだった……んじゃないかな、と今になって漠然と思う。もしかしたら観劇していた時は違うことを考えていたかもしれないけれど、今彼の事を思い返してまず彷彿とするのは、その2つだった。
私がその劇団で見始めた当時から必ず何かしらの役で出ていた彼は、色々調べてみると劇団の発足からいた方らしく、劇団の中枢を担っていたと記されていた。私は知らなかった。ただ、なんとなく、いつもいる、いつだっている人だと思っていた。多分これからも、ずっといるんだろうなあって思っていた。
例え10年見ていたからって、これからもずっと同じ姿を見られるとは限らないのだ。
現に、彼は14年所属していた劇団をやめたのだから。

彼が劇団をやめてとある喫茶店で働いているということは主宰や劇団側が公言していて、今もその劇団の打ち合わせは彼の働く喫茶店で行われているという。お近くにお越しの際は是非お寄り下さい、との一言も添えられていた。
彼が辞めてから今日までの3ヶ月。その喫茶店の名前は知ってはいたもののずっと覗きに行く決心がつかなかったが、ようやく機会に恵まれてその場に足を踏み入れた。これは幸運なのか不運なのかよくわからないのだけど、彼はいたのだ。今日私は、彼の仕事場に客として行き、彼が淹れたコーヒーを飲んだ。

こんな経験めったに味わえないよ……と最初ちょっと半笑いだったのだけど、コーヒーは本当に美味しくて、お替わりも頼んで、暫く居座った。連れと賑やかな店内で何気ない話をしながら。私の席から彼は見えず、トイレに行く時にちらりと慌ただしそうな姿が覗けるくらいだった。ストーカーみたいで気持ち悪いな…と思いつつ、でも元気で働く彼が見られてよかった、これからも頑張ってほしいと、ポジティブな気持ちで店を出ようとした。
……の、だけど。さいごに会計をしている時に投げかけられた「ありがとうございました」という彼の笑顔が、いつも舞台を見た後に出口で見送ってくれる彼のそれにどうにも重なってしまって、最後の最後でぶわっと込み上げてきた感情に、ウワアアアアアアと心の中で絶叫してしまった。どうにか声に出すことは堪えた。さすがに。
だけどこれはつらい。つらすぎる。美味しかったはずのコーヒーが、なんだかとてつもなく苦い思い出のように思えてしまった。

私が、なんでこんな事を急に書き始めたのかというと、彼が引退して3ヶ月経った今になって、ものすごく後悔が生まれたからだ。このやるせなさは何かしらに残したいと思った。同じ過ちを犯さないためにも。

私は、彼の最後の出演作を、そして最後の主演作品を、見に行かなかったのだ。「日程が合わなかった」という非常な怠惰な理由で。当時何をしていて何を考えていたかはさっぱり思い出せないのだが、おそらく、日程を詰めて時間を作れば絶対に見に行けたはずなのだ。でも、私は「見に行かなかった」それだけが事実として今残っている。
そして、私はその半年後に、彼の役者人生がそこで終わった事を知るのであった。

いつまでも いると思うな 親と推し

そこでタイトルのそれになるのだが、私は今まで、見続けていた人間が打ち込んでいる「何か」をやめる最後の現場に大体立ち会えていた。俳優・スポーツ選手・歌手……私はいつだってそれらの「傍観者」という立場ではあったけど、応援していた人の最後の最後までを見届けられていたのだ。
それが、今回初めて叶わなかったと思った。極論で言うと、その当時、私の中で「最後まで見届けたいと思う俳優」ではなかったのだと思う。いつだって「その仕事が最後だと思え」と肝に銘じて動いてきた私にとって、それほど高い優先順位ではなかったのだ。私は、彼が引退して3ヶ月経った今になって「推すべき存在」だったことに気付く。遅い。遅すぎる。後悔しかない。彼の満面の笑みが載ったチラシを見ながら私はただ一人自室で唸り声をあげるしかできない。
主宰の言葉をそのまま呑み込めば、彼はおそらく『家族』が出来たとこにより引退を決めている。私一人が声をはりあげたことで彼の決意やレールは何も変わらなかったと思うけれど、その最後の晴れ舞台さえ見届けていれば、私が今日飲んだコーヒーに苦いという感想を抱かなかったはずだ。

私はいつだって「傍観者」である。おそらくこれからも、声を上げずに見続けることだけに尽くしている。だからこそ、傍観者の役目は、彼がここに存在していた証を、そして彼が最後の輝く瞬間までをも、目と記憶に焼き付けることだとも思っている。

今回、このコーヒーと10年の思い出を晴れやかなものにする為には、私はどこでどうすればよかったんだろうと考えた。考えた末、根本的な部分で私はもっと「彼が好きだ」と声に出せばよかったのかな、と思う。声に出すことで更に自覚する愛だって、きっとあったはずだ。
今回のコーヒーの苦味は、これからも忘れてはいけないものだと思うことにする。そうすることで、彼の引退は決して悪いものではなくなるのだ、少なくとも私の中では。

どうかこれからも、私の大好きなその熱量と、10年間見続けても全く変わらなかった屈託のない愛嬌のある笑顔で、沢山の人を幸せにして下さい。私が今まであなたを見続けて幸せでいられたことと同じように、場所が変わっても貴方はきっと、成し遂げてくれるのでしょうね。これからも変わらず、信じて応援しています。
届かないこの声に、精一杯の愛を込めて。

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