小説: ターミナル・ブルー

     1

 私は幼い頃から忘れっぽい性質だ。もっとも、自覚したのはそう昔のことではない。小学校のとき、世界中の国の国旗をすべて記憶している同級生がいて、否応にもある種のカリスマを感じたけれど、だからといって自分の記憶力が彼のそれよりも劣っているなどとは思わなかった。そんな客観的な評価力に欠ける私だったのだが、それよりも先の成長の途上に、何の前触れもきっかけもなくふと、けれどはっきりと、気がつく瞬間があったのである。悟った、と言っても良いかもしれない。それ以来、ときどき立ち止まっては自分自身に目を向け、何か忘れていることはないか、と点検することが習慣になった。今ではそれは爪を切るのと同程度に生活の一部と化して、ときには、忘れたものは自分でも把握できないのに、それを取り戻す方法だけは明確にわかることさえある。
 今朝起きた途端、姉を見舞いに行こうなどという気になったのも、おそらくはこの癖のせいだったのだろうと思う。彼女は私の家からバスで二時間ほどかかる片田舎の病院に入院している。何の病気かは忘れてしまったが。

     2

 私が座ったバスのシートの横の窓には風鈴が飾られていて、走行に伴う振動に合わせて涼しげに鳴っていた。誰の仕業か知らないが、悪くない趣向である。 そういえば、姉の病室にも風鈴があったな、と思い出した。親友から貰ったものらしい。姉はそれを一年中外さないものだから、冬には氷に包まれてしまうのだが、彼女は「可哀想、外すなんて」と言う。私が初めて行ったときからそれはそこにあったが、その姉の親友なる人物に会ったことはない。姉はその手のもらいものを大切にする人なので、彼女のベッドは沢山の小物に取り囲まれている。その中で私が覚えているのはその風鈴と、それから、レトロな赤いボンネットバスのミニカーだ。私の記憶にはないが、姉によると、二人とも小さい頃はそれが大好きだったそうだ。私とは対照的に、姉は物覚えが非常に良い。生まれる前の記憶もあるという。いつだったか、一緒に水族館に行ったとき、懐かしそうな目をして、「イルカと遊んだなぁ」と呟いていたほどだ。

     3

「失礼、隣に座っても構いませんか」突然、ステッキを突いた老人に話しかけられた。
「ええ、どうぞ」私は驚いたが、了承した。物腰が紳士的だからだ。
「ありがとう」老人はゆっくりと腰掛けた。
 いつの間に乗ってきたのか、まったく気付かなかったが、単に私がぼんやりしていただけだろう。しかし、敢えて私の隣に座る理由がわからない。というのは、空席がいくらでもあったからだ。何しろ、乗客は私たち二人だけなのだから。
 彼が座ってからは、二人とも黙っていた。風鈴の音色だけが軽やかに響く。
 暇だったので、見るともなしに老人を観察した。柔らかそうな髪も長い顎鬚も海の泡のように白いが、背筋は真っ直ぐに伸びている。ステッキは要らないのではないだろうか。顔立ちも、ところどころに深い皺が刻まれてはいるものの、全体的には若々しさが溢れ出るほどに残っている。くっきりとした二重の目は大きく、優しげな印象。
 そんなふうに自分なりに感想をまとめていると、不意に老人が口を開いた。「それ、貴方のですか?」風鈴を指差す。
「いいえ、最初からありました」
「おや……、そうでしたか」意外そうだった。「綺麗ですね」
「ええ……、少し季節外れですけど、そこが素敵だと思います」
「季節など関係ありませんよ」老人はそう言うと微笑んだ。「綺麗なものは、いつだって綺麗です」
 その直後、バスが止まった。彼は立ち上がる。「お話しできて良かった。楽しかったです。どうもありがとう」鷹揚に手を上げた。「姉上によろしくお伝え下さい。良い一日を」

     4

 私はまた一人になった。いつしか道は上り坂に変わっている。ということは、終点が近いということだ。病院は丘の上にあって、最寄りのバス停は終点なのである。
 それにしても、謎めいた老人だった。一体、私に何の用があったのだろう。それに、なぜ姉のことを知っているのか。ずいぶん前にどこかで会ったような気もするのだが、残念ながら思い出せない。
 また風鈴が鳴った。私は改めてまじまじとそれを眺める。透明なガラスのカバーには、二匹のイルカのシルエットが紺で描かれていた。互いに互いを追いかけて、ぐるぐると回っている。白い短冊にも黒の草書体で何か書いてあるが、私には読めない。
 少し肌寒くなってきた。薄手のカーディガンでも持ってくれば良かった、と後悔する。けれど、窓を閉める気にはならなかった。私は何も考えず、窓の外に広がる田園風景を眺めながら、風鈴の音色に聴き入った。それはやがて睡魔の囁きとなり、私を襲った。

 目を開けると、窓の外の一面に青い世界が広がっていた。
 私は大きく欠伸をする。
「お客さん、終点ですよ」運転手が振り向いて言った。
 私は微笑んで答えた。「わかってるよ、姉さん」

19 August 2012

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