寄道夜想

 なんとなく、まっすぐ帰りたくなかった。

 特になにかあったわけじゃない。いつものように、春休みの間にすっかり朝に弱くなった体を引きずって大学に向かい、ガイダンスばかりの初回授業を成績評価方法にだけ注意しながらほどほどに聴き流し、一年生だと思っているのかだれでも手当たり次第なのか声をかけてくるサークルの勧誘を躱しながら駅に向かい、井の頭線に乗って帰ろうとしていた。

 そんないいことも悪いこともなにもない交換可能な今日をすこしだけ違うものにしたかったのかもしれない。いつもなら永福町で急行に乗り換えるけれど、今日はそのまま各駅停車で行くことにした。井の頭公園に着いたところで、このまま吉祥寺まで乗っていたら各駅停車にした意味がないことに気づいて降りた。喉が渇いていたから、駅を出てすぐのセブンイレブンで普段は飲まないアルコールを買った。気まぐれには連鎖する性質があるみたいだ。

 池の横のベンチに腰を下ろして、散り始めた桜を眺めながらほろよい(青りんご味)を口に含む。初めて飲んだけれど、思ったよりちゃんと青林檎の味がしてすこし嬉しくなる。青林檎は好きなのだった。あるいは青林檎を好きだという自分が好きなのかもしれない。週の半ばで夜もまだ浅いからだろう、人はそれほど多くはなかった。遠くから宴会の声が微かに聴こえてくる。首元を撫でる夜風がすこし冷たい。水面に浮かんだ花びらは映り込んだ木々と曖昧に融け合いながら闇のなかに消えていた。

 井の頭公園にくるのはそう久しぶりではなかった。というより18日ぶりだ。最後にきた日付を正確に覚えていることに自分でも驚く。それは彼氏と別れた日だった。

 その日、ふたりとも別れることはわかっていた。だからどちらからともなくボートに乗ろうと誘ったのだ。平日の昼間で桜もまだ蕾だったから、ほかには誰もボートに乗っている人なんていなかった。木陰に停めたボートの上で話はあっさりと終わり、微笑を交わす余裕すらあった。理想的な別れ方。二人が完璧なカップルだった唯一の日だ。

 振り返ってみれば、あれも気まぐれみたいなものだった。なんとなく付き合って、なんとなく別れた。心からの幸せを感じることも、深く傷つくこともなかった。微かな寂しさと焦りを紛らわせていただけの数ヶ月。馬鹿にしていた銀杏伝説に自分も踊らされていたのかもしれなくて、そう思うと可笑しかった。

 悪い人ではなかったし、悪い思い出でもない。だから、別れたことを友達に告げたとき、慰められたり励まされるのが嫌だった。でも、ならどうされたいのか訊かれたら答えられないし、自分だって逆の立場ならそうしただろう。だれも、なにも悪くなかった。

 だから、次はいいことも悪いこともたくさんあるといい。そう思いながらほろよいを飲み干す。最後の一口はすこし甘過ぎた。夜空を見上げると、雲の切れ間に傾き始めた上弦の月が浮かんでいた。

※この小説は、東京大学で発行されている東大女子のためのフリーペーパー「biscUiT」の企画として「東大女子を主人公とする1200字以内の小説」が募集されたときに応募し、採用されたものです。

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