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古い話

ずいぶんと古い話になってしまったけれど、僕は当時集まってきたナンパ師の人達のおかげで本当にやり辛くなってしまった。
彼らに同調する気にはなれず、とはいえ批判することも出来ずで、彼らの活動を砂を噛むような気持ちで眺めていた。
なにしろ僕がやりたくないことやるべきでないと思うことを彼らは全部やってしまう。
勝手に講師を名乗りお金を取って人に教えたりとかね。
挙句、先生が許してくれたとか、法的にはOKとか。
それは本当なのか、僕はそこには大きな嘘があると思う。
そう思うが、しかし彼らを止められるものではない。

平均化訓練についての所感も含め、僕が言いたいことを言おうとすれば彼らを正面から否定することになってしまうのは心苦しいところがあった。
一緒にいるうちに打ち解けていけるのではないかという期待もあったが、残念ながらそうもいかなかった。
そして最終的に僕の言い分を正面から受け止めようとする人が彼らの中から現れることはなかった。

人の口を塞ぎ、自分の耳を塞ぎ、身内で許し合い、先生が許してくれたと思い込んで甘える姿は僕の目には醜いものに映る。
そんな態度の上に培われたものを僕は好きになることが出来ない。
それに先生が許したとしたら、それは同時に僕も許したことになるのか。
そんなことはないだろう。
そして許す許さないを軸に話を組み立てるのは不毛な時間稼ぎでもあった。
大事なのはやったことの責任を取るか否かだと思う。

こんな背景があるので「全ては貴方の受け止めかた」とか「何事も自分事として行う」とか、そういう言葉がひどく薄っぺらいものに感じてしまう。
それでは人の口を塞ぎ、自分の耳を塞いでるだけではないか。

「無心に体操に取り組んでいれば無責任でいられる」
そんな気分になるかもしれないが、それはきっと嘘だろう。

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