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同じ光を見てた

※「Color Bar」発売記念こばなし。設楽と栄。「つないで」所収の短編「月光浴」とリンクしてます。

 本社に戻ることになったよ、と告げると、睦人は軽く息を呑んでから両手で顔を覆い、長い息を吐いた。
「……よかった……」
 今まで、改まって触れることのなかった話題だった。異動が決まるたびに「よかったら遊びにきて」と軽く伝え、睦人も「ぜひ」と答えるだけで、深く話さなかった。きっと睦人のほうがつらかっただろう。謝りたい、でも取り返しがつかない、そんなことは最初から分かってんじゃないのか、と何度も煩悶して。もっと責めたほうが気楽だったのかもな、でも今さらだし、恨んでないし。
「いつ戻れるんですか?」
「年明け。来春から夜ニュースにつくことになって、もうリニューアルの準備は始まってるから何かとこき使われてるよ」
「夜って『ザ・ニュース』ですか? すげえ」
 一転して目を輝かせる。
「いやもう、背水の陣になってからタッチ交代って感じだからね。ジリ貧のまま背負わされても困るんだけど」
「そっか、プレッシャーありますよね……でも設楽さんなら大丈夫ですよ。俺は良采配だと思います」
「ま、どこ行ってもそんなにやることは変わんないし、金と人が動かせるぶん、遊ばせてもらうつもり。後悔されても別にいいや」
「大丈夫ですって」
 睦人の笑いがふっと途切れた。誰の顔を思い浮かべているのか考えるまでもないが、敢えて「どうした?」と振ってやる。
「いえ、相馬もその番組につけばいいのになって思って。そしたら最強だ。……次の春にだって異動はありますよね? ひょっとしたら」
 いやいや、と期待を苦笑で退ける。
「制作のトップ走ってるPを引っぺがすような人事はしないよ」
「そっか……でも、少なくとも東京戻ったら普通にしゃべれるようにはなるでしょ?」
「うーん、忙しいだろうからね」
 栄と没交渉になったのは睦人のせいじゃない。でも、そのわけを話して安心させてやることはできない。だから、うららと宗太が帰ってきて、会話が中断されたのにほっとした。
「ただいまー、ねえ、外すごい月だよ」
 買い物袋を提げたうららの横をすり抜け、宗太が駆け寄ってくる。
「おっきくてきれいだよ! 宗介おじさんも一緒に見よう!」
「また出かけるの?今帰ってきたばっかりなのに疲れてないか?」
「全然へーき‼︎」
「すみません、ごはん作ってる間連れ出してくれるとこっちも助かりますー」
とうららが言う。
「じゃあ俺も一緒に」
「むっちゃんは駄目、きょう揚げ物だからいてくんないと」
「あ、はい」
 というわけで、ちいさな手を引いて、すぐそこの海岸まで散歩した。人工のビーチには潮の匂いがほとんどない。まだ昇ったばかりと見える丸い月がちりぢりに分裂して凪いだ海面をたゆたっている。
「ほら見て、すごいでしょ⁉︎」
 得意げな宗太の頭を(手のひらに収まりそうなほどだ)軽く撫で「そうだね」と笑い返す。
「きれいな月だ、連れ出してくれてありがとう」
「これ、満月?」
「きのうのニュースで満月だって言ってたから、すこし違うかな。十六夜だね」
「じゃあきのうが十五夜?お月見は?」
「お月見をする十五夜は秋って決まってるんだよ。今はもう十二月だから」
 ふうん、と宗太はつまらさなそうに唇を尖らせた。
「決めちゃわなくていいのに、きれいな時にいつでもすればいいのにね」
「そうだね」
 階段から砂浜に降りると、みしりと重たい砂を踏む感触に変わる。
「十六夜は、『いざよい』とも言うんだよ」
 そんなちょっとした知識を披露すると、幼い子どもはすぐに「どういう意味?」と打ち返してくるので、一瞬でメッキが剥がれた。
「うーん……ちょっと待って、カンニングする」
 携帯を取り出し、ネットで調べると便利なおもちゃはすぐに教えてくれる。ふ、と宗太の頭上で洩らした笑いは、聞かれなかったようだ。
「わかった?」
「うん、『いざよう』は、『ためらう』って意味なんだって。どうしようかなって迷ってること。十五夜のお月さまよりすこし遅く出てくるから、きょうのはためらう月」
「何でためらうのかな」
「何でだろうね」
 宗太はつないだ指をきゅっと握ってしばらく考え込んでいたが、やがて「わかった!」とまっすぐに見上げてくる。睦人とそっくりな目で。胸が痛くなるこれは、栄のものだと思う。この眼差しを失ってしまった、栄が気づかない栄の痛み。
「迷子になるかもしれないから怖いんだよ。だって空には目印がないし、星はどれもおんなじに見えるでしょ」
「……ああ、そうかもしれない」
 頷くと、宗太は両手をいっぱい伸ばしてぶんぶん月に手を振り、それからこども特有の切り替えの速さでぱっと砂浜を指差した。
「この前ねえ、テレビで見たよ、亀が卵産んで、満月の夜に赤ちゃん亀がいっぱい産まれて、海に入ってくの。ここには卵埋まってない?」
「ここにはいないな。もっとずっと遠くの、人間がいないきれいな海を選んでくるんだよ」
「赤ちゃんは、産まれたばっかりなのに、どうして迷子にならないの?」
それには、調べなくても答えをやれる。
「月の光を頼りに行くんだよ」
 だから、ためらっても怖くても、ひとりでも、昇らなければ。同じことの繰り返しでも先へ進まなければ。誰かの標でいなきゃならない、その限りは。望むとか望まないとか、決めたとか決められたとか、関係ない。
お前だって、そうなんだろう?
 栄。


 窓にもたれていた頭がかくんと揺れて目が覚める。暗い。ロケバスの中だった。信号待ちで停車したため、バランスを崩したらしい。どこで何してたんだっけ、一瞬浮遊した意識はくろぐろとした窓に映る自分と目が合った瞬間に落ちてくる。芸人の冬山登山の企画で、箱根ロケに行った帰りだ。まる一日、プロの登山家にみっちり山歩きを指南されるシーンを撮影したので演者も裏方も疲れきり、車内には墨のような沈黙が沈殿している。栄も再び目を閉じて寝直そうとしたが、後方の席からがさがさとコンビニ袋を探る音がして、いつもなら気にするほどの雑音でもないのに妙に気に障る。誰だよ、といらついていると、深のひそひそ声がする。
 ––––飲み物ですか? お茶か水やったらありますけど。
 ––––いえ、すみませんうるさくして、イヤホンをどっかに落っことしたみたいで。
 きょうのゲストの登山家らしかった。いつも鍛えているから疲労も眠気も感じないのだろうか。
 ––––あ、これですか?
 ––––それそれ、ありがとうございます。
 ––––きょうはほんま、長いことお疲れさまでした。
 ––––いや、僕は全然。皆さんのほうがへとへとでしょう。
 ––––演者さんは頑張ってくれはったんで……あの、そういえばきょう思ったんですけど、目が結構灰色がかってはりますね。青みのグレーいうか。
 ––––ああ、これはね、山ばっか登ってるから。
 ––––え、そうなんですか?
 ––––長年高地で紫外線にさらされたせい。
 それを生業にしているがゆえにさらりと語られる苛酷さより、何か違うものが胸に引っ掛かった。
 普通の人間が見えないものを見ている目。
 何かが浮かびそうで浮かばない、思い出せそうで思い出せない。さっき、本当は誰かが自分を呼ばなかったか。もどかしさを車の規則的な振動が溶かし、栄を再び眠りに誘う。窓の外には銀色の丸い月が浮かんでいる。


 深夜のドライブの帰り、月も沈んだ夜明けに運転席の設楽が言った。
「きょう見たのは十五夜かな、十六夜かな」
 知らね、とあくびしながら答える。
「どっちでも一緒だろ」
「見た目にはね」
 うとうとする栄に構わず話し続ける。
「十五夜は『望月』で十六夜は『既望』。ISSの実験棟の『きぼう』ってここから来てるんだって。てっきりHOPEのほうかと思ってたけど……叶えられた望み、っていう意味でいいのかな」
「あんた、山登りとかする?」
「え? いや、しないけど。今度どこか登りに行く?」
「絶対いやだ」
「俺は今、いったい何の梯子をかけて外されたの?」
「急に訊きたくなっただけだよ」
 ゆうべの月のせいだろうか、昔のことを思い出したのは。
「寝るから話しかけんなよ」
「了解、着いたら起こす」
「俺んちだぞ」
 目を閉じて窓にもたれる。車は東京に向かう。
「おい返事は」
「んー?」
「んーじゃねえよ」
 まぶたの裏には明るい日の光が弾けていた。これからまた、月の時間の放送に向けて、始まる。

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