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たたえて

栄お誕生日記念こばなし
(新書館ディアプラス文庫「ふさいで」「つないで」より)

「今度、リノベーションする計画があるらしいよ」
 と設楽が言った。
「何のために?」
「建ってもう結構経つし、いろいろ使い勝手が悪いとこあるからじゃない?」
 確かにコンセントの位置とか作業動線とか、不満を挙げればきりがない。筆頭は手狭さだが、これは仮に拡張されたとしても一年後には同じ文句を言うだろう、永遠のいたちごっこだ。大事なのは器の容量より人間側の集中と選択。
「ほら、これ」
「何だこれ」
 差し出された資料を一瞥し、栄は顔をしかめた。
「何にかぶれたんだよ」
「さあ」
 こぎれいなリノベ後のイメージ図とやらのCGではパーテーションのない完全オープンアドレスのデスクが採用され、フロアにゆったりしたソファやハンモック、バランスボールが点在し、緑もふんだん、夜はバーエリアとしても利用可能な立式の打ち合わせスペース。回遊性を高めプロジェクトごとにさまざまな場所を活用、シームレスにコミュニケーションを図り……という能書きの途中であくびが出た。要するに、IT企業の本社みたいにしたいってか。
「報道フロアから実験的に先行リノベしてみて、駄目だったら諦めるかもって」
 何て迷惑な。
「もっと穏便な部署で試せよ。何でこんなごちゃついたとこで」
「いちばんごちゃついたとこでうまくいったら全社的にも可能だろうって見通しだろ」
 一年くらい出向してやろうかな、とちらりと基の顔を思い浮かべただけなのに「逃げるなよ」と釘を刺された。
「スタッフの要望取りまとめ、レイアウトのチェック、課題の洗い出し。諸々も管理職の仕事だから、まあ勉強だと思って」
「ダルすぎ」
 資料を突っ返してため息をつく。
「こんなもん、まずペーパーレスを実践できるようになってから考えろって話だろうが」
「そう、それなんだよね問題は」
 日々新聞が山と届き、それをコピーした資料が山と出回り、演者の原稿、構成表にQシート、オンライン上でやり取りできても、一刻を争う現場では結局紙がものをいう。この優位性はITが進化したところでどうしようもない気がする。ノートパソコンやタブレットで完結できない職場がかたちだけ最先端を取り繕おうなんて厚かましい。
「追い込んだらそのへんの紙に殴り書きした原稿をスタジオに突っ込むし、調整室なんか二十四時間三百六十五日有人管理だし、根本が泥くさくてアナログのまんま、変わってない」
「どうせそこが好きなんだろ」
「そう。すごいなー、栄は俺のことが何でもわかってる」
「見え透いてんだよ」
「リノベにあたってCPからのご要望は?」
「寝るとこ」
「お前が寝てると半径五メートル圏内が禁足地になっちゃうからみんながかわいそうだ」
「別に俺が近寄るななんて言ってるわけじゃねえよ」
「でも休息は必要だから、そうだな、リラクゼーションスペースがあるといいよね、具体的には足ツボとか足ツボとか足ツボとか」
 転職するわ、と立ち上がる。
「ハロワ閉まってるよ」
「帰るんだよ」
「お、そうだね、もう十二時過ぎたし」
「何だよわざとらしいな」
 日付を回るのなんて日常茶飯事なのに。
「自分の誕生日くらい把握してろよ」
「誕生日……?」
 まだ迎えたばかりの本日の日付を脳内で反芻する。
「……だったか?」
「言われてもわかんないなんて相当だな」
「どうでもいいから忘れんだよ」
 公的な書類を書くときも数秒考えてしまうほど興味がない。まあ、わかりやすい数字の並びでよかった。
「お祝いしよう」
「酒と睡眠以外いらねえ」
「わかってるわかってる」
 この仕事で十二時過ぎはまだ宵の口だから、一杯引っかけるのに異論はない。バーのカウンターにつくなり「シャークのウォッカ割り」とオーダーすると「やめろ」とたしなめられた。
「そんな下品な酒飲むもんじゃないよ」
「あんた昔飲んでただろうが」
 タイのエナジードリンクをウォッカで割ったカクテルは、確かにジャンクな味でそれがいい。時たま無性に飲みたくなる。
そうだったっけ、と設楽は苦笑する。
「自分の誕生日も忘れ去るくせに、妙なこと覚えてるんだな」
「好きだから」
 と栄は言った。
「酒が」
「そういうフェイント使うようになったんだ。誕生日プレゼントかと思っちゃったよ」
「何であんたがもらうんだよ」
「きょうって日にいちばん感謝してるのは俺だと思うから」
「どういう理屈だ」
 設楽は「カバランふたつ、トワイスアップで」と頼んだ。聞き慣れない銘柄だった。脚つきのグラスに入った琥珀色のウイスキーを呷ると果物のように甘い余韻が残る。
「記念日だからさ、ちょっと華やかな味のをね」
「これ、どこのだ」
「台湾」
 およそウイスキーのイメージがない産地だったが、言われてみると南国の風味があるかもしれない。
「寒冷地じゃないぶん熟成も早い。ただ、おもしろいことに樽からの蒸発も早くて五、六年でほとんどなくなるらしいよ。寝かされるのをよしとしないのかな」
「あんたと逆だな」
「ほんとに何でもわかっててくれて嬉しいな」
 そう、設楽は待つ。待たなければならないと思ったら、どんなに自分を擦り減らしても、何年でも。「その時」を迎えた樽の中身が一杯だろうが一滴だろうが、最良のタイミングのために。飛びつくだけが欲望じゃなく、悠長な強欲さ、というのも確かにある。
 夏は終わったのに、亜熱帯の酒は妙に進み、ぐいぐいグラスを空けて栄は船を漕ぎ始める。設楽とバーテンダーの会話を夢うつつに聞く。
 ーーへえ、宜蘭って山岳地帯なんだ。
 ーーええ。おまけに雨量が多いので、山の高地で冷やされた地下水がふんだんに湧く。ウイスキーの蒸留には大量の冷却水を必要としますから、水源地であることが重要なんですよ。
 樽に入ることのないふんだんな水が重要、それも何やら、誰かを思い出すような。栄は数センチ残っていたカバランを飲み干し「行くぞ」と立ち上がった。
「どこに?」
「酒の次は睡眠だろ」
 結局いつもどおり、裏を返せば現状に不満はないーーっていうことにしてしまうのも不本意ではあるが。
「はいはい」
 ほら、こんなふうに上機嫌になるから。何年もしぶとく湧き続けた栄の水。今はそれが、火傷の温度にまで沸き立つ瞬間も知っている。

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