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虹彩と光線

(※「横顔と虹彩」おまけ短編です。封入ペーパーの「嫉妬と夕立」から続いています)

人が使った痕跡が生々しい浴室なんて、気分のいいものじゃないはずだった。床も壁も濡れていて、天井には半円の水滴がへばりついていて、石けんのにおいはまだ濃く、むわっと湯気がこもっている……しかしそれらの要素は、「ただし好きな相手の使用後」という条件の下では一変する。単純に嬉しいというのも変態っぽくてあれだけど、照れくさいようなくすぐったい湿気に包まれてシャワーを浴び、近所のユニクロで一式買った着替えを身につけた。こんなカジュアルオブカジュアルで寿司屋行って大丈夫なんかな。回ってるやつで全然ええけど。
髪を乾かして脱衣所を出ると、なぜか室内にはカレーのいいにおいが漂っている。

「あ、換気扇つけてくれた?」
「うん」

竜起はTシャツとパンツだけの格好で床に座り、ローテーブルの前で「いただきまーす」と元気よく手を合わせた。

「てか自分、何食ってんの」
「カレー」
「いやそれは分かるけど、寿司行くんちゃうんか」
「だからじゃん」
「は?」
「ほら、多少胃を上げ底にしとかないと、お値段がね!」

空腹レベルを下げておかなければ、高くつくというわけか。

「実家でも、焼肉屋行く前とかうちで炒飯食べさせられてたんだけど、なっちゃんそうじゃなかった?」
「そんなんしたことない、ほら、髪の毛まだしとしとやし!ちゃんと乾かさな」
「俺ドライヤー嫌い、めんどい」
「もー……」

洗面所からドライヤーを持ってきて、ソファに座って後ろから竜起に風を当てる。

「あーきもちー」

竜起が食べる手を止めて喉を反らし、深に頭を預けた。指の間をしなしな通る髪が、乾いて膨らんでいく。ただの物理的な現象に過ぎないのに、何かがみるみる実っていく感じが深は嬉しい。掌をあたためる竜起の存在が嬉しい。頭ごとがばっと胸に抱きかかえて両手でもみくちゃにしてしまいたかった。でも衝動を抑えてドライヤーのスイッチを切る。

「はいおしまい」
「延長して」
「あかん」
我慢できんくなるやん。
「ちぇー」

不服げに手櫛で髪を撫でつけると、振り返って深にスプーンを差し出した。
「ひと口あげる」
ええよ別に、とお断りしようとしたのに「ほらほらこぼれる」と急かしてくるものだから、つい口を開けて迎え入れてしまった。
「うまい?」
口元を手で押さえてもごもご咀嚼し、深は「ふつう」と答えた。

「食レポでそれ言ったらぶっ飛ばされるよね」
「俺は素人やもん」
「まーそうだけど。それより、」
竜起はスプーンを皿に戻して得意げに笑った。
「食ったね」
「は?」
「俺と同じスプーンで食べたね、他人に箸突っ込まれるの嫌いとか言ってたのに」
そこでやっと言わんとすることを察し「アホか」と呆れた。
「ラーメン屋ん時の?そんなん、いつの話やねん……」
「いや結構最近だけど」

考えてみたらそうだった。あの時の深は、確かにいやだと思って拒否した。シェアは構わないが、自分のぶんに浸食してこられるのもするのも苦手で、鍋ものはいいけどひと口のやり取りは避ける性分だから。あの夜から今までずっと連続した「自分」でしかないのに、ふしぎだ。

「……ていうか、あんなことして今さらスプーンがいやとか言うわけないやろ……」
とっくに飲み込んでしまったのに、もごもごと言い返すと「何ですかあ?」と明らかに分かっている顔で楽しそうに訊き返してくるので深はソファから床に降りて皿に手を伸ばし、カレーを強奪する。

「あっ!泥棒!」
「うっさい!ほんまアホちゃうか!」
ちっとも辛く感じないカレーをばくばく食べてやる。
「ちょ、食いすぎだから!」

竜起は慌ててスプーンを取り上げると、深の手首をつかんだ勢いのまま体重を下にかけた。ひんやりと気持ちいいフローリングの床には、ブラインド越しに射す夕暮れの光がオレンジのストライプになっていた。押し倒された身体がその模様をゆがませる。

「……夕立、上がってたね」
「うん」
いつの間にか、部屋じゅうの空気が果汁の色だった。
「なっちゃんのほうが湿ってる」
竜起が、髪に触れて笑う。もう一度、床の上でぎゅっと手をつなぐ。

「さっきシャワー浴びたのに」
「また浴びればいいじゃん。今度は俺が、なっちゃんの髪乾かしてあげる」

あの夜、あの夜からずっと遠いところにきたような気がする。でもそんなに時間は経っていなくて、深はぜんぶ覚えていて、ここで竜起を見ている。竜起の虹彩を見上げている。心臓の音さえあたたかなオレンジに染められながら。夕立雲を晴らした光線が、深の大好きな笑顔を照らす。

*おまけのおまけ*

竹美家先生が描いてくださったカウントダウン絵とひとコマまんがもまとめておきます。



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