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桜のころ

※「ナイトガーデン」和章と柊

最初の春だった。近所の公園に桜並木があって、柊はそこを通りかかるのを毎日楽しみにしていた。植物園でそれなりに多様な草花や樹木に触れてきたが、やはり桜という木は特別な感じがある。日本に生まれ育った刷り込みのおかげだろうか。今年の桜、去年の桜、と年と一緒に花を数えるのはこれだけだ。今年のチューリップ、でも今年のひまわり、でも悪くないけどしっくりこない。だから、和章と迎える初めての春、ぷつっと吹いた芽がにゅっとふくらみ、つぼみを形成していくのをわくわくしながら眺めていた。

桜前線が順調に日本列島をよじ上っていき、開花予想が満開予想に変わる頃、和章はふと並木の下で足を止め、五分咲きの樹を見上げてつぶやいた。
「どうしてつぼみの時はピンク色なのに咲いたら色がうすくなるんだろう」
基本的に、動植物に興味のない和章がそんなことを疑問に思うのが意外で、そして嬉しかった。単純な観察の結果に過ぎなかったとしても、心のどこかに引っかかってくれていたのなら。
「えーとね」
柊は分かりやすい説明の言葉を探す。
「桜の色素はアントシアニンだけど、つぼみのうちにぜんぶ形成されてるから、そのあと成長して開花しても含有量は変わらなくて」
「ああ、単純に希釈されるんだな」
和章は察しよく頷いた。
「色が消えていくんじゃなくて、花のすみずみまで行き渡った結果なのか」
「そうそう」
拙い説明でもちゃんと伝わったらしいので安堵し、「そういえば俺も」と話しかけた。
「桜咲くたび、あれ、案外ピンクじゃないなって思う。毎年見てるのに、毎年、咲く前に想像してたより白いっていうか、淡い」
「ああ、その答えなら俺が知ってる」
なんらかの理由で桜が年々白くなっている––––とは思えないが。
「え、先入観以外にある?」
「先入観と言い換えることもできるかもしれないが、記憶色、というのがあるんだ」
記憶の色。柊の頭にはまた、祖母の葬儀で見た金平糖の、とりどりの彩色がよみがえってくる。
「空は青い、海は青い、りんごは赤い、桜は桜色……そういうものを、人間は記憶の中で鮮やかに補正しがちなんだよ。写真でも、記憶色に近づけて色味を調整するから、たぶんどんどん記憶色のほうが強くなるんだろう。忠実にプリントすると濁ったりくすんだりして見える」
「でも、そっちが本当の色ってこと?」
「本当、という言い方が適切かは分からない。そもそも、色彩を認識する時点で個々の脳は補正をしているはずだから……」
そこまで話して和章は気まずそうに口をつぐんだ。
「どうしたの?」
「また、つまらない、理屈っぽい話になってしまったなと思って」
「何で、そんなことないよ」
むしろ、ものすごく面白い人だと思っているのだが、たぶんそれを言ってもいい顔はされないだろう。
「思い出って、セピア色とか、褪せた感じになるイメージだけど、違うんだね」
ということは柊の記憶にある金米糖も、実際よりずっと鮮やかなのかもしれない。時間を巻き戻して現実を確かめることはできないが、それも悪くないとは思う。呼び起こされるたびきれいに補強されるもの。今、生きている人間を傷つけることにならないのなら。

「でも、逆も、あるよね」柊はつぶやいた。
「ん?」
「本当はそんなことなかったのに、頭の中でどんどん悪くて暗くてひどいものにしちゃう時も」
怖くて蓋をして、閉じている間に中で煮詰まって焦げてしまい、おそるおそる確かめてやっぱり駄目なんだ、と、刻み込んでしまう繰り返し。柊も和章も、それぞれに閉じ込めているものがある。
「…...そうかもしれない」
和章はちいさく答えた。
「それでも、自分のやったことを軽く見積もったりはできないよ」
分かってる、それは間違いじゃない、でも誰にとってもプラスにならない正しさじゃないのと柊は言いたい。言いたくて和章の潔癖な横顔にものが言えずうつむいてしまうと、やわらかく手をつながれた。
「大丈夫だよ」
見上げると優しく笑っている。いつか和章と会えなくなったら、この微笑はもっと優しくもっと哀しく柊の胸に残り続けるだろうか。
「自分を幸せにしてくれって言われたこともちゃんと覚えてる。それを軽んじるつもりもないから」
「……うん」
和章の後ろで、桜が微風に揺れる。まだ頬紅を含まされたように色づくつぼみも開けば色がうすくなる。でも、消えたわけじゃない。花の持つ色彩はどこにもいかない。

「今の和章さんが今思う幸せってどんな感じ?」
「来年もこの桜が咲いているのを柊と見られることかな」
和章は言った。
「それで来年も、想像してたより白いって腑に落ちない顔で君が言うのを聞きたい」
「俺、何の進歩もないじゃん」
不本意な顔をしてみせたけど、柊も、また和章の説明が聞けるんなら、そして「つまらない」と申し訳なさそうな顔が見られるならいいかもと思ってしまった。
思い出は重なりどんどん美しくなる。いつか、一緒に生きた日々を夢のように振り返る時が来るのかもしれない。でも本当だった。確かにここにいた。手をつないで、桜を見上げていた。

忘れないでね。
最後の春にも。

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