見出し画像

ひだまりをあげる

※ねこの日記念こばなし。「ふさいで」の設楽と栄

きょうは、三月の陽気らしい。最近めっきり訪問回数の減った喫煙所に久しぶりに足を向けると、入るまでもなく満員なのが分かった。収録の合間の休憩か何かにかち合ったのかもしれない。他人の煙は極力至近距離で浴びたくないと思っているのできびすを返し、ウッドデッキテラスに行き先を変更した。コートも着ず屋外でも平気な日和だ。ランチタイムも過ぎ、期待通りにそこは無人だった––––すくなくとも、人間は。

煙草に火をつけようとライターを探っていると、不意に植え込みの影からちいさな塊が飛び出してきた。思わず手を止める。子猫だった。きじとらの、若草色の大きな瞳の。それは急にぴるっと現れたかと思うと、ウッドデッキの床を、まだ碁石ほどの大きさの前脚でちょいちょい引っかく。何だ、虫も鳥もいねえぞ。

見ていると、子猫が仕留めようとしているのは、足下の陽だまりだった。木立の影の合間で、光にはちみつを溶かしたみたいにぽったりちいさな模様がいくつもできて、やわらかい風が吹くたび微妙に揺れ、揺らぐ。それが赤子と大差ないけものにとっては格好の獲物と映るらしい。
毛並みはよく、野良ではなさそうだった。とすると撮影で使うタレント猫だろうか。何にせよ栄には関係がないので放置していると、膝の上でひじをついた拍子に子猫がすぐ傍に飛びかかってきた。手に持ったままのライターが陽射しを受け、淡いプリズムを床に落としていて、今度はそっちに反応したようだ。ライターを動かすと一人前に尻尾をぴんと立てて、肉食獣の捕食のポーズで飛びかかってくる。かと思えば陽射しの中でごろんごろんと何度も腹を見せて寝返りを打ち、しまいに桃色の鼻をすんすん鳴らして栄の脚にしきりとちいさな身体をこすりつけてきた。

「……何だ、お前」
つい、ふっと笑いが洩れる。
「毛がつくだろうが」
片手ですくい上げるようにして持ち上げると、眉間にきゅっと段差をつくって「にあー」とビブラートの効いた鳴き声を披露した。幼くても鋭い牙と、やっぱりピンク色の舌が覗く。
「ストップ、そのまま」
不意にかけられた声のほうを見ると、設楽が近づいてくる。
「何だよ」
「その猫、捜索願が出てたところだから」
「どっかの事務所の猫か?」
なら、このやたらに人慣れした反応も納得がいく。
「いや、タレントさんの飼い猫。預け先がないって連れてきたはいいけど、逃げ出しちゃってスタッフ大慌て」
名前を訊くと大御所クラスの女優で、それは青くなって探している最中だろうと容易に想像がついた。
「まさかここにいるとは」
栄の手から猫を受け取ると、設楽は両手で目線の位置まで持ち上げて「こんなとこまでどうやって遠征したんだ?」と問いかける。答えはやっぱり「にあー」だった。
「猫が答えるかよ」
「お前だってさっき話しかけてただろ」
「いつから見てんだ、気持ちわりーな」
「楽しそうだったから、邪魔しちゃいけないなって」
「どこがだよ」
「ひとまずこいつ届けてくるよ。謝礼に一万円は固いから、夜は何かうまいもの食いに行こう」
「そのまえに、どうせ余計なもん撮ってたんだろ、消しとけよ」
「あれ、何でばれたんだろう」
「いいから消せ」
「仕事に疲れた時の癒やし用だから」
と、結局消さずに猫を持って行ってしまった。後には、遊び相手のいなくなった陽だまりと、春の気配が濃い空気と、青空と。
煙草を吸う気も失せて青空を仰いでいる栄と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?