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2018winter

冬コミで配布した折り本のこばなしです。イエスノーの潮父と、その兄と秘書の西條さん。BLじゃないかもしれない、でも続くかもしれない……。

名前のないドキュメント(Untitled Document)

カティサークがいちばん好きかもしれない。鉛筆を動かしながら誉は思った。味の話じゃない。15歳の誉には、酒の味など分かりようもない(たまに舐めるくらいはするから「知らない」とはいえない)。好きなのは瓶の形だった。スリムで、肩から首、そして注ぎ口にかけて、すっ、すっ、と細くなっていく段階がきれいだ。下の部分がわずかにくびれているところもいい。ジョニーウォーカーの実になめらかななで肩の曲線、ジャックダニエルの四角さ、シーバスリーガルの肉感的なカーブ、あるいは響の重厚感や角瓶の亀甲模様も悪くないけれど— —。

「誉」
家の中で唯一、ノックというものをしない兄の波が声とともに扉を開けた。
「やっぱりお前か、ウイスキー泥棒は」
「ちゃんと母さんに借りるって言った」
「聞いてないんだろ。探してる」
といって勝手に瓶を取り上げた。
「まだ描いてる途中」
「江波のおじさんが飲みたいんだって、諦めろよ」
蓋を開けると、机の上に置いていた紅茶のカップに注いで呷る。
「中身ちょっと残ってなかった?」
「うん、でもこれはこれで悪くない」
本当だろうか。波の言うことは適当なので信用できない。波はスケッチブックを勝手に開いて「こんなの描いてて楽しいか?」と率直に問うので「楽しいから描いてる」と誉も率直に答えた。
「ヌードデッサンする時だけ呼んでくれ」
「男でも?」
バカ、と兄は笑った。
「それでもっと、アンディ・ウォーホルみたいなの描けよ。花だの瓶だのより楽しそうだし、簡単そうだ。頭の弱い金持ちに高く売れるんじゃないのか」
「ああいうのは、最初に考えてやる人間だけがえらいんだよ」
「ピカソのまねしてるやつなんかいっぱいいるだろ」
もはやオーソドックスになった技法と模倣は違う。しかしその差異を正確に語れるほどの見識は誉にはなかったし、別に波も心底興味があって話しているわけではない。というかこの兄は、この世の何事にも関心がないのだと思う。どこにも錨を下ろさない心だから軽やかで、誰もが捉えたくて躍起になる。波にはそういうふしぎな魅力があった。
「江波のおじさんが、誉も呼べって言ってた。行こう」
「受験生なんだけど」
「落描きばっかりしてるくせに何言ってんだ。臨時国会閉じてご機嫌なんだよ、ちょっとはつき合ってやれ」

ため息をつきながら座敷へ向かう。江波は父の旧い友人で、誉にとっても親せきみたいなものだから、会うのがいやだというわけではないのだが、臨時国会直後で酒が入ると話題は政治のことばかりになる。法案談義、来年度予算案についてのあれが足りないこれが無駄だのというやり取り、議員仲間や秘書の品評、要はつまらない。
「おう、誉、よう来た、座んなさい。受験勉強は順調か?」
赤ら顔の江波に手招きされて卓に着く。兄が「『よう来た』って、俺たちの家だけど」と茶化して「扶養家族の半人前が何を言っとるかっ!」と怒られていた。国会でこんなふうに怒鳴られると、与党の幹部でも怯むらしいが、波は一向に堪えずにやにやしている。何かとかっかしやすい江波をからかうのが好きで、江波のほうでも、波の図太さを叱りつつかわいがっているのは明らかだった。

「ふてぶてしい政治家になるんだろうよ、お前は」
描きかけだったカティサークを、氷の入ったグラスにたっぷり注いで江波が言う。
「なってあげるかどうかは決めてないな」
「あげるとは何だ、あげるとは」
「ほんとに俺がバッジつけて赤じゅうたん踏んだ日には、おじさん嬉しくて泣くでしょう」
「うちの党から立候補してくれりゃあ、そういうこともあるかもな」
「弱小野党はごめんだな」
波はあっさり言う。
「やりたいことなんか何も通らない。採決の時だけ都合のいい数合わせに利用されて足元見られるばっかりで。寄らば大樹の陰でいいや」
「何を言うか、若いもんが楽ばかりしようとするな」
江波は渋面をつくった。
「弱小野党は必要なんだ、一円を大事にする人間はそういないが、一円玉がなくなったら皆困るだろう」
「五円玉に切り上げでいいよ」
「まったくああ言えばこう言う……海、お前んとこの教育はどうなってるんだ」
矛先を向けられた父親は「十代なんてこんなもんだろう」と苦笑していた。
「怖いもの知らずなんだ」
それはちょっと違うな、と誉は思った。怖い、という回路がたぶん生まれついて断線している。だから未知ではなく永遠の無知だ。波みたいな人間が政治家になる(たぶんおそらく、将来的に)、というのがいいことなのか悪いことなのか、判じかねた。

「誉」
その日の夜遅く、波に揺り起こされた。
「……なに?」
「客が来てる」
「父さんに?」
夜中の訪問者がないわけじゃない。
「いや、江波のおじさんと飲みに出たから。ばあさんの知り合いだって」
「へえ……」
枕元の目覚まし時計を確かめると、蓄光の針は午前二時半のあたりでほのかな緑色に光っていた。こんな時間にいったいどういう知人がどんな用件で?そして兄がわざわざ起こしにきた理由も謎だった。
「正確には、女学校時代の親友の娘らしい」
「ふうん、おやすみ」
あくびをしてベッドに潜ろうとしたら掛け布団を剥がされる。
「寒いよ」
「寝るな、話はまだ終わってない。その、同級生の娘、旦那がえらい酒乱でうちに逃げてきたんだ。子ども連れて」
「子ども?」
「誉のひとつ下だからまあいい年の子どもだけどな」
いい年の子ども、という表現にはちょっと笑った。
「女?」
それで、てっきりどんな顔か覗きに行こうぜ、という誘いかと思えば、違った。
「男だよ。寒いし、落ち着かせるために風呂に行かせたけど、かれこれ一時間ぐらい出てこないから、俺たちにようす見に行ってこいって、母さんが」
ちょうどほかの男がいないし、子どもの母親のほうは泣くばかりだから— —ということだった。

「波ひとりでいいじゃないか」
「お前のほうが年が近い」
「ほとんど一緒だよ」
誉とひとつ違い、ということは波とも三つしか変わらない。
「十代の一歳は大きいだろ、ほら、行こう」
誘ったくせに、廊下の途中で波はふっと姿を消した。気まぐれはいつものことだからひとりで風呂場に向かうと、脱衣所の前に母親が立っていた。
「ああ、誉、ごめんなさいね夜遅くに」
「いいけど……まだ中?」
「ええ。疲れて眠り込んだりしたら危ないから。お願いね」
「分かった」
脱衣所の引き戸を開けて入ると、籠の中に、衣類がきちんとたたんでおいてある。自分や波よりよっぽどお行儀がいい、と思った。磨りガラスの扉を軽く叩いて、何と声をかけようか迷ったがとりあえず「こんばんは」と言う。名前も聞いていない。応答がないので「開けるよ」と宣言してそっとガラス戸を引くと、大人が二、三人は入れる浴槽の中で子どもがひとり、背中を丸めて縮こまっていた。
そこにある色が、真っ先に誉の目を引いた。一瞬、入れ墨をしているのかと思った。でも違った。裸の肩から背中にかけて、肌色がどこにあるのか分からないほどあざだらけだった。湯に揺らめいている部分でもはっきり分かる。それは傷んだような黄色だったり、緑青だったり、灰青だったり、朱色だったり、新しいのと古いの— —日常的に殴られたり蹴られたりしている痕跡だった。波の言うところの「いい年した子ども」は、膝に顔を埋め、声を殺して泣いていた。

「大丈夫?」
とりあえず生存は確認したのでそっと出てもよかったのに、気づけば誉はそう話しかけていた。少年ははっと振り向き、泣き濡れた目に不安と困惑を浮かべて誉を見る。
「ごめん、どう見ても大丈夫じゃないな、ええと……」
どうしようかな。波だったら、こんな時もうまく口が回るんだけど。パジャマの肩からカーディガンを引っかけたまま棒立ちになっていると、扉の開く音がした。子どもがびくっと反応する。

「波」
ふらっと消えたかと思うと現れた兄は、両手に柚子の実を抱えていた。
「それ、どうしたの」
「庭から獲ってきたに決まってるだろ」
浴槽のふちに腰を下ろすと、あからさまに竦んでいる客にはお構いなく流し込むように柚子をだぼだぼ投入した。
「……沁みるかも」
果汁があざに悪いかどうか知らないが、生傷だらけの身体に波はいっさい頓着していなかった。
「俺のほうが沁みてる」
ほら、と突き出してみせた両手のひらには赤い点がそこらじゅうににじんでいる。
「柚子の木があんなにとげだらけとは思わなかった」
「軍手は?」
「急に思いついて庭に出たから、面倒だったんだ」
血の出たままの手を湯船に突っ込み「いてて」と言いながらかき回すと、初めて裸の子どもに向かって「いい匂いだろ」と話しかけた。
「実生の柚子だからな、そこらのとは違う」
「みしょう?」
初めて、ふるえる、細い声を聞いた。
「種から育てたって意味だよ。柚子はたいてい接ぎ木だから。俺が生まれた時に植えた種がやっと収穫できるようになった」
「冬至用に残してたんじゃなかったっけ」
あ、しまった、とすぐに思った。涙の乾かない顔が心細げにゆがんだから。自分のせいでまずいことになるかしれない、と怯えている。柚子を摘んできたのなんて、波の勝手なのに。
「平気だよ」
波は果実をひとつ拾い上げ、香りをかいだ。
「この家で、俺に怒れる人間なんていない」
江波が聞いたらまた湯気を立てそうな台詞だった。でもそうなのだ。父も祖父も、結局波を従わせることはできない。長男だからでも、できがいいからでもない。波がそういう人間だから、としかいいようがない。
「誉、何だったっけ、あれ、ばあさんがよく言ってるの。柚子の」
「桃栗三年柿八年、柚子の大馬鹿十八年?」
「そうそう」
女房の不作は六十年、亭主の不作はこれまた一生— —と声を合わせて唱えると、子どもは初めてちいさく笑う。「名前は?」と波が訊くと「西條律です」と答えた。

部屋に戻ると、スケッチブックを開き、描きかけのカティサークのページをひらいた。水彩絵の具をパレットに絞り、一輪挿しの水差しに筆を突っ込んで色を乗せていく。瓶の緑でもラベルの山吹色でもなく、でたらめな青やグレーや茶色や赤や。あの、裸の背にいびつな花園みたいに鮮やかに広がっていた痛みの色を。

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