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のばら(2018Spring)

※「ワンダーリング」藤堂と雪

すぐ近所に住む異母兄の家には、アップライトピアノが置いてあった。それをおもに弾いていたのは、半ば自分の母親代わりでもあった兄の母・梅芳で、「ピアノとそのお稽古」は、恵まれなかった少女時代の、憧れの象徴だったらしい。週に何回か講師を呼んで、素人の習い事としてもレベルの高いほうではなかったが、彼女はレッスンを楽しんでいた。いろいろ問題はあれど、甲斐性と愛情を惜しまない父はグランドピアノと買ってやると意気込んだそうだが、慎みぶかい梅芳は固辞した。

––––私みたいな、年取った初心者にもったいないわ。ピアノに失礼。
––––何歳で始めたっていいと思うけど。
––––そうかしら。覚えも悪いし、指も覚束ないし……雪のほうがよっぽど素質があるみたい。私が練習してるのを横で見てるだけで、見よう見まねで弾いちゃうんだもの。もちろん、運指はでたらめだけど、目と耳がいいのね。手先も器用だし。

だったらその素質とやらを、音楽でも何でもいいからギャンブル以外に向けて育てればいいのに––––と口に出すのは不毛で、優しい梅芳を困らせるだけだと分かっていたから言わなかった。何より、本人にそんな気は毛頭ないだろう。その代わり、「何か一曲弾いてみせて」と頼むと、「笑わないでね」とはにかみつつ、ぎこちない手つきでモーツァルトのピアノソナタを披露してくれた。

––––すごいよ、お父さんが聴いたら感激してカーネギーホールを貸し切ろうとするんじゃないかな?
––––怖い冗談はよして。そういえば、頼子はとってもピアノがじょうずよ。聴いたことある?
––––母さんが?
日本ではそこそこ裕福な家庭だったというから、お稽古事として経験していてもおかしくはないのだが、飽きっぽく大雑把な母が、鍵盤に指を滑らせている場面など見たこともなかったし、想像するのも難しかった。
––––初耳だよ。ここにいる時だって、ピアノには見向きもしないし。
––––私に気を遣ってくれているの。
––––そんな性格かな。
––––そうよ。九耀、知らないのね、頼子は優しい人よ。昔、一度だけねだって弾いてもらった「愛の夢」はすばらしかったわ。
試しに、母にピアノを弾いてくれと頼んだが「やあよ」とあっさり断られてそれっきりだった。もちろん、雪がピアノを弾くところも、目撃した記憶はない。

そんな母が、何十年ぶりかに日本の地を踏むことになった。祖父母、つまり母にとっての両親が相次いで息を引き取ったからだ。祖母が心不全で前触れなく逝くと、間もなく祖父も急激に死の坂を下り始め、家出同然にシンガポールで暮らして帰らずにいた母も、夫(内縁だが)と息子に説得されて、ようやく慌ただしい帰国を果たした。

「ほんとに失礼しちゃう」
ぎりぎり、今際の際に駆けつけることはできたのだが、母は涙も見せず怒っていた。
「わざわざ会いに来てあげたのに!」
「僕は、ものすごい愛情を感じたけど」
「冗談じゃないわ」
老人ホーム併設のクリニックで、今しも息絶えようとしていた祖父は、母が枕元で「パパ」と呼びかけると、急にぎろっと目を開け、しわがれた声で、けれどはっきり「バカ娘が……」と言った。そしてそれきり呼吸を止めた。本当に、命の最期の火を燃やしたという感じだった。あのひと言に。
「長く離れても、お互いに年を取っても親子は親子だね」
「だったらもっと優しい言葉をかけろっていうのよ。遺言が『バカ』よ?お医者さまだって笑いそうになってたじゃないの!」
「事実じゃないか」
「言っとくけど九耀、私がバカじゃなかったらあなたは生まれてないんだからね?」
「分かってるよ、感謝してる」
「どうだか……」
「母さん、そっちは出口じゃないよ」
「散歩がしたいの」

郊外に建つホームの広い敷地にはなだらかな丘や桜並木があり、その静かな雰囲気は昔訪れたストックホルムの「森の墓地」にすこし似ていた––––などというと、入居者に失礼だろうか。ずんずん先を歩いていた母が、ばらのアーチの前で立ち止まる。
「咲いてないのね」
「冬だからね」
春のために剪定された裸の蔓がとげを剥き出しにして、開花に必要な準備とはいえ寒々しい眺めだった。
「アーチの奥にあるのは何?」
「礼拝堂」
母の足はまっすぐ三角屋根の建物に向かい、迷わず中に入ると通路を突っ切り、最前にあるオルガンの前に腰掛けた。止めようかと思ったが、見咎められたら自分が謝ればいいことだと思い直した。母は、両親を立て続けに亡くしたのだから。

初めて聴く、母親の演奏だった。手元は見えないが確かな旋律だった。梅芳の言葉は正しかった。ステンドグラスから射し込む陽はふわふわとした虹色で、どこかつかみどころに欠けるオルガンのやわらかな音色とよく合っていた。一曲弾き終えると、「ふう」とあっさり蓋を閉じ「なまったわ」と嘆く。藤堂は唯一の観客として拍手を送った。
「母さんのイメージが一変した」
「どういう意味よ」
「今の、『庭の千草』?」
「いいえ」
The Last Rose of Summer––––夏の名残のばら、と母は答えた。
「『庭の千草』なんて知らないわ」
「おんなじだよ。お祖母さんはよく口ずさんでた。ここからちょっと先に、白菊の咲く花壇があって」
要は、アイルランド民謡に日本語版の歌詞をつけたものが「庭の千草」で、メロディーラインは変わらないが、詩の意味するところは大きく違う。一輪だけ咲き残ったばらを「ひとりにしないよ」と手折る歌と、露や霜に耐える孤独を「かくてこそ」と称える歌。

––––どちらも、老境の孤独ね。
祖母はそう教えてくれた。
––––「枯れて」は「離れて」、「遅れて」は「後れて」。掛詞を知ってる?
––––大学の講義で源氏物語を習った時に、少々。
––––頼子は、こんなことをあなたに教えてあげなかったでしょうね。
あらかじめ答えを予期した諦めの口調に藤堂は笑って「全然」と頷いた。
––––でも、たくさんのことを教わったし、僕は母さんを愛してますよ。彼女がおばあさんたちを愛しているように。
––––ありがとう、でも時々思うの。あなたが普通に、日本に生まれて近くで育ってくれてたらって。

曖昧な微笑でしか応えられなかった。祖母は逝き、間を置かず祖父も逝き、散りそびれた花の孤独をどちらも味わわずにすんだ。それはいいことだと思う。
さて、と母は立ち上がる。
「私が立ち会ったりサインしなきゃならない問題はある?」
「いや、ぜんぶ僕のほうですませておくから」
「そ。じゃあ、帰るわ。日本ってこんなに寒かったのね、忘れてた。もう南国が恋しい」
葬儀にも納骨にも立ち会う気はなさそうだった。短いピアノの一曲で、彼女なりの弔いは終わったのだ。
「久しぶりにうなぎでも食べようかしら。半世紀前行ったきりの店がまだやってたらだけど」
「調べるよ」
「いいわ、分からないまま行くほうが面白いから」
タクシーに乗り込む前に、ぎゅっと藤堂を抱きしめてささやいた。
「バカとか恥さらしとかつらよごしとか、パパにはさんざん言われてきた。でも私、一秒たりとも後悔はしてこなかったの。九耀みたいにいい子が生まれてくれたおかげよ」
「逆だよ、母さん」
背中に腕を回して応える。
「母さんが後悔しないでいてくれたから、僕は僕になれた」

深夜、家に持ち帰った仕事を片付けていると、玄関のドアが開く音がした。それから、どうやらバスルームに直行したようだ。用事(というか要求)があればそのうち来るだろうし、構わずパソコンに向かう。ほどなくして仕事部屋のドアが開き、バスローブ姿の雪がずかずかと近づいてくる。乱暴にどけられる前にノートパソコンを閉じて脇へ避難させると、当然のように腰掛けて藤堂を見下ろした。

「うん?」
入眠前のマッサージか、それとももっと濃いやつなのか、どちらにせよベッドに連れて行く案件かと思いきや、雪は両手を藤堂の頭に添え、膝の上に導いた。あたたかなパイル生地が頰に触れる。
「……これは、何の遊び?」
「おじいちゃまおばあちゃまが死んで寂しがってるから慰めてあげて、って頼子さんが言うもんで」
高いうなぎごちそうになりましたから、という理由がどの程度本当なのか定かではない。けれど、人肌に触れるとむしょうにほっとし、確かに自分は寂しかったのだとはっきり自覚して身体の力を抜いた。

「珍しいですね」
「何が」
「あなたは他人に寄りかかるにはプライドが高すぎるから」
「君じゃなくて?––––そうだな、そうなのかもしれない。あれこれ考えるのはやめるよ。僕はおじいさんたちが死んでしまって寂しい。もうあのホームの庭を一緒に散歩したり、手紙をやり取りすることもないんだ」
「血縁なんか売るほどいるくせに」
「誰も誰かの代わりにはなれないよ」
伏せた顔の下に両腕を割り込ませ、膝枕で居眠りをしているようなかっこうになる。雪の指が髪の間に滑り込む。

「お父さんみたいに、繁殖に精を出せばいいのに。十人も二十人も子どもをつくったら寂しがる隙間もできない」
「優しい声でひどいことを言わないでくれ。君が好きだよ」
「……ほんとに弱ってる。つまんないな」
「朝には立ち直ってるから。ストックホルムにある『森の墓地』を知ってる?」
「いーえ。死んだらそこにぶち込んでほしいって話ですか?」
「『きょうはあなた、あしたは私』って書いてある。『きょうは私、あしたはあなた』とも。若い頃には残酷な真実を突きつけるなよと思ったけど、今じゃそれが救いの言葉だって分かる」

きょうとあしたの間に、名残のばらが、白菊が、咲いている。母がバカじゃなくて自分に日本に生まれていたら雪には会えなかった。その想定に比べればどんな終わりも怖くはない。雪は姿を消すような気がしている。どこかで元気に生きているという希望をくれたまま、いなくなる気がしている。そのことを話してみようかと思ったが、唇もまぶたも重かった。髪を梳くのに飽きたか、丸まった背中の上で雪の指が遊び始める。見えないピアノを奏でているみたいに。

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