見出し画像

花泥棒

※「おとぎばなしのゆくえ」、隼人と湊

ただでさえ来訪者の多い街で、とりわけ春はうっとおしい。人間の空気というかテンションがやたらそぞろに浮わついて目に耳に障る。しかしそんな自分だってよそ者には違いなく、文句を言う先もないので黙ってやり過ごすしかない。唯一、個人的な感情を洩らす相手は大いにのんきなバカなので「にぎやかでいいと思うな」なんて平気でぬかしやがるし。

––––始まるんだなって感じが。お正月とはまた違って。
ほんと合わねえ、と何百回感じたか分からない脱力を思い出しつつ、勝手に縄張り化している神社のベンチに寝っ転がる。野良猫のテリトリーくらいには一方的かつ無根拠なものだ。頭上では桜の枝が花をこれでもかと身につけしならせ、陽光をやわらかに遮るので、隼人の上には水玉の光がうらうらと落ちてくるのだった。目を閉じてもまなうらがちらちら点滅している。明るい光と明るい闇。

はら、と鼻先にくすぐったい、羽根のような感触。花びらが落ちてきた、と目を開けなくても分かるので特に気にしなかったが、そのあるかなきかの儚い重さは次から次へと続く。そんな強い風は吹いていないはずだ。億劫にまぶたを持ち上げると、ちょうど花が降ってくるところだった。まっすぐに、音もなく、隼人の胸に落ちてきて、花の形を保ったまま伏せられる。それが着地したと思うと、また。
ひるる、ひるる、と。

頭上に目を凝らせばあちこちの枝にすずめが止まっていて、花をついばんでは落としているのはどうやらこいつららしかった。隼人の視線に気づいたようにちゅぴちゅぴ、ぴちゅぴちゅさえずり始めたが飛び立つ気配はなく、どころかいっそうさかんに花を散らし始め、それらははらはらと仰向けの無防備な胸や腹に裏返しで着地する。遊びなのか、蜜を吸っているのか分からないが、真下で顔をしかめる人間にはお構いなしだった。ほかにも桜の木はあるのに、なぜか隼人がいるところに小鳥は集い、その甲高い鳴き声はどんどん重なり、隼人の上に桜も重なった。

こいつら、俺を葬ろうとしてねえか。土葬の穴にざくざく土をかけられている気持ちにちょっとなった。しかし花に埋もれて窒息するわけはないし、本気で追っ払うのもおとなげなさすぎるから、無視して入眠に集中した。

目を開けると、桜の海だった。
違う、桜の川……でもない。川沿いの桜並木を見ていた。海まで続くんじゃないかと思うほど長い。

––––どうだ、見事なものだろう?

得意げな声のした方を向けば、湊であって湊でない若様が笑いかけている。しかし、湊という名前はすぐ忘れた。若様は若様だ。
––––私の、四代前の当主が山から植え替えたものだ。ようやくここの土に慣れたのか、数年前からきれいな花を咲かせてくれるようになった。
酔狂だな、という感想が顔に出たらしく、若様はむっと眉間にしわを寄せて反論した。
––––道楽ではない。江戸で同じことをやったと聞いて習ったのだ。こうやって川沿いに桜を植えれば、大勢の人間が見に来て地面を踏み固めてくれるだろう?勝手に土は強くなって大雨にも耐えられる。もちろん花を見ていると楽しい。治水もできて一石二鳥だ。
いきいきとした声を聞きながら、川向こうの桜を眺めていた。青い流れの上に土手の緑が横切り、その上にほわほわと桜の雲がたなびいている。

––––聞いているのか?
不意に手に触れられ、その体温が禁忌であるように振り払うと、若様は一瞬目を丸くし、それから、狼藉をとがめもせずに寂しくほほ笑んだ。
––––どうして向こう岸の桜ばかり見るのだ?目の前にもいっぱい咲いている。ほら、よく見えるだろう?
指差した先では花びらが反り返るほど満開の花が、もうこれ以上は一滴の雨でも耐えきれないような風情でふるえていた。見ていられない。目を逸らす。
––––頼むから。
ここでいちばんえらいはずの人間の、すがりつくような声。
––––遠くを、彼岸ばかりを見ないでくれ。私は……私もお前も、此岸にいるだろう?

口を開こうとしたら、強い風が吹きつけてきた。景色もすぐ傍にいる相手も、言葉も、花に巻かれて見失う。ぎゅっと目を閉じた。

「来杉、風邪引くよ」
呼びかけに、目を覚ます。それが誰の名前か、知らない。けれど真上から覗き込んでいるのは確かに懐かしい顔で、だから、頬に手を伸ばして触れた。その時、人肌は怖くなかった。
「……遠くにあるものは、最初から届かないから」
これは誰の声だ?
「届かなくて当たり前だって安心するから––––」
「来杉?」

鼻先で、見えないシャボン玉が弾けた。ぱちんと、それまで頭の中を占めていた何かを一瞬にして失い、あ、という喪失感さえ次の一瞬で終わった。決して忘れてはいけないものが空気に同化していくのを止められない、寂しさの名残だけが肌寒さと一緒に隼人を包んだ。
「大丈夫か?」
ふしぎそうな湊の顔。そうだ、湊だ。ほかの誰でもない。そんなふうに思う自分がふしぎだった。当たり前じゃねえか。こんな能天気なバカ、この世にふたりといてたまるか。
「来杉、今、何て言った?」
「今って?」
「起き抜けに、何か言ってた。寝起きだったせいかな、何だか来杉じゃない人がしゃべってるみたいで、面食らって聞き取れなかった」
「知らねえ、寝ぼけてたんじゃね」
まったく心当たりがない。ま、何かおかしな夢でも見てたんだろ。覚えてねえけど。あくびまじりに身体を起こし「うわ」と顔をしかめた。全身花びらまみれだ、あのすずめどもめ。

「来杉の上だけ、嵐だったみたいだ」
湊が笑う。
「鳥にいやがらせされるってどういうことだよ」
「むしろ好かれてるんじゃないかな」
「だったら金でも落としてこいっつうの」
服をぱたぱた払っていると、湊が花を一輪をつまみ上げて「あれ」とつぶやいた。
「これだけ違ってないか?」
「何が」
「この花だけ、ちょっと種類が違う。ここのソメイヨシノじゃない。どこか別の場所でお花見した?」
「知らん。どっかでくっついたんだろ」
違うと言われてもその差異もよく分からなかったし、どうでもいい。どこの花がどこからきていようが、そんなもの隼人には関係ない––––はずなのに、湊かそれをそっと手のひらにのせた時、なぜかほっとした。

「きれいだから、持って帰ってコップの水に入れておくよ」
「ひと晩も保たねえだろ」
「いいんだ」
夕暮れに染まる道を、ふたりで帰った。風のない、穏やかな春の日だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?