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~第147回~「江戸時代の氷川信仰」

武蔵一宮氷川神社が記載される現存の文献中、最も古いものは天平神護2年(766年)の『新抄格勅符抄』です。

そこには「氷川神に封戸三戸を寄進する」とあります。

この「氷川神」としての信仰は特に関東地域で篤く、江戸時代には「氷川明神」という名称でも信仰を集め、江戸時代後期成立の「江戸名所図会」には「氷川明神」(元・麻布氷川神社)の記述が見受けられます。 また、江戸・赤坂氷川神社は氷川明神として、紀州徳川家出身の第8代将軍・徳川吉宗公の代に、幕府の信仰が高まりました。 ところで、江戸幕府の将軍は鷹狩りを好み、江戸を中心に5里(約20km)を公儀鷹場とし、後にはその外側10里以内(約40km)を御三家の鷹場に設定していました。 先の紀州徳川家の鷹場は武州足立郡のうち、指扇・大宮・木崎・南部・平方・植田谷・小室・赤山・岩槻・与野・桶川・浦和・大谷にわたる地域にあり、「生類憐みの令」による中止期間を除いて幕末まで続きました。

また、大宮の紀州鷹場は「大宮鷹場」と呼ばれ、現地で鷹場管理を担う鳥見役も「大宮御鳥見」と言いました。 江戸時代の大宮の鷹場に関わる記録としては、当時の神主家の一つである氷川内記が紀州鷹場内での殺生を理由に延宝7年(1679)に神職を追放されたという記録があります。 ※氷川内記は12月10日の「大湯祭」にも関わりがあり、延宝4年(1676)、氷川内記が古来の火剣祭を清祓の儀に改定したとの記録があります。 古代より連綿と、氷川神社が地域や中央政権と関わりがあったことが、江戸時代の記録からもうかがえますね。

〔 Word : Keiko Yamasaki Photo : Hiroyuki Kudoh 〕

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