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「東アジアの思想」という話

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「東アジアの思想」という話-36

「東アジアの思想」という話-36 【唐の女】 《則天武后》 〈傾国の美女〉 唐の第2代皇帝太宗(李世民)は、貞観の治から大唐帝国を築きました。しかし、偉大であればあるほど継ぐ者は大変な労力を強いられます。 第3代皇帝高宗(李治)は若く病弱でしたので、太宗は死に臨み信任する高官に後見を託します。しかし、その高宗が皇后に選んだのは、太宗の後宮にいた才ある美しい女性武照でした。 いつものパターンですと、「前の王朝は、次代の王の幽閉・傾国の美女・諫言者の殺害・豪奢な宴会、次の王

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外出しないのであれば、読み物をどうぞ。 無料ですよ。 【「沈黙」という話/「東アジアの思想」という話】リスト(16+35+号外1)|門松一里 @ichirikadomatsu #note https://note.com/ichirikadomatsu/n/n416e39d84b94

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「東アジアの思想」という話-35

【四知】 後漢の楊震(ようしん)の言葉に「天知る、地知る、子知る、我知る」があります。楊震は博学でしたから「関西の孔子」と呼ばれました。この「関西」とは、函谷関(かんこくかん)から西を意味しています。 また、潔白な人だったので、賄賂を受け取りませんでした。「四知」――「天地の神々も、君も、私も知っている」ので、悪事は露顕するという訳です。 ちなみに、函谷関は要所であり、老子のモデルとされる老耼が尹喜(いんき)という長官に「『道』について語ってほしい」と頼まれ、仕方なく書い

「東アジアの思想」という話-34

【三教】 三教とは、儒教・仏教・道教です。三教一致を諷する「三教図」という画題になっています。孔子・釈迦・老子が並んで描かれるなど、アブラハムの宗教では考えられない構図です。 ただし、儒教の孔子と仏教の釈迦が、それぞれ教祖だというのは間違いありませんが、道教の老子が教祖というのは、仮託です。 cf. 『「東アジアの思想」という話-14』〈道教〉 儒学が、その教学である儒教とそれほど違わないのに対して、老荘思想は、宗教になった道教とはまるで違います。儒教は国教ですが、道教は

「東アジアの思想」という話-33

【仏教】 《中国の仏教》 仏教は、後漢初期には中国に流入していたようです。 儒教は現実的な教えですが、仏教は深遠です。教義も戒律も受け入れやすかったので、中央アジアに広がりました。 儒教は思想や生活まで支配していましたから、積極的な布教はできませんでした。やがて、後漢が衰えるようになり、仏教は中華に根を下ろしはじめます。 仏教は、泥中から蓮の花が咲く宗教ですから、そうした不安や混乱のうちに種が蒔かれたのでしょう。 魏晋では、老荘思想に結びつきます。これは、仏教が中国に

「東アジアの思想」という話-32

【南北朝時代】 《南朝》 南に逃れた東晋のあとの、漢人の四朝(宋・南斉・梁・陳)を南朝と呼びます。対して、北朝(北魏・東魏・西魏・北斉・北周)は異民族です。 〈六朝〉 呉(三国)の首都は建業(けんぎょう)です。東晋のときに建康(けんこう)と名を変えますが、場所は同じ今の南京です。続く南朝も建康を首都にしましたので、呉(三国)から陳までを六朝と言います。 ・呉(222年―280年) ・東晋(317年―420年) ・宋(420年―479年) ・南斉(479年―502年) ・梁

【「沈黙」という話/「東アジアの思想」という話】リスト(16+36+号外1)

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「東アジアの思想」という話-31

【清談】 《党錮の禍》 後漢の桓帝・霊帝のときに、党錮の禍(とうこのか)という事件がありました。儒者でもある官僚が、汚職まみれの宦官による専断を咎めたのですが、逆に弾圧されてしまったのです。党錮の禁とも言います。「党」は派閥で「錮」は禁錮で仕官させないことです。 宦官は、後宮に仕えた去勢男子です。もともとは宮刑になった人や、異民族の捕虜などから採用していたようです。それが後には志望者も任用しました。この時代、医療技術もアレなので、けっこう大変だったようです。 そういえば、

「東アジアの思想」という話-30

【晋】 《西晋》(265年―316年) 魏(三国)に代わって、権臣司馬炎(武帝)が晋を建てます。首都は後漢・魏(三国)と同じく洛陽です。なお、平安京の左京(東京)は洛陽にたとえられ、今でも京都で「洛」が使われています。右京(西京)の雅称は長安です。 ちなみに、紫宸殿の南階下の東方にあるのが「左近の桜」です。儀式のとき左近衛府の官人がその側に列しました。西方が「右近の橘」です。ややこしいですが、「〈さ〉こんの〈さ〉くら」と覚えましょう。 280年に、晋は呉(三国)を滅ぼして

「東アジアの思想」という話-29

【前漢-3】(紀元前206年―紀元後(西暦)8年) 第13代平帝の時、新都侯に封じられた王莽(おうもう)によって、前漢は滅亡します。首都長安が、後漢(東漢)の首都洛陽の西にあたりますから、西漢とも言います。 【新】(8年―23年) 王莽が簒奪し、新を建てました。ですが、すぐに漢が復興し、滅びます。 【後漢】(25年―220年) 前漢の景帝の子孫の劉秀が新を倒して、光武帝となり漢王室を再興します。献帝まで14代196年続きました。 途中、新がありますが、400年あまり続き

「東アジアの思想」という話-28

【前漢-2】(紀元前206年―紀元後(西暦)8年) 《官吏任用制度》 紀元前136年に、第7代武帝は五経博士を置き、儒学(儒教)を国教化しました。 それとともに、紀元前136年に、官吏養成の国立大学「太学(たいがく)」を創設します。世界に類を見ない官吏任用制度の形成です。 漢代以降、優秀な人材を現職官僚に推挙し登用することになりました。 最初は「選挙」でした。とはいえ今の選挙とは違い、官吏候補者を民間から選ぶことを意味しています。 漢代では、郷挙里選(きょうきょりせん

「東アジアの思想」という話-27

【『荘子』の思想的世界-6】 《井の中の蛙》 「井の中の蛙」は『荘子』「秋水篇」からです。「蛙」は、松尾芭蕉の「古池や 蛙飛びこむ 水の音」と同じ読み方です。 意味は、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」の燕雀と似たような感じです。 cf. 『「東アジアの思想」という話-13』【秦】〈陳勝呉広〉 https://note.mu/ichirikadomatsu/n/ndaa8551207f6 「井の中の蛙」は、世間知らずや見識の狭いことです。後半が略されていて、正しくは「井の中

「東アジアの思想」という話-26

【『荘子』の思想的世界-5】 《「明」》 雲外蒼天(うんがいそうてん)――雲の向こう側、遥か彼方は蒼い空です。 北冥の魚の鯤が、鳳(鵬)という鳥に変わり、南冥に羽ばたくとき一切が青になります。 その眼下に、二項対立や区別はありません。 「人がゴミのようだ!」――宮崎駿『天空の城ラピュタ』 もはやすべてのものが、「易」――無窮の変化です。こうした俯瞰(ふかん)した視界――達観したものの見方を「明」と言います。「明」となって、ようやく世界は万物斉同となります。 《胡蝶の