『里恋詩くて・・・熊野・高野』紀伊を愛した怒涛詩人さとちゃんを忘れない【223】2008/9/10~2008/9/15

さとちゃんがYahoo!ブログに書き残した詩や文章
そしてさとちゃんの
紀伊の山里の暮らしを愛する心を記憶するためにろ
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里恋詩くて9/16・青きまま

2008/09/16 里恋日記

一郎
青きまま
と言う記事タイトルがいいなあ
気になる文章 詩は


ひとつ
疼く
秋口
抱いて
いこか

罪とは
さとちゃんにとっては
どんな事があったのだろう
私にも罪と思う事が幾つもある
思い出したくもない事だから
書くことは出来ない
書いてしまえば
あるいは罪の意識が
無くならないまでも
薄くなるのかもしれない
罪の意識が無くならないから
記憶から消え去る事はない
ふとした時に思い出す
思い出しては後悔する
普段忘れていても
どうかした時に思い出す
忘れるなと言わんばかりに
関係ない時に
ふとした時に思い出す
いっそ忘れてしまう事ができたら
忘れない様に
ふと思い出させているようだ
忘れてはいけない事がある
そう諭されているかのようだ
すぐ忘れると言う病気があるようだ
年取ると昨日のことが
思い出せないと言うのは
老化現象で仕方ないとも言えるが
病気となるとどんな感覚だろう
テレビのドキュメントで
観た記憶があるが
メモして目に付くところに貼っていく
今した事を忘れて行くとして
今からする事は分かっているのか
どんな生活が待っているだろう
こうやって日記など書く事が出来るか
どんな愉しみがあるか
私には想像出来ない
左手を動かすと痛みがあって
かなり不自由になっているが
まだ何とか自活出来る
生活も管理出来る
この先ヘルパーさんの
手助けを必要になるかもしれない
70過ぎまで幾つもの「罪」を犯したが
大過なく過ごせたと思う
矛盾している様だが
ある意味 生きていく上で
罪や過ちはついて回るものと
諦めていいのではないか
自己弁護になるだろうが
その代わり忘れ切れない記憶
嫌な思い出として
罪の意識がふとした機会に
思い出されるかも
忘れるなと諭すために
自戒として
記憶の片隅に
普段は
ひっそりと

忘れ切れないと言う事は
忘れ去るよりも
有り難い事なのか

2021/09/15

里恋詩くて9/15・らっきょ青々

2008/09/15 里恋日記

一郎
みごとなまでに
野暮用できて
流れて消えた
それでええんかもしれん


今日のピックアップ
シャボン玉の歌詞みたいな語呂
「それでええんかもしれん」と
受け入れ納得する
なるようになると言う
さとちゃん精神
しかもよりよくなると言う
楽観主義
後段の楽観主義こそ
さとちゃんの真骨頂かもしれない
私にはそう思えないから
より良くなるどころか
より悪くなることが多いと思う
現実にはたとえそうだったとしても
あえて言葉 文章では希望を書く
それがさとちゃんらしさ
楽観主義は大胆さおおらかさとなり
怒涛という言葉となり
詩や記事に登場する
さながら感嘆符のように
そんなさとちゃんを私は
怒涛詩人と名付けた
そんなさとちゃんの人柄に
私は引かれた気がする
面と向かってじっくり話した事はない
ブログでコメントを交換する中で
通じ合う何かを感じた
ほぼ同じ年齢
何かを学びたいと思った
今から10年前の突然の訃報
さとちゃんの死は
私の死でもあった
自分が死んでもおかしくない

さとちゃんが亡くなってからだったか
亡くなる前だったか忘れたが
さとちゃんの詩を残しておこうと
新しいブログをつくって
少しばかり移す作業を始めた
それも途中で休止していると
Yahoo!ブログ自体の
サービス停止が決定
私自身のいくつかのブログをどうするか
その決定を迫られた
そしてさとちゃんのブログもまとめて引っ越す事にした
幸いにも引っ越しには
Yahoo!のアカウントはいらなかった
と言うことでさとちゃんのブログはコメントも残った
そして私は全記事にコメントする目標を立てた
何度も休んで
また思い出して
なんとか最後まで
やり遂げようと決意した
また休む事もあるだろうが
また始めるだろう
なんとかなる
なるようになる
しかもよりよくなると
さとちゃんの言葉を思い出しながら
2021/09/14

今週の観想詩・9/15(月)~9/21(日)

2008/09/15 観想詩1

一郎
いつもは記事の中から
気になる文章をピックアップして
コメントの材料にしてるけど
今回は気になる文章が多すぎて
何度か読み返して迷ってしまった
そんな時はさとちゃんの記事から離れて
思い浮かぶままに書いていこう
でないといつまでも終わりそうにない
と言うことで書き始めた
何を書くか当てはない
もうすぐ夕方の5時になる
出来れば書きものは午前中に済ませ
後は動画鑑賞に集中したいところ
今日は逆にドラマに集中して
書くのが今になった
予定は立てているものの
すべからく思い通りには行かぬもの
だからと言って何も気にすることは無い
なるようになる
なるようにしかならない
そう思えばどうなろうと気にすることは無い
ままよ なるようになれ
さてさて
ドラマは何にハマっているか
以前は韓流ばかりだったが
最近は北京語ドラマ
中国といっても香港や台湾のドラマがあるので
北京語というくくりになっているのか
今観ているのは「王女 未央」
一言で言えば復讐物
次から次に策略で命を狙われるが
主人公の機転で乗り越えていく
そこが見所で毎回ハラハラしながら観ている
安易な設定もあるが
乗り越えた時の爽快感を愉しんでいる
しかし中国ドラマには絵に描いたような美人が登場する
それが愉しみでもある
男優も美男が多い
衣装もセットも豪華
どれだけ金がかかってるかと
心配になるくらい
話しのベースに親子の愛情があるので
泣かされることも多い
韓流ドラマばかり観ていたので
今は中国ドラマが新鮮に思える
なぜか日本のドラマは観る気がしない
恐らくこの先も観ることは無いだろう
YouTube動画も観ているのはファミリー物が多い
何気ない家族の日常を垣間見て
泣いたりしている
ドラマにも動画にも家族の姿に涙している
家族から縁遠かったからだろう
さて当てもなく書いてきたが
出来ればもう一つ書きたいことがあるので
今回はこれで終わろう
何とか意味ないことでも書いたので良しとしよう
2021/09/13

里恋詩くて9/12・ウドの花

2008/09/12 里恋日記

一郎
★思い通り

  思い通り

  いかない

  いかない

  いくわけがない

  わがまま

  気まま

  なのだから


思い通りにいけば
どんなにかいいだろう
さとちゃんが書いているように
「いくわけがない」
それが現実
そこで人はもがき悶え苦しむ
大金持ちが居たとして
彼は思い通りに出来るか
ある意味金は万能
かなり思い通りに出来るだろう
しかし
かなりという限定的でしかないはず
なぜなら
人の欲望は満足を知らない
欲望はキリが無い
だから思い通りにいく
思い通りに出来るのも
キリが無い
次の欲望のトリコになる
悲しいかな人は
欲望の奴隷
足ることを知らない
憐れな生き物
なまじ金が有る者は
金が有る故に
果てしない欲望に
取り憑かれる愚者となる

愚者を検索して
今知ったことがある
タロットについては全く知らない

カードの意味
正位置の意味
自由、型にはまらない、無邪気、純粋、天真爛漫、可能性、発想力、天才。
逆位置の意味
軽率、わがまま、落ちこぼれ、ネガティブ、イライラ、焦り、意気消沈、注意欠陥多動性。

カード番号は「0」
と言うのが
わたし的には意味深い
かなり我田引水になるが
大金持ちを愚者とすれば
「0」的存在
持てる者が「0」
無に等しい
金によって思い通りになる事も
全ては無になる
限りない欲望
果てしない願望故に
叶えられた思いも
全ては刹那
無に帰す
「0」の世界の皮肉

持たざる者は賢者なり
もしくは賢者になりえる
タロットカードでは
隠者というのが
賢者のことらしい
隠者と呼ぶのも意味深い
なぜ持たざる者が
賢者になり得るか
それは欲望から自由
解放される身になり得るから
なまじ金があるから
欲望の無限ループに陥る
願望に取り憑かれる
「0」になる覚悟があれば
持たざる者と同様に
欲望から解放され
自由になる道はある
持たざる者が賢者とは
持たざる故に
欲望からほど遠い
故に自由
何故なら
妄想という武器を有しているから
叶わぬ夢 欲望が
全て叶えられる
「0」は「有」の世界

自己慰めの言葉遊び
あるいはこれが
隠者の世界かも知れぬ
2021/09/11

里恋詩くて9/11・タラの木

2008/09/11 里恋日記

一郎
画像はタラの木の花
タラと言えばいくつか言葉が浮かんで来ます
「たられば」「タラちゃん」
「たらふく」「ジャガタラ」
たらふくとは?
語源由来辞典によると

たらふくの語源は、「足りる」や「足る」など、「十分になる」意味の動詞「足らふ(たらふ)」に、副詞語尾の「く」が付いたものとされる。
当て字に「鱈腹」が使われた由来としては、「タラの腹」が関係している可能性はあるが、たらふくの語源を「タラの腹」とするのは間違いである。

普段何気なく使っている言葉も
こうして改めて調べてみると
思いがけない発見がある
それでは
ジャガタラとは?
コトバンクから引用

ジャガタラ【咬𠺕吧】
[1] (Jacatra から) インドネシア、ジャワ島のジャカルタの古称。 また、ジャワ島の日本近世以来の呼称。 ... ジャカルタ(Jacarta)はそのオランダ語名。

私は戦後生まれだが
ジャガタラお春・・・と
歌を口ずさんでいた
そこだけしか歌詞が浮かんで来なかったが
調べてみると渡辺はま子さんの
長崎物語だった
歌詞を見て 歌い出しから思い出した
じゃがたら文をもとにした歌らしいが
お春さんのことなど
調べるとまだまだ新たな発見がありそう
今思い浮かんだ言葉が
でたらめ・・・出鱈目
例によって語源由来辞典によると

でたらめは、江戸時代末期頃より使われている言葉である。
漢字の「出鱈目」は当て字なので、でたらめの語源と魚のタラとは関係がない。
語源は未詳だが、「目」はサイコロの目をのことで、賭博の隠語に由来する説がある。
「サイコロを振って出た目のままにする」の意味から、行き当りばったりなことを「でたらめ」と言い、いい加減な言動も意味するようになったというものである。

たらについて思い浮かんだ言葉で
気になるものを調べてみて
色々興味深かったが
実はさとちゃんの記事から
ピックアップして書こうと思っていたのは
以下の記述

老化
さけて通れない
足に来た
芽にも来た

腕にも来た・・・とわたし事につなげたかったが
たらの関連語調べが
意外に面白かった
それに腕の痛みについては
少し前に書いたことを思い出した
引用が多いだけのコメントになったが
これは1万字日記にチャレンジしていた時の
ズルイ長文の方法
根がズルくいい加減な性格が出ている
スマホを持っている左手が痛くなった
そろそろ終わりましょう
2021/09/10

絵手紙・ピオーネ狩り

2008/09/10 絵手紙記

一郎
「ピオーネ狩りに9/7行ってきました。かつらぎ町。紀ノ川をながめながら、、、。」


ピオーネで思い出すのは
長年同居していたふしこ姉さんの実のお姉さんのこと
兵庫県三田で農家に嫁いだが
子供はいなかった
何度か訪ねてご主人も知っている
ご主人が先立たれ
一人で暮らしていた
まだまだ若い頃には
京都に買い物に来るのを楽しみにしていた
ふしこ姉さんは一日買物を手伝いデパート巡り
ふしこ姉さんを始め長女長男は背が高く
次女の三田のお姉さん一人 背が低かった
何年前だったか ふしこ姉さんが寝たきりになってから
もしかしたからこれが最後の帰省になるかと
丹波篠山近くの実家の墓参りに行った
その時 先に三田のお姉さんの家に寄り
一緒に実家の墓参りをした
実家は長男・・・と言っても私と同じ末っ子だが・・・のお嫁さんが一人守っている
長男が存命中は毎年 お盆過ぎにふしこ姉さんと一緒に帰省していた
そこに三姉妹も揃っての墓参り
それが長女が亡くなり
長男が亡くなり
最後の帰省となってしばらくして次女が亡くなった
ふしこ姉さんはその後
二年前に亡くなった
ふしこ姉さんの親戚との縁もそれで終わった
次女のお姉さんとの思い出の一つがピオーネ
その季節になると必ず三田から送られてきた
それと私が甘党だからと俵最中と

車椅子に乗っての不自由な帰省だったが
思い切って出掛けて姉妹で墓参り出来た
それが最後となったが良かったと思う

2021/09/09

里恋詩くて9/10・さつまいも

2008/09/10 里恋日記

一郎

・・・・ひさしぶりにさと川柳を

   ★芋くえばオナラも秋やふかしてる


川柳や風流とは無縁です
まったくと言っていいほど
面白みに欠けた人間
自分でも嫌になります
グチを書くのは嫌で飽き飽き
ヘキヘキしてるのですが
流れでどうしても書いてしまいます
ホントに嫌なのですが
さとちゃんは毎回川柳を取り上げています
見た目もおっとりした体型で
おおらかという印象
人は外見では分からないものですが
文章でも分かるように
いかにも川柳が似合うお人という気がします
私がネットを始めたのは
メルマガの存在を知ったこと
何か自分から発信したい
そういう思いからでした
何を発信するかは
まずネットやパソコンに慣れてからと
チャットにハマりました
MSNコミュという今で言うブログみたいなのがあり
そこでhtmlタグを覚え
ホームページつくりを始めました
メルマガも同時に始めましたが
それは人の小説の発行を
代わりに手伝ったもので
自分がしたい内容ではありませんでした
自分が何をしたいか手さぐり状態
人様の休止している掲示板に居候して
日記代わりに花言葉や
花にまつわることを書いていました
そうしているうちに自然と
花を短歌に詠むようになりました
なぜ短歌だったのか
考えた事がありましたが
たいした理由は無く
俳句より長く
詩より短い
ちょうどいい長さに思えたようです
そしてその後
短歌と言えば石川啄木
啄木の歌をなぞるようになります
なぞるというか倣うというか
彼の歌集を読み
その歌をヒントに
自分の歌を詠む作業
それをメルマガにしました
花の歌と啄木の歌との二本立て
充実した時間だったと思います
次のステップを考えて
過去にはこだわるまいと
そのメルマガは削除
それが良かったかどうか
結果は二つのブログをスタートする事になりました
今は休止中ですが
かなりの期間続けました
万葉集を詠む
それぞれの一握の砂

ネット生活は20年を越えましたが
なにやかやと手を出してはやめ
そのくり返しで今に至ります
毎日更新しているムラゴンのブログとTwitter
このコメントがいまやってる作業
この経過などもコメントで何度か書いた気がします
これからも同じことを何度も書くでしょう
それは年寄りの習い性でしょうね

さとちゃんの川柳を取り上げたので
私も川柳を書こうと始めたのですが
面倒くさくなってきました
お昼を回ったことですので
ここらで終わる事にします

2021/09/07

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