見出し画像

日本の至宝、指揮者小澤征爾氏、追悼。

中山市朗です。

『Dark Night Vol.50』の記念公演のお知らせ、と言うところでしたが、明日にします。
元ツィッターXに、投稿されていますので、そちらで。


小澤征爾さんが亡くなりましたねえ。
88歳。
車椅子生活をしていらっしゃって、少なくとも指揮をするのはもう無理なんだなあとは思っておりましたが。

1986年、ボストン交響楽団を率いての大阪公演。
NHKで放送された、リヒャルト・シュトラウス作曲の交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を指揮する姿に惚れ惚れして以来のファンでした。
作品を解釈して、オーケストラを統率して、いい音楽を引き出す。
この動画を観ると、指揮者とは何かがわかります。


天才がおりました。
映画界の黒澤明。作曲家の武満徹。そして指揮者の小澤征爾。
小澤征爾という人は、まだ西洋音楽(特にクラシック)がまだまだ日本では未熟で、世界に通用していなかった1959年と言う時期に、スクーターとギターをもって貨物船に乗り込み、単身でマルセイユに上陸。スクーターに日の丸をつけて、パリを目指したと言います。22歳。
パリへ行くと、ブザブソン国際指揮者第一位、カラヤン指揮者コンクール第一位、翌年アメリカのバークシャー音楽祭でクーセヴィッキー賞受賞と頭角を現し、カラヤン、バーンスタインの両巨頭に弟子入り。永年の関係を築きました。

そして若くして、欧米の有名、名門オーケストラを次々と振っていきました。
1961年にNHK交響楽団の指揮者として迎えられますが、何が原因となったのか(諸説あります)、NHK交響楽団員が小澤との演奏をボイコット。辞任となります。
「もう日本では指揮をしない」と、活躍の場を海外に求め、ここから世界の小澤が出発します。
1964年、急遽シカゴ交響楽団の音楽祭の音楽監督をまかされ、成功。RCAレコードというメジャー・レーベルのレコード会社から、初めて日本人指揮者によるクラシック音楽が世界に向けて発売されました。


同年、カナダのトロント交響楽団の音楽監督。この時日本公演があってNHKのラジオ中継があったそうですが、小澤征爾指揮、というアナウンスは一度しかなかった、といいます。
しかし、1966年名門ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にデビュー。1970年サンフランシスコ交響楽団の音楽監督。
1973年、アメリカでも名門中の名門、ボストン交響楽団の音楽監督に就任。29年間、この座を務め、その間、ベルリン・フィルハーモニー、ウィーン・フィルハーモニー、パリ管弦楽団、バイエルン放送交響楽団などで活躍。2002年、ついにウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任します。

ともかくね、野茂が大リーグに挑戦して成功したとか、イチローが大リーグで旋風を起こして首位打者を獲った、と騒がれましたが、ヨーロッパの伝統あるクラシック音楽界で、とっくの前にそれをやった人、なのですよ。

そして、ウィーン国立歌劇場の音楽監監督。
歌劇、つまりはオペラですな。
ヨーロッパの芸術における頂点はオペラなんです。美術的要素、演劇的要素、音楽的要素の融合。
そしてオペラの頂点がウィーン国立歌劇場。また、ウィーンは音楽の都でもあります。
その頂点に立ったのが、日本人指揮者。こりゃ凄いことです。
ポストは一つしかないので、これはアメリカのアカデミー賞を獲ることより遥かに困難なことで、小沢さんがこのポストに就いたとき、オーストリアの人たちが「オーストリアの大統領になるより凄いこと」なんて言っておりました。
ただ、したり顔の日本の音楽通をきどっていたエリートの人たちの中には、「小澤はウィーン気質がわかっていない」とか「まだまだ解釈が未熟」とか言っておりました。どこにでもいますな。
黒澤明と言う人も、日本の映画関係者からは不人気で『影武者』で、コッポラやルーカスが協力したことで、やっとその偉大さが理解できた、ということもありました。

とにかく私は、1986年以来、ずっと私は小澤ファンでありました。
私はドイツ音楽が好きなんです。モーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナー、ブラームス、マーラー(この人はユダヤ系ですけど)、ワーグナー。小澤さんの指揮するドイツ音楽は、必ずしも相性がいいわけではなかったと思いますが、時には物凄い演奏を聴かせて、聴衆を魅了するカリスマ的な面がありました。フランス音楽、スラブ音楽は、小澤さんの得意とするところ。音色が豊かですからね。シェーンベルグやストラヴィンスキー、武満徹といった近代音楽の解釈も小澤さんの独壇場といってもいいほどでした。
豊かで透明色のような音。小澤さんの演奏はそんな感じ。

小澤さんを生で聴いたのは、2000年、ウィーン・フィルと来日した時。
ブラームスの交響曲第一番と第四番。
サントリーホールで聴いたあの繊細かつ迫力ある演奏は、生涯忘れない事でしょう。
演奏終了後のウィーン・フィルのメンバーも、満面の笑みを浮かべておりました。

また、小澤さんがいきなり世界の音楽界で成功した礎は、指揮者で音楽教育家であった斎藤秀夫さんの教育の賜物と、本人も認めていて、1981年に教え子たち100人が、桐朋学園斎藤秀雄メモリアル・オーケストラが結成されました。そして年一度の演奏会を実施。サイトウ・キネン・オーケストラと名を変えて、1987年のヨーロッパ・ツアーが大好評となり、後に8、9月のセイジ・オザワ松本フェスティバルで、その演奏が聴けました。ただ、この数年は小澤さんは振ることが出来ず、代わりに去年は『スター・ウォーズ』の作曲者のジョン・ウィリアムスが自作の指揮をしておりました。
また小澤さんは、満州の奉天で生まれたとのことで、中華人民共和国の人たちにも愛された音楽家でした。
1978年、鄧小平が小澤さんを北京に招いています。
小澤さんは日中国交の文化の面で貢献し、文化大革命以来禁止されていた西洋のクラッシック音楽を演奏しています。

まあ、書きたいことが山ほどあって、きっとまとまりのないことをブログに書いていると思います。実は気持ちの整理がついておらんのです。
また、思うことがあれば小澤征爾さんについて書かせていただこうと思います。

心よりお悔やみ申し上げます。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?