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梅雨になって社会派になる日々

はじめに、今回の熊本九州豪雨についてご冥福と皆様のご平安をお祈りいたします。

ちょいと頭がやばいお話です。
句読点なく、説明語多く、おかしいので読みづらいです。(気が向けば修正したいと思います。)

社会派になった脳の最近の事象の雑感をメモ書きの様に書き留めておきます。

たまたま、狭山の古城の近くで農地を借りているご縁で、川越城へ見学に行ったタイミングだったので、地政学と歴史についての本を数冊読み込んでいたところ水害がありました。

先週末は都知事選もありました。

社会派な脳みそについついなってしまい、先ほど、ふと検索した言葉は、「川辺川ダム 反対 原因」でした。社会派シンプルヘッドが検索しそうなワードです。

何か発見があったかというと、色々な検索結果の中に、長野県知事時代の田中康夫さんによる「脱ダム宣言」という記載があった事です。

私の容量少ない脳に受験勉強で暗記を無理矢理して単語をギュウギュウに押し込んだので、いまだに脳壁に無意味に単語がこびりついているのでしょうか。リズムとメロディを伴って、「ポツダム宣言」というリズムで「脱ダム宣言」と呼んでしまいます。こういうのも受験勉強トラウマとかいうのでしょうかね。

今日のnoteはこの事(ポツダム宣言と脱ダム宣言の発見)をメモしておきたかったので、以外の文章はおまけです。


音楽好き、音楽(特に往年から現在までのポップミュージックとその周辺)の力(癒しと気力)を信じているわたしとしては、日本における選曲家(AOR、シティーポップ)の第一人者にして一級品の先見性とコピーライト力を持つ田中康夫さんの「脱ダム宣言」は語呂が良すぎると感じてしまうのです。

この「脱ダム宣言」という響きがその後の治水政策に影響したのか、数値化できるはずもありませんが、そういう響きの効果が今回の件に帰結したかどうか。

語呂がいい社会派なワードが日本国の主体たる国民の大多数に無意識的な効果を及ぼす可能性について、この国の国民が持つ音楽に対する韻律や諧調のトラウマともいえる子守唄から始まり、小学校での合唱や地域放送(夕方に流れるやつ)、その時代時代のテレビ(もしくはラジオ)コマーシャルが織りなす重厚でなのに軽くていつもは忘れてるという国民的集団心理現象が、治水政策の歴史の一地点に浮き上がったように感じられ、キャッチィな社会派ワードの破壊力はすごいのかもしれない。と思う今日この頃です。

コロナもありました。
コロナは「コロッナ♬」というガス湯沸かし器メーカーのコマーシャルが音楽付きで(昔のくぐもったような男性の製品説明の音質とともに)脳内にながれてきますし、

首都直下型地震も来る来ると言われてきました。
東日本大震災よりもう少しで10年。試験放送で流れる地域放送の緊急地震速報の不安定な大音量があの巨大な拡声器のようなスピーカーからリアルに音が不協和音になって周波の形でその瞬間だけ虚空のような雰囲気を纏った空という空間から耳を伝って心の色々な不安によって日々緊張しダメージを負った部分に直接伝播してくるような、聴いた時にビクっと反射してしまうような感覚とか。
各個人の携帯が一斉に緊急地震速報を知らせるアラームを出す瞬間とかもトラウマですね。

埼玉ですから、昨年夏の埼玉補選の「NHKをぶっ壊す」もありました。

私が小学生の時は麻原彰晃の歌(色々バージョンがありました)をよく歌ってました。

子供って、絶対的な正義(おまわりさんや消防士さん、戦隊ヒーロー)と絶対的悪(泥棒とか火事とか事故とか悪役とか)に意識が行くのとは別に「胡散臭いもの」にもすごく触覚が立つというか、それが社会をこれから生きてく上でのリテラシーを学ぶ機会の部分なのかなと思いますが、そういう子供時代に持っていた嗅覚を成人して社会に出てからも持ち続けグレーな部分の分別をして渡世するのが青年期であって、壮年期老年期にはそれを良くも悪くも全て飲み込んで構える姿を後世に魅せてリレーしてゆくのではなかろうか。と、胡散臭さへの感度の変遷について考えてみたり。

選挙や政治について、農家仲間と雑談することも多くなり、それならと少しずつ社会派な事に興味を持って調べたり考えたり、(国行く末など)畑の作業中にボヤーっと考えてみたりしていますが、政治の話というのは要はその「胡散臭い」のがどこまで許容できるのか。ということかなと思います。現実的な(もしくは理想的な)個人的にも社会的にも。

潔癖性な正義、極端な悪を是とする人も多くいらっしゃると思うけど、平和を望むなら、敵を愛する以外に方法があればと考える日々です。(愛するまでいかなくとも好きになる程度でも)

平和が絶対的に良いわけではなく、闘争心と逃走心ふたつの内圧は各個人各社会が高めておくことはアリだと思う。というか自然にそうなる筈ですが、西欧や中華文明が牛を去勢して御したように、(地政学の本によれば、日本文化では去勢せずに、家族の一員として受け入れてしまったが故に、去勢されていない牛は荒っぽく、統率がとりづらく、「牛車」と言う文化が一般的に広まらなかったので、明治になるまで車輪に、適した平坦な街道と言うものは発展しなかった)去勢されて覇気が無いという説が定説になりつつある日本人ですが、どんなに去勢されてると言われてても目がヤバければ大丈夫かなとも思うのです。目。メガやばい。

折しもユッキーナ芸能界引退と、佐々木希とギャル雑誌ピンキー時代にメンチを切った記事を読んで、ユッキーナが「あいつの目はやばい」と言ったとか言わなかったとか。

目がやばい奴の、内圧がどうなっているのか?内圧がすごくある、少しある、全然無い。けれどもそこに費やした内圧を飼い慣らす抑止力を練る時間と労力があれば、日本人は、日本は、社会は、個人は政治は大丈夫なんじゃ無いかなと思うんです。

一人一人が選挙に行こう。
とかではなくて、一人一人が目がやばい奴になろう。そしてお互いのヤバい目を、その相手の目を通して目では見えない大切な世界のいろいろなことを心の目で見つめてみよう。

そんなことを考えてみたりしている今日この頃です。

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