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ますく堂読書会レポート「加藤シゲアキ『チュベローズで待ってる』読書会」(冒頭部を抜粋)

※この記事は、加藤シゲアキ『オルタネート』直木賞ノミネートを記念して、また、「テキストレボリューションEX2」にあわせて復刊される『ますく堂なまけもの叢書④自称読書家たちが加藤シゲアキを読まずに侮るのは罪悪である』のメインコンテンツ、加藤シゲアキ『チュベローズで待ってる』読書会レポートの冒頭を公開したものです。

※『チュベローズで待ってる』(扶桑社)のストーリー展開・結末に触れている部分があります。ネタバレであると感じる方もおられると思いますのであらかじめご注意ください。

※本稿及び本誌においては、加藤シゲアキ作品について、かなり厳しい批評が行われています。また、「アイドルが小説を刊行する」という行為に対し、厳しい目を持った参加者もおられました。そうした方の発言、視点も、忖度なく、そのまま掲載しています。そのため、加藤さんのファンにとってはショックを受けられるような内容も含まれているかもしれません。大変恐れ入りますが、本記事に触れる際、また、『ますく堂なまけもの叢書④自称読書家たちが加藤シゲアキを読まずに侮るのは罪悪である』をご購読いただく際には、そうした点を事前にご承知おきいただければ幸いに存じます。


ツイッター文学賞、八年目にして
NEWSファンと相見える


益岡 本日は加藤シゲアキ『チュベローズで待ってる』(扶桑社)読書会にお集まりいただきありがとうございます。
この会は、この作品がツイッター文学賞を受賞したことを記念して開催させていただくのですが、このツイッター文学賞と今回の受賞経緯について、最初に触れておきたいと思います。
ツイッター文学賞というのは、ツイッターのアカウントを持っている人ならだれでも投票できる、人気投票で受賞作が決まる文学賞です。毎年二月くらいに、前年に刊行された本の中で自分がいちばん面白いと思ったものを国内海外一作ずつツイッターで投票してもらって、三月頃、投票結果発表&授賞式イベントを行うというスケジュールで運営されており、今回で八回目となります。
ただ、この賞は一般にはそれほど認知されていないんですね。毎年、三十~四十票で一位が決まる。本当に、本以外はほとんど買わない、というような本のヘビーユーザーたちが細々と楽しんでいた、そんなアットホームな賞だったわけです。
たとえば今回、第二位の佐藤亜紀さん『スイングしなけりゃ意味がない』(KADOKAWA)は七九票です。第二位の得票としては異例といえるほどの高水準で、これは『チュベローズ』の圧倒的得票に対する反動というか、ヘビーな本好きたちが対立候補の一本化に動いた結果(笑)なのかもしれませんが、例年ならばそこまで票を集めなくても受賞できる、そういった賞です。これは馬鹿にしているわけではなくて、だからこそ、投票者にとっては一票の重みが感じられて面白いというような側面があるし、ミステリー系のランキング本などでは話題にならないような純文学作品であるとか、文学よりのエンタメが票を集める傾向があって、本好きの中では独自の地位を築いてきたわけです。ちなみに前年の受賞者は同じく佐藤亜紀『吸血鬼』(講談社)。こちらは三二票での受賞で、この年は大変な接戦でした。第二位の川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』(講談社)が二九票、三位の堀江敏幸『その姿の消し方』(新潮社)が二八票、四位の恩田陸『蜜蜂と遠雷』は直木賞と本屋大賞をダブル受賞しますが、こちらが二七票。上位四作が五票差の中でひしめく大混戦は、ツイッター文学賞はじまって以来の名勝負で、僕はとても興奮したのですが、その次の年に今回の騒動が起こった。
要は、この細々とやっていたアンダーグラウンド的な営みが、NEWSファンに見つかってしまったわけです。加藤さんはすでに四冊、本を出していましたから、これまでだって票を集める可能性はあったわけですが、今回はじめて、ツイッター文学賞と加藤シゲアキが結びついた。結果、三二三票という過去最多得票で『チュベローズ』は受賞作となります。
ただ、これが加藤さんの真の実力かといえばそんなことはないんです。加藤さんのファンが、ツイッター文学賞への投票を呼び掛けた結果、その輪が広がって、一気に、アイドルとしての加藤さんのファンからと思しき票が集まったわけですが、この賞は設立当初から意図的な組織票を控えるよう呼び掛けて来た。ファンの多い有名作家が自作への投票を呼び掛ければ、それだけで受賞が決まってしまうおそれがある。そういうことはやめましょう、という……実際には、そこを厳密にジャッジするのは難しいわけですが、あまりに大っぴらに組織票をあおるような人がいる場合には、運営側が注意するというような光景は今までにも度々見られたことでした。
今回は、そうした歴史を知らないファンの方が、純粋に加藤さんを応援したいという気持ちで投票を呼び掛けた。その結果、『チュベローズ』は、投票期間のかなり早い時期に圧倒的な票を集めてしまって、それを受けて色々な動きがあった。賞の発起人である書評家の豊﨑由美さんと投票を呼び掛けた方のあいだでも対話があったとのことですし、加藤さん自身も、ファンの方しか読めないような公式の場所で、組織票への注意喚起を行った。その結果、むしろ「三〇〇票程度でとどまる」という形で事態が収束したというのが僕の認識です。
授賞式イベントにも参加したのですが、この加藤さんの受賞については運営側もなんのわだかまりもない、と表明しています。加藤さんは既に何冊も本を出している作家であるし、投票を呼び掛けた方とも対話して悪気がなかったことはわかっている、と。
実際、運営側は毎年、「今年はそんなに冊数を読んでないから投票できない」という方に、「たとえ一冊しか読んでいなくても、それが面白い、人に勧めたいと思える本ならば投票してほしい」と呼び掛けているんですね。それに照らせば、加藤さんのファンが、「普段は小説を読まないんだけど、加藤くんが出した本だから読んでみて、本当に面白かった!」という感動を持って投票することはむしろ素晴らしいことなわけです。登壇者の大森望さんは「こういうことが起こるのは賞の性格からしてむしろ自然なこと。何年かに一度、こういうことが起こった方が面白い」といった旨の発言をしていましたし、加藤さんを作家デビュー当初から追いかけている文芸評論家の杉江松恋さんも「本当に色々なものが書ける作家になってきた」と加藤さんの作家としての成長を解説するなど、加藤さんの受賞自体については肯定的で、集まったお客さんも今回の結果を暖かく称えているといった雰囲気でした。
それでも、個人的には、「後味が悪いわけではないけれど、いいわけでもない」というような印象が残りました。というのは、例年、ツイッター文学賞を受賞した作品については出版社側も相応の対応──たとえば、受賞を知らせる帯を新しく作って展開する等──をとるのですが、今回、僕が目にした範囲では扶桑社にそうした対応は見られなかった。授賞式には担当編集者の方が出席されて受賞への感謝を表しておられたので、喜んでいないわけではなくて、単純に受賞に対する世間の反応(ジャニーズだから、ファンが投票しちゃえばとれて当然、といったような否定的な意見)を見越した対応だったと思うのですが、僕はなんか、この点が残念というか、「ちゃんと喜べばいいのに」と思ったんですね。
というのは、最近のいわゆる「芸能人作家」ブームと、加藤さんの作家活動はちょっとちがうものという印象を、僕が持っているからなんです。
ある意味では、最近のブームの方が異例なのですが、基本的に芸能人の作家活動は、いわゆる文壇とは無縁のところにあった。作詞家とか、美術家とか、「文化人」ならまだしも、タレントや歌手や芸人が発表した小説が芥川賞や直木賞の候補になることはなかったわけです。
それが、又吉直樹さんの『火花』(文藝春秋)の芥川賞受賞によって変わってきた。一般的にはわかりづらいですが、又吉さんのケースはちゃんと芥川賞のルールに則って受賞に至っているんですね。芥川賞は原則、純文学のみ掲載する文芸誌(文藝春秋の「文学界」、新潮社の「新潮」、講談社の「群像」、集英社の「すばる」、河出書房新社の「文藝」が代表格)の掲載作品から選ばれるというルールがあります。三島賞、野間文芸新人賞といった芥川賞以外の文学賞の規定はもう少し緩いですが、それでもこの基本に則って候補作が選ばれていきます。又吉さんの作品は「文学界」に掲載されたものですから、いわば初めから賞レースに参加させることを前提に執筆依頼をしたという図式が読み取れる。もちろん、又吉さんはそれまで何年にも渡って、書評や本に関するエッセイを発表するなど、文筆家としての活動実績があったわけで、しっかりとした準備期間というか、背景があっての受賞だと思っていますが、最近は、又吉さんのような執筆期間を経ずに、この施策を経てデビューする芸能人作家が増えているように思います。
具体的にいえば、従来ならば芸能人の小説は書き下ろしというかたちで初めから単行本として発表されていましたが、一度小説誌に発表してから単行本にするというような流れが多くなったように思います。他にも、エッセイや書評などを文芸誌で一、二度発表してもらって、その前後に小説を刊行するというような、「芸能人が小説を出した」というよりは、「執筆活動を続けてきた芸能人が初めての小説を発表した」というようなプロモーションが行われるようになってきた。「芸能人から作家にする」というプロセスが、小説を出版する前に一段階、加わった感じがしています。
では、加藤さんは従来型なのかといえば、そうとばかりも言いきれないところがあって、たとえば水嶋ヒロこと齋藤智裕さんの『KAGEROU』(ポプラ社)は大ヒットとなりましたが、彼はそれ以降、小説を発表していません。芸能人の作家活動はこういうケースが多い。大きな話題になってその一冊は売れるけれど、後が続かない。そのまま作家であったことも忘れられてしまう。
それに比べると、加藤さんの作家活動ははっきりいって地味です。もちろん映像化はされているし、売れてもいる。ヒット作家といったって構わないでしょう。でも、水嶋さんのときのような社会現象になるような売れ方はしていない。それでも、この『チュベローズ』で五作目。デビュー作『ピンクとグレー』(角川文庫)の発表は二〇一二年ですから、多作とは言えないかもしれないけれども、ジャニーズのアイドルとして第一線で活動する加藤さんがコンスタントに小説を発表していることは、特筆すべきことなのだと思っています。
それでも、加藤さんの作品が賞レースの俎上にあがることは難しい。又吉さんのようなプロモーションがされていなければ芸能人の小説は文壇にとって未だに「下手物」です。純文学ではなく、エンターテインメントであるということも加藤シゲアキ作品が「受賞作」となることを難しくしているような気がします。純文学の賞のような「原則」がないエンターテインメント系文学賞は、自由に見えますが、踏むべき段階が明確でないために候補作となることへの「納得性」を得ることが難しいともいえる。ジャニーズのアイドルというだけで侮られる向きもあるでしょうし、たとえ候補作となっても偏見や批判の声が大きければ、加藤さんの芸能活動全体にとってもプラスにはならない可能性も高い。
そうした諸々の事情があって、加藤さんが既存の文学賞を受賞するのは難しいと僕は思っていました。だからこそ、今回のツイッター文学賞のようなアンダーグラウンドな賞でなければ授賞できなかった作家なのではないかと思い、個人的にはこの結果は嬉しかったんです。いや、加藤さんの作品はそれまで読んだことなかったんだけれども(笑)、それでもツイッター文学賞ファンとしては、大きな仕事をしたんじゃないかと、むしろこの賞を誇らしく思ったんですね。
そんな話をこのますく堂で駄々猫さんとしたところ、「読書会やろう!」となった。「この受賞を誰かが騒がなければいけない!」という使命感と、なにより「このままでは私たち、一生、加藤シゲアキを読まないよ!」と盛り上がりまして、本日の読書会開催に至ったという経緯でございます。
今回はいわゆる「ジャニヲタ」の方から、「アイドルがその人気だけで本を出すなんて許せない!」と闘志を燃やす作家志望者(笑)まで、幅広いバックグラウンドを持つ皆様にお集まりいただきました。
萬澄 本当は、ピンポイントで「NEWS大好き! 加藤くん大好き!」というファンの子に来てほしかったんだけど……
益岡 うん。でも、あなた、「もしそんな子が来たら私たちどうするの? 褒めざるをえないじゃん」とかって心配してたじゃない(笑)
萬澄 ええ。幸い、そんな心配はなくなりましたから、遠慮なく、お話したいと思います!
益岡 どんなお話になるのか、とても楽しみです(笑)


作家・加藤シゲアキ初の大長編
『チュベローズで待ってる』を読む


益岡 それでは、ここからは参加者のみなさんに『チュベローズで待ってる』の感想を中心に、加藤シゲアキさんについて思うところ──彼の所属しているアイドルグループNEWSやジャニーズ事務所のことなどなんでも結構ですので、順に語っていっていただいて、そこから話題を拾いながらフリートークへ繋げていきたいと思います。
まず、僕から話していこうと思うのですが、今回、この会を開くにあたって加藤シゲアキさんが発表した小説を全部読みました。『チュベローズ』以前に加藤さんはKADOKAWAから、『ピンクとグレー』『閃光スクランブル』『Burn.─バーン─』という渋谷を主要な舞台として芸能界を描いた三つの長篇と『傘をもたない蟻たちは』という奇妙な味系の短篇集を発表しています。結論から言えば、この四冊はどれも素晴らしかった。残念なのはそれによって今回の課題作である『チュベローズ』の印象が霞んでしまったことなのですが(笑)僕は特に、〈渋谷三部作〉とでもいうべき長篇群はすばらしい出来だと思っています。文章自体は作者独特のこだわりがあって、時折首を傾げたくなるような表現もあるのですが、どの作品もかなり練られた構成で、『ピンクとグレー』などは海外文学との親和性を感じさせるような、非常に凝ったつくりになっています。海外文学好きであるとか、小説のヘビーユーザーを自覚する人にこそ、丁寧に読んでほしい作品群だと心から思えた。
これらの既刊は僕に、加藤シゲアキを「ずっと追いかけて行きたい作家」だと思わせてくれました。今後は「作家・加藤シゲアキ」を、敬愛をこめて「シゲ」と呼んでいこうと思っています(笑)
萬澄 益岡さんの「シゲ愛」はわかりましたけれど、それで、肝心の『チュベローズで待ってる』はいかがだったんですか?
益岡 うん……僕の感想の前に(笑)この小説の概要について触れておこうと思うのですが、この小説は二部構成になっていて、『AGE22』と題された上巻と『AGE32』と題された下巻に二分冊されています。
上巻は就職活動に失敗して自暴自棄になっている主人公・金平光太が新宿歌舞伎町でカリスマホストの雫に出会い、その誘いでホストクラブ「チュベローズ」に入店して人気ホストとなっていく姿が描かれます。
下巻は光太が熱望していたゲーム制作会社「AIDA」に就職し、人気ゲームを手掛けた売れっ子クリエイターとして成功しているところから始まります。人気ゲームのアップデートという重要プロジェクトをめぐる紆余曲折や、年上の恋人で彼の挫折と成功を導いた女性である斉藤美津子の秘密を探っていく中で、彼が辿った十年間の後ろにある隠された物語が明らかになっていくという構成です。
上巻は正直、「あまりうまくない石田衣良」みたいな小説だなと思いました。
トット ああ、IWGP※的な(笑)ちょっと、映像化ねらっちゃうぞ、みたいな色気は感じられましたよね。(※直木賞作家・石田衣良のデビュー作から続く大人気シリーズ、〈池袋ウエストゲートパーク〉のこと。池袋西口公園をメインの舞台としてフリーライターでトラブルシューターの主人公・真島誠の活躍を描く。)
益岡 上巻の大ボスとして、「チュベローズ」を圧倒的なカリスマ性と暴力によって支配するオーナーの水谷が登場するのですが、最初の内こそ、その凶暴性と冷徹さが際立つものの、徐々に卑小な存在になっていく。というのは、主人公がどんどんどんどん成功していくからで、彼が人生の失点を取り返して憧れのゲーム会社に就職するためには、水谷なんぞに支配されていてはダメなわけです。主人公が水谷という脅威をクリアする過程があまりにもあっけなくて、ずいぶんとご都合主義的な展開だなと、この点は正直がっかりしていたんです。
でも、下巻を読んで、最終的な構図が明らかになったとき、ああ、この上巻の軽さというか、都合のよさは、下巻の「ゲーム的世界観」にトーンをあわせたものだったのかなと思えて来たんですね。僕はゲームをまったくやらないのでゲーム的な世界観なんて実際にはわからないし、それはゲームを馬鹿にした発言だと思われるかもしれないけれど、ある種のシュミレーションゲームというか、予め決まっている選択肢さえ選び取れれば、良い結末を迎えられるという規則が、この小説にはそのまま移植されているんじゃないかと思えてきた。
もちろん、この下巻こそがご都合主義的な展開で、人間や社会がまったく書けていない、あまりに浅はかな小説である、という解釈も成り立つと思う。でも、一方で我々はあまりにも軽薄に日々を生きている。なんとなく決められているルールをなんとなく守って、それでルーティンワークであるとか、それに付随する人間関係がまわっているということを認識する瞬間って誰にでもあると思うんですよね。
日常のそういう側面に目を留めると、僕らの毎日って本当に薄っぺらな、ゲーム的な世界観であると捉えることも出来る。
この小説は地に足のついたかたちでは社会を描けていないけれど、象徴的な、暗喩的な表現として、社会や人間が描けているんじゃないか。僕らが無意識に日々遂行しているくだらないゲームを、一生懸命に、「むしろそれこそが人生だ」という真剣さを持って遂行した結果、人の人生をも支配できるようになってしまったひとたちが、この小説の黒幕の姿なんじゃあるまいか。そんな風に考えることが出来るようになってきた。
この黒幕たちの関係性を、僕はすごく面白いと思っていて、彼らが犯したあやまちというのは、それぞれが、「今自分はゲームの内にいるのか、外にいるのか」という認識を共有できなかったことによって生じるものなんですね。それによって彼らが奇跡的にこなしてきた「現実をゲーム的世界として運営していく」というルーティンワークが崩壊していく。僕はこの小説を愛せるか愛せないかは、この奇想を愛せるか愛せないかにかかっていると思っていて、僕はいわば「この小説において、この一点だけは愛せるな」と思ったんです。そして、この一点を肯定するためには、この小説の世界観は変に厚みがあってはいけないんだろうと、そういう戦略があったのだろうと考えた。この小説の世界観は、下巻の、極めてゲーム的なキャラクター配置を核として調律されている。だとすれば、その世界観の構築のためにも、上巻もまた極めてご都合主義的な「人生一発逆転劇」である必要があったのだろう。
そう整理して、上巻のご都合主義を肯定できるようになった。これはこの小説全体がゲームのメタファであり、それは、現実世界そのもののメタファでもある。厚みのある人間ドラマなんてものこそが、むしろ小説のためのファンタジーであって、実際の現実はゲーム的な薄っぺらさで構成されているんじゃないか。それにみんなが気付いていないだけなんじゃないか。そんな問いかけがある小説なんじゃないかと、全部を読み終えて思えてきた。
だから、この小説、最初に読み終えたときには僕はかなり肯定的に捉えることが出来たんです。
でも、そのあとでシゲの他の作品を読んでしまった。そうするとね、「え?」と。「シゲ、こんなすごいの書けるの? じゃあ、なんで『チュベローズ』はあんな感じになっちゃったの?」と(笑)いや、さっき言った通り、この小説のコンセプトは面白いと思ってるのよ。思ってるんだけど……「加藤シゲアキがここまで書ける作家だっていうんなら、話は別だよ。もっと面白くなったよ、これ」という思いは、正直、あります(笑)
ジャニーズ・アイドルとしての加藤シゲアキくんについては……正直、小説を出すまで彼のイメージというのはあまりなくて……僕はNEWSというグループはやっぱり山下智久くんのグループというイメージだった。
トット 脱退したけどね(笑)
益岡 『チュベローズ』を読んだ後に、彼が作家として受けているいくつかのインタビューに目を通したんですね。その中で、「彼は本当に作家になりたかったのかな」と思えるような記述があった。朝日新聞社の「小説トリッパー」の二〇一八年夏号にクリープハイプの尾崎世界観との対談が掲載されているんですけど、そこでは画をやってみてしっくりこなくて、小説を書いてみたら、自分にあっていると思えたので続けているというような、最初から小説が好きで、いつか小説家になりたいと思っていた、というわけではない、色々なものにチャレンジしていった結果いきついた、というように読める箇所が出てくるんですね。
これは、アイドル・加藤シゲアキにとって、「小説というものがたまたま武器として選ばれた」ということを表しているんじゃないのか。ジャニーズの中にも無数のライバルたちがおり、外にもイケメンたちがひしめく中で、彼らはアイドルとしてなんらかの差別化を図っていかなければならない。自分たちの現状をそう捉えた時に、彼らは、なにか自分を際立たせるもの、自分だけが持つことの出来る武器を探すんだろうな、と。加藤シゲアキにとってはそれが小説だった。言い方は悪いけれども、小説はアイドル・加藤シゲアキにとっては、アイドルとしての地位を固めるための道具に過ぎなかったのかな、と思えるような発言にも感じられた。
それでも、シゲは素晴らしい小説を書いている。この出来栄えを思うと、決して小説を軽んじているわけではないこともわかる。その一方で、最新作であるチュベローズの出来は……と、なんだか、現時点での全作品を読んだ今、作家・加藤シゲアキに対する複雑な思いに捕らわれているというのが正直なところです(笑)
新宮 僕は益岡くんとは逆で、上巻の方が良かったという印象です。下巻になると一気に後出し感が出て来ちゃって、どんどん評価が下がって行っちゃった。水谷の小者感が取り上げられていたけれども、それは、この人がそれほどの人間じゃなかったということが示されているだけであって、僕は特に気にならなかった。上巻の最後、一般的な会社員である美津子がなぜホストにあんなにも貢ぐことが出来たのかという問いに対して横領という事実が発覚してはっとさせる。この程度の驚きならば、サプライズとして面白いと感じられた。上巻のラストとしてはいい盛り上がりだったと思うんです。
でも後半になると、こうしたサプライズがポンポン出て来て、「浮いているな」と思うようなエピソードも出てくる。主人公の妹の失踪事件なんて、全体に絡んでいるとは言い難い。本筋に至るエピソードも、例えば、美津子が「タウンメーカー」というゲームの開発に携わっていたということになってしまうけれども、それを予め知らせるような伏線は張られていなかったように思う。
駄々猫 端末自体は彼女の死後出来たものだけど、制度設計と言うか、基本思想のようなものは美津子がつくったという話になってますよね。それを具体化する人を探していたという設定。
新宮 結局ね、伏線なんですよ。そういう設定でもいいけど、それを導くための伏線がちゃんと張られていないから、後出し感がすごい。
あと、上下巻分けて捉えたとき、物語への主人公の関わり方に落差があると思うんです。前半の主人公は、雫に引きずられていく面もあるけれど、自分から、主体性を持って動いてホストとして成功していく。主人公が動くことで物語が動くという構成になっていると思うんです。
それが後半は、ほぼ、誰かによって動かされている。メインとなる美津子の死へのアプローチも、主人公が自分から求めたものではなく、美津子の甥に強引に動かされていった感がある。それでも、ラストは主人公と美津子の深いつながりを示して終わる。
美夜日 なんか純愛みたいな(笑)
新宮 そう。そんなに強い思い、あった? お前が自分でここまで来たわけじゃねえだろう。流されてここに来ちゃったってだけだろう、みたいな。この小説のラストとして、ここでいいの?という強い違和感。それはすべて、伏線の弱さだと思うんですけど、なんだか、前半は割とスピード感があって面白かったのに、後半になって強烈な後出し感が来て、むりやりまとめられちゃったという感じに思えました。とりあえず以上です。
益岡 じゃあ、次はトットさんですが、トットさんは今回、ジャニーズ大好きっ子の代表ということで……
トット はい。ジャニヲタです(笑)
益岡 この読書会の告知をツイッターでしたとき、すぐに「いいね」をしてくださったんで、「いまだ!」と、DMを送ってスカウトしました(笑)
美夜日 トットさんはアイドルとしての加藤さんには何か特別な思いはあるんですか?
トット 正直、加藤さん個人に対してはあまりないですね。NEWSだと、小山くんや手越くんといったパーティーピーポー系の二人にやっぱり目がいってしまう──加藤くんはそういうNEWSの中ではやはり目立たない存在。つい最近、小山くん、加藤くんが未成年と飲酒していたという問題が発覚しましたけど、ここでも加藤くんは決して自分からこういう問題を引き起こすようなタイプではなくて、誘われてついていったらこんなことになっちゃったというような、そういう感じだから、大して処分もされなかった。
そんな加藤くんというパーソナリティが、この小説にも反映されているのかな、というイメージは受けました。先ほどの、アイドルをやっていくうえでの武器として小説を書いているんじゃないかという話に帰結してしまうんだけれど、登場人物たちがことごとく抱えている「空虚さ」「さびしさ」は、加藤くんがアイドルとしての自分を「観て欲しい」という叫びのようにも思えました。
美夜日 私も、小説の最初の方で主人公が「地味じゃん」と言われてマジギレしている箇所があるんですけど、これは作者自身の心の叫びなんじゃないかと思えました(笑)
トット この小説を「アイドルの実感」として読むと、腑に落ちる箇所がたくさんあると思いました。
それと、この小説の書かれ方。アイドル業をこなしつつ書き継いでいったことも影響しているのかな、と。とにかく、目の前のセクションをどう示していくかということに注力しすぎた作品のような気がします。締切を自らに課し、章ごとに事件を設定して、それがきちんと発生すればクリア、というような書き方。その場その場でショートショートを書いていくような「都度、書き切っていく」スタイルを採っている。だから、その部分だけ読めばそれほど違和感はないけれど、全体が繋がってしまうと、「伏線どうした」という不満が出て来ちゃう。
たとえばバルザックなんかにも、行き当たりばったりで書いていたようなところはあると思うんですね。でも、そこには、長篇として読ませるためのうさんくささというか、伏線なのじゃないかと思わせる街全体の匂いが必ずあって、ブツ切りにならずに読み進めていける。しかし、この小説にはそれがない。
駄々猫 これは週刊誌連載ですね。やっぱりそういうところも影響しているのかな。
トット そうですね……アイドルとして限られた時間の中でいかに連載物を、上下巻に及ぶ物語を書いていくか。
いしわたり淳治さんという作詞家の方が書いたショートショートがあるんですが、それに似ていると思いました。忙しい人が本業の隙間に書いていく。豊富なアイデアをどんどん放り込む。それがたまたま長篇になったという、そんな印象が強いですね。
益岡 美夜日さんは、BL大好きっ子で、僕のBL友達なんですけど(笑)どうでしたか?
美夜日 BLの前にね、この小説のキーワードは「嘔吐」ですね。
一同 (笑)
益岡 うん、実はね、この「嘔吐」というのはまさに美夜日さんの言う通りで……シゲの他の小説でも主人公は割とメンタルが弱くて、なにか嫌なことがあるとすぐ吐いちゃう。
美夜日 めちゃめちゃ吐いてるな、と。主人公以外のひとも吐いている。これは気になりますよね。
新宮 ちょっと安易な感じがするよね。登場人物の辛い状況を示す単調な「お約束」になっている。
美夜日 あとは、主人公が「比較の病」というか、誰かと比べて「勝った、負けた」というその運動を繰り返している。そういう病理があるな、と。
トット 完全に病気ですよね。
美夜日 なんかね、ホストクラブの話なんだけど、そこにはジャニーズ帝国の闇が反映されているのかな、と。
駄々猫 ああ、なるほど。
新宮 ジャニーさんが「パパ」的な(笑)
美夜日 気になったところを挙げていくと、上巻二五頁の「やまない黄砂」という章の中で、「僕たちの未来は黄砂の降る道を掃除していくようなものだった」という表現があるのですが、ここに私は安部公房の「砂の女」を想起しました。夜に砂を掃くという公房作品のイメージが重なりました。
続いて六十頁、ネズミが共食いしている描写があるんですけど、並行して、この時点での主人公の恋人である恵の「ディズニーに行く予定だから、気にしなくていいよ」という会話が出て来る。この「ディズニー」という非常に強い固有名詞と残酷なネズミの描写がなんとなく暗示的で、面白いし、こういうイメージの重ねあわせはうまいな、と思いました。
萬澄 そして、ここでも主人公は吐きそうになっている。
一同 (笑)
美夜日 安定の嘔吐感(笑)こういう鮮烈なイメージの面白さと言うのはちょこちょこあるな、と思います。
あまりの貧しさに余裕を失ってホストになっていくというくだりでは、中村文則さんの短篇「火」(『銃』河出文庫・所収)を思い出しました。この小説では、「人間はお金じゃない」なんていうクリシェは生活に余裕のある人間、普通に貧乏な人間にしかのたまえない。本当に貧しい人間にはそんなことは言えないんだ、という、貧しさからくる人間の悲惨さのようなものが示されているんですが、そういう部分はこの小説でもよく描かれていて、主人公が「チュベローズ」へ至る理由である「経済」という要素には説得力があって、物語に入っていきやすかったと思っています。
BL大好きっ子という点から申し上げると、この作品は、正直、あまりBL風味はないのですが、前半の主人公と恵が言い争いをしているんだけれどもセックスはしちゃう、心は完全にすれ違っているんだけど、身体だけはつながっちゃうという描写に、竹宮恵子「風と木の詩」(小学館)九巻でのセルジュとジルベールの事後の空気感を思い出しました。セルジュくんの賢者タイムに主人公のメンタリティを重ねたりして(笑)
新宮 そういうシーンに限らないんだけど、この小説、すごく喫煙率が高くない? ちょっと、平成日本とは思えないような……
益岡 ああ、シゲの小説にはよく、喫煙シーン出てきますよ。芸能界全体の傾向なのかな。
美夜日 下巻は急にミステリーとかサスペンスのようなスピーディーな展開になっていって、今までも話に出ましたけれど、無理もあったし……私も上巻の方が良かったという印象です。
駄々猫 私は上下巻分けて考えるというような読み方はしなかったんですけど、あまり期待しないで読み始めたせいか、読み通して悪い印象はなかった。ライトノベルとか、軽めのエンタメ小説だと思えば、なにかこれがアイドルが書いたからと言って特別レベルが低いとか、構成が悪いとかも思わなかった。これはこれでいいんじゃないかと思います。
ただ、詰め込みすぎという印象は確かにある。先ほど映像化を意識した作品なんじゃないかというような指摘がありましたけど、確かにメディア展開をしたいという、そういう意図は感じられる。連続ドラマにしようとしているような、一回一回に山場をつくろうとする、それも色々な山場をつくりたいという欲がある。それによって一つ一つのエピソードが浅いものになっているような気がする。その場その場の盛り上がりをつくることに忙しいから伏線も張れない。なんか、「少年ジャンプ」で一話ごとに山を作らされている漫画家みたいな感じ。
トット 「少年ジャンプ」みたい、というのは感じましたね。
駄々猫 益岡さんのいう、作家・加藤シゲアキの完成度の高さというのが、この連載という形式ではうまく生かせなかったのかなという感じもしました。長いものを書こう、連続ドラマのような映像化を目指そうというようなコンセプトがまずあって、それには山場づくりが大事だよね、あれもこれも入れて行ってみよう、というような運動が起こってしまったのかな、と。掘り下げれば面白いテーマもたくさんあったと思うから、もっと丁寧に描いていけばこんなにいろんな要素を詰め込む必要もなかったんじゃないかなあ。
美夜日 まさに連続ドラマですよね。毎回引きを作らなければいけないという。
トット 冒頭の文学賞の話で、加藤作品が俎上にあがることの難しさが触れられていましたけど、そういう影響というのはあると思う。文学そのものとしての成功は難しい。となると、メディアミックスというか、エンターテインメントとしての露出に懸けるしかない。
駄々猫 それが加藤さんの意志なのか、編集者の判断なのか、もっと大きなプロデューサーのような人の視点なのか、そこはわからないけれども、純粋に「小説」という枠組みだけでは捉えられない、この小説の「狙い」のようなものはあるような気がしました。
トット そこは本人でしょうか。彼にとっての小説が「アイドルとしての武器である」ならば、映像化を狙うはず。小説家としても、アイドルとしても、加藤シゲアキくんには「小説を書き続けたい」という強い思いを感じる。書き続けるためにはヒットさせていかなければならない。そのための要素というのは当然、織り込まれているでしょう。少なくとも、普通の作家のように「小説としての完成度」だけを意識していればいいというわけでは、彼の場合はないと思う。
駄々猫 それにしても詰め込みすぎだと思う。マキャヴェッリの『君主論』とか、本当に必要か?とか思っちゃう。スパイスとしては効いているけど、小説全体のバランスを考えると……
トット この小説には、加藤シゲアキという作家のスタイルはないように思えました。売れるための要素をとにかく揃えなきゃいけないという意識の大きさが感じられた。
駄々猫 詰め込んだものには、それぞれに意図があると思う。それぞれの要素が置かれている理由と言うか、理屈はきっとあるのだろうとは感じる。でも、それがうるさくて、読者も振り回されちゃう。物語にのめりこめない。
美夜日 私は加藤さん自身が出て来ちゃっているような気がしました。詰め込まれているものが加藤さんを形作るアイテムというか、加藤さんが文学や芸術を観たり触れたりして受け取ったものが端的に散りばめられている感じ。作品全体というよりは、その作為を観てくれ、というような。
駄々猫 部分部分には、感心するところも多かった。散りばめられているものひとつひとつは悪くないんだよね。
美夜日 わかります。なかなかにセンスがありますよ。
益岡 なかなかにセンスがある!(笑)すごく上から目線の言い方(笑)
新宮 いや、それはしょうがない。その感覚は正しい。部分を観ればなかなかにセンスがある。
駄々猫 ただ、センスのいい小物が部屋にいくつかあるなら素敵だけど、三十個とか並んでたらうざいじゃない? なんか、そういう感じがする。
美夜日 とてもよくわかります。痛バッグみたいな。缶バッチとか、オタクアイテムがほどほどなら、それはある種のおしゃれとか、様式美として成立するけど、じゃらじゃらつきすぎててなにがなんだかわからなくなってるみたいな。重い、重すぎる、みたいな(笑)
益岡 でも、僕はその点については、タレント小説にあるひとつの傾向のように感じている。リリー・フランキー『東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~』(新潮文庫)を読んだときに僕が感じたのは、「こんなにかっこいいこと言い続けるんだ」ということだったんですね。専業の作家だったら、たとえば章の終わりになにかいいことを言おうと思ったら、ためて、一回だけ言って終われるような山場づくりをすると思うんですね。そこに向けてどう構成するかということを考える。でも、あの小説の場合、ところどころにずーっとかっこいいことが書いてあるゾーンがある。このフレーズで、この独白で、物語が幕になるならかっこよかっただろうな、というような文章がずーっと続いているような印象だった。ずっと決め台詞。嫌な良い方だけど、「あれ、まだお母さん死なないのか」と思ってしまうような瞬間が何度もあった。もちろんリリーさんは言葉を扱う仕事を長年されてきた方だから、下手ではないし、その言葉の洪水に心が震える人がいることもわかる。でも、この手の過剰さは専業の小説家にはないものだな、と僕は思った。
駄々猫 リリーさんはそれでも、軽やかさというか、適度な薄さがあったからバランスがとれていたと思う。加藤くんの過剰さには物語を壊してしまうような濃さがある。
益岡 僕は、その小説全体のバランスのことをいえばね、普通の小説としては読まなかったんです。これはある種の実験小説だな、と思いながら読んでいた。
駄々猫 ああ、なるほど。
益岡 他の小説も、エンターテインメントの王道を守っているようで実験的な要素がかなり散りばめられていたから、『チュベローズ』もそうなのだろう、と。ミステリーとしてもバカミスだしね。
萬澄 はい?!(怒)
駄々猫 これって、ミステリーなの? そんな風にはまったく読まなかった。
新宮 まあ、ミステリーの一種でしょう。
トット 最終的に謎が明かされ黒幕が出て来て……
益岡 うん。ツイッター文学賞のイベントでも、この小説のミステリー要素は語られていて、下巻の最初の方で、主人公の勤めるゲーム会社の中に謎の部屋があるというのは提示される。その部屋の秘密が最終盤に明かされるわけだけれど、そこは、「やっぱり驚くよね」と、ミステリー評論家の杉江さん、SF評論家の大森さんが声を揃えるわけです。そこにはどんでん返しの快感がある。
それに関連したシーンでは主人公の上司が、かつて面接官として行っていた圧迫面接の記憶を、一気に再現し出すシーンがある。僕は、あそこはとても面白いシーンだと思っていて、もしテレビドラマになって、上手い俳優さんがあそこを滔々とやったら、視聴者が「今日のあのシーンすごくなかった?」とツイッターで話題にしてくれるような場面だな、と思いながら読んでいたんですけど、そのシーンのインパクトだけではなくて、その人間離れしたアクションがどうして可能だったのかという事情が、ラストのどんでん返しによって論理的に──ここで、あえて論理的という言葉を使いますけれども(笑)──解説されることにもなるという構造が凄く面白いし、僕はここはミステリー的だと思ったんですね。まあ、この辺りは、萬澄十三という「ミステリー警察」が後に控えていますから、後に詳しく触れてもらおうと思いますけれど(笑)
駄々猫 私は全然ミステリーという感じはしなくて、というのは、今、益岡さんが話したような丁寧に設計された部分と、いきあたりばったりで、盛り上がりのためにだけ用意されたような要素にムラがあり過ぎるからだと思うんですね。妹のエピソードなんかもそうだけど、「これ必要か?」と思えるような部分が多くて、ミステリー的な緻密な設計との落差が激しすぎる。結果的に、ミステリー的要素はあるかもしれないけれど、ミステリーではありえないというような作品になっていると思う。もっとも、もし、そういういきあたりばったり的な要素を丁寧に描いていったら重すぎちゃって読みづらくなるとは思うんだけど。色々な面で「削れなかった」というのがこの小説の弱さかな、と思います。
益岡 では、歴史家の方……
酒井 酒井でございます。といいましても、今回はあまり歴史的な要素は……
一同 (笑)
酒井 私はミステリーの歴史にも詳しくありませんし、ジャニーズの歴史にも……近現代史におけるジェンダーというものには取り組んでおりますけれども、ジャニーズのこともそれほど詳しいわけではありませんので、歴史研究者としてお話出来ることは少ないだろうと思うんですが……ここまでの皆さんのお話を聞いていて、だいぶ「辛いな」と。
一同 (笑)
酒井 話の流れはちゃんと追えるので、読みやすいは読みやすいし、そんなに厳しくとらえる必要もないのではないかと個人的には思っています(笑)問題が提起されて、展開があって、着地点がある、と。多少うろうろするところもありますけど、結末の、黒幕との対決も衝撃的ですし、読後感は悪くない。皆さんが仰るほどにはひどい小説ではないと認識しています。
ただ、私は特に二点、気になる点があって、一点目は曖昧接続の「が」が多いという印象を受けたことです。主格の「が」ではなくて、「~なので」という意味でつかわれる「が」が多くて、文章が長くなっている。そのあと主語が出て来て「が」が連続するというような文章もあって、なんだか雑な印象を受けた。こういう書き方は特別なこだわりがないのなら、しない方がいいのではないかと思いました。
もう一つは、女性の描き方です。物語を展開させるための道具として配置されているだけのような気がして……
益岡 それは、僕も同感です。
酒井 この、女性たちがキャラクターとして生きて行かない、人形として配置されているだけという感覚は、現代の小説としてどうなのだろうかと思いますね。
トット 女性たちのイニシャルはみんなMなんですよね。
酒井 ああ、そういわれてみれば。
トット 女性描写の無個性さとこのイニシャルの問題が何かに結びついてくるのかな、と思ったんですけど、なんと、何も関係がないという結果に……ちょっと驚きました。Mがあしらわれたアクセサリーが登場するから、これは何かに使いたかったんじゃないかと思うんですが、使えずに終わったのかな……
酒井 そうですね。ただのロゴというようなアイテムになってしまっている。下巻には主人公の秘書的な役割として松村という元気のいい女子が出てきます。彼女は一見、キャラクターとして立っているようにも思えますが、物語の根幹にはコミットしてこない。ただのにぎやかしの役割を振られているだけで、彼女もまた、体のいい人形に過ぎません。
この小説は主人公の一人称によって描かれている小説ですから、これを持って加藤氏の女性観というか、加藤文学の特徴とするわけにはいかないわけですけれども、この女性の扱いのぞんざいさは、やはり引っかかる。
トット 女性は物語を動かす立場にはないということが貫かれているわけですからね。
酒井 唯一のキーパーソンと言える美津子にしても、男のために命を落とす「自己犠牲の美しさ」を象徴させられていて、大事なヒロインとして扱っているように見えるけれども、本質的には、これもまた、女性をぞんざいに扱っていることになると思う。
益岡 うん。まったく、同感ですね。僕は概ね、シゲ擁護派ではありますが、今の酒井さんの考察にはまったく、同感です。
酒井 色々な背景を持った女性が出て来るじゃないですか。水商売で心身ともに鍛えられているという設定の女性も出てくるけれども、彼女だって物語の要請によってその「強さ」を生かされることなく退場していく。こういう物語に都合の良い女性の使われ方は、いかがなものかと思うし、たとえば加藤さんのファンの女性たちがこれを読んだときにどう思うんだろうか。ファンだからこそ、こういう描写から加藤さんの女性観のようなものを分析して、気持ちが離れていくというようなことはないのかしら……
トット まあ、ファンというのは下僕のようなものですからね。
酒井 そういうものですか。分析とかはしない、信者みたいなもの? それにしても警戒というか、リスク管理のようなことはしないんですかね。これが加藤さんの女性観だと思われたらアイドルとしてはマイナスな気がする。
トット ああ、ジャニーズとして小説を書くならば、もっと女性登場人物へのケアがあってしかるべき、と。
酒井 小説の構成を重視してぞんざいに扱われてしまう女性キャラクターが出てきてもいいとは思うんですけど、それにしても、あまりにもことごとく女性がぞんざいに扱われ過ぎているような気がするんですよね。厳しい言い方をすれば、女性の主体性を根こそぎ奪うような小説になってしまっている。
トット その点は、「あえての暴露」という可能性もあると思っています。「男性アイドルから女性へ向けた冷めた視点」のようなものが、この女性たちを生み出しているんじゃないかと。
酒井 そこまで読みますか? そういう意図が……
トット サディズムというか食傷というか。分析できているのなら、もっと踏み込むべきだと思いました。女の子のファンを気遣えば、もっとうまい書き方になったはず。
駄々猫 「ホストが客を金としか思わない」という、そうあるべきとして語るのは女性の口からだったりもしている。ここには配慮があるわけですよね。
トット こういう女性の扱い方は、アイドルという立場を考えると十分に勇気のいったことでしょう。ホストのメンタリティをジャニーズの第一線アイドルが描くというのは、これはある種の「暴露」だと思うんですね。ホストクラブという世界を男性アイドル業界に重ねて描いたと解釈すれば、これはそのまま女性に消費される男性アイドルたちの心情として捉えることも出来る。
ただ、これはここまで読み込んで初めて見えてくるものであって、もっとこの、アイドルの心理を全面に押し出した表現があってもいいと個人的には思う。この作品ではそこまで出来なかったけれど、次回以降の作品で、そんな危険さが表面化すれば面白いんじゃないかという思いはあります。
酒井 前作までの流れの中で、この女性描写についてはどうなんでしょうか。
益岡 たとえば、『閃光スクランブル』という小説は女性アイドルが主人公です。女性の描き方という面で、物語に都合の良いキャラクター描写になっていないかどうかという点については議論があると思うのですが、主人公としては主体的に動くし、この作品では、この女性アイドルに仮託して、シゲ自身がアイドルとして抱いている思いや覚悟のようなものを書いている側面もあると思うんですね。そういう点で『チュベローズ』における女性の扱い方とはちょっと違っているんだろうな、と思います。
他の作品でも、主人公を助けてくれる「いい役どころ」としての女性は出てくる。
美夜日 でも、それはそれでステレオタイプな気がしますね。星飛雄馬のお姉さんみたいな。扱いは良くても物語にとっての「体の良さ」は変わらないというか、それはジェンダー的には結局、同じようにあまりよろしくないのではないかとも思えます。
酒井 「母性」の象徴であるとか、そういう決まりきった役どころに終始しているということですね。
益岡 本作の女性の扱いについては、酒井さん、美夜日さんのいうこと、もっともだと思うんだけど、一方で、このキャラクターの薄さというのは、この小説の持つ「ゲーム的リアリティ」に準拠していることも大きいのかなと思えるんですね。僕は本当にゲームをやらないので、偏見もあると思うんだけど、恋愛シミュレーションで、複数の女の子がターゲットとして設定されていて、それを攻略していくようなゲームがあるじゃない? なんか、そういうゲームにある感触を小説に移植しようとしたものなんじゃないかという印象も持っているんです。
色んなタイプの男の子にとって都合のいい女の子が出て来て、ラストにいたっても非常に美しく、男の子のために物語を閉じてくれる女性が君臨するという……そこまでを含めて、この小説の持つ「ゲーム的リアリティ」は完成するというか、世界観を貫くことが出来るというような構造も持っているんじゃないかな、と。
トット マキャヴェッリからの引用である「若者は慎重さにかけ、より乱暴であり、しかも大胆にそれを支配する」という一節、これが作品全体に影を落としている論理のようで、女性関係も含め、このロジックを全体で表しているのがこの小説だと読んでもいい。ならば、また別の小説で、更に発展させてほしいとも思います。
酒井 最後に誰からのものかわからない電話がかかってくるじゃないですか。これってなんなんですかね。誰からのものなのかな。
益岡 まあ、これは誰からかというのは特に決めていないんでしょうね。狙っているというか、深みのようなものを出すための施策だと思いますね。
駄々猫 でも、それはあまりうまくいっていないような気がする。特に深みは感じなかったな……
酒井 誰でもありうるから、想像してくださいってことでしょうけど、なんかわかりづらいな、と。この小説を私が評価するのは最初にいったように展開がわかりやすいということなんですよね。徹頭徹尾わかりやすい。それが、最後だけもやっとして、なんか意味あんのか?と(笑)
トット 文学っぽさをここで狙わないで、という。
益岡 ただ、まあ、ここに誰を入れるかに寄ってさ、受け取り方が変わってくるわけじゃない。ラストに変数を用意するというこの施策は、「チュベローズ実験小説説」をとっている僕としては、つまりこれはその証左でしょ、と。署名でしょ。「これは実験小説ですよ」という宣言でしょ、と。それが上手いか下手かはまた別の議論があると思いますけど(笑)
まあ、オープンエンドというのはシゲの得意技ではあります。『ピンクとグレー』にしても『Burn.』にしても、「これって最後どうなったんだろう?」という興味を抱かせるような構成になっています。
酒井 でも、この小説は、後半では特に、「説明、説明」で展開していくわかりやすさで押してきたわけじゃない? ここでわざわざ面倒にしなくても……
益岡 うーん……まあ、ここには一人称としての狡さというか、一人称小説の特性というものがあるんですよね。例えば、ここで電話をかけてくる人が、この物語には登場しない誰かだという可能性だってある。そしてそれすら、一人称小説というものの持つ特性を考えたらアンフェアなことじゃない。一人称は、視点人物の目を通してしか小説を語ることの出来ない形式ですから、その人物の目に映っていなかったことは描写出来ないし、その人物がその物語とは無縁だと思っているようなことはそもそも記述されないわけです。
ずっと問題になっている「伏線張られていないじゃん」という指摘についても、この一人称という形式の特性を盾にすることで、ある程度は反論できてしまう。実は伏線は張られていた。わかりづらかったかもしれないけど、それはこの主人公の視点がそれをちゃんと捉えていなかったからで、記述の正確性を重んじれば、それがはっきり読者に伝えられないのはむしろ自然なことだという申し開きも可能です。むしろ、フェアな筆致で導かれたサプライズに文句を言う方がおかしい、という主張も出来る。
この秘密でもなんでもないもの、謎でもなんでもないものが、視点人物の目が捉えていないという一事によって、ミステリーの「謎」に転じ得るという構造は、ミステリーにおける一人称の最大の効能だと僕は思っています。たとえば京極夏彦のいくつかの作品は、この一人称のマジックを上手に使っている。視点人物がもし、別の人間であったならば、この物語に謎はないし、ミステリー小説にも成り得ないという構造。正直、『チュベローズ』はそこまで積極的に「一人称の特性」を生かせた小説とは言えないわけですけれども、「一人称」にそういう効用があるということは、おさえておきたいと思います。
ますく堂 私も、上巻は読みやすかったし、面白かった。下巻はなんだかわからなくなっちゃった、というのが率直な感想。
気になった表現としては、十一頁の「冷えたガードレール」という表現に違和感がありました。基本的に上巻はさくさくと読み進めていったんだけど、「冷たいガードレール」じゃなくて「冷えた」と表現されるあたりが、なんのこだわりなんだろう、と。
あと、「嘔吐」という話があったけれど、のっけから吐いているじゃない。なんか、インパクトはあるかもしれないけど、このスタートはどうなの、と。ちょっと物語に入り込むのに抵抗がありました。
これも既に指摘されたことだけれど、部分の面白さというのは私も感じた。圧迫面接のところとか迫力があったし、読んでいる間は印象的なシーンもあったはずなんだけど、全部読み終わって残ったのは、「冷えたガードレール」の違和感だけだった。それが残念だな、と思いました。

※続きが気になる方は、是非、本誌をご用命ください。

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