見出し画像

イースターのメッセージ「すべては女性たちからはじまった」

2024年4日7日(日)徳島北教会 イースター礼拝 説き明かし
 マルコによる福音書16章1−8節(新約聖書・新共同訳 p.97、聖書協会共同訳 p.95-96)
 有料記事設定となっておりますが、無料で最後までお読みいただけます。有志のお方のご献金をいただければ、大変ありがたく存じます。
 最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼マルコによる福音書16章1−8節(女性たち、空っぽの墓から逃げ出す)

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

▼いちばん最初の福音書

 皆さん、イースターおめでとうございます。1週間遅れではありますけれども、イエスさまがキリストとして復活したことをお祝いする礼拝を行っております。しかし、とは言いましても、復活とは一体どういうことなのか、どういう出来事が起こったのかについては、人それぞれに理解が違っているようです。あるいは、「考えることはやめて、書いてあるとおりのことが起こったのだから、それを信じればいいのだ」と言う人もいます。
 しかし、書いてあるとおりのことと言っても、聖書に書いてある復活の記事は、福音書によって食い違っているので、「書いてあるとおりだ」と主張する人は、実は「書いてあるとおりのこと」をちゃんと読んでいないということになるんですね。
 特に今日お読みした、マルコによる福音書の最後の部分は、他の福音書とは違って非常に特徴的です。マルコはいちばん最初にできた福音書なので、単純には言い切れないけれども、それでもいちばんイエスの時代に近い、いちばん最初の時期のキリスト教の伝えたかったことを伝えていると、概ね考えることはできるんですね。
 ですから、マルコに書かれているイエスの復活の場面を読めば、あとからできた福音書に付け加えられた脚色が無い、実際に起ったことに近いことが読み取れるのではないかと考えられます。
 ちなみに、もうご存じの方もおられると思いますが、マルコによる福音書は16章の8節で終わっていて、それ以降9節から後の部分は、後々付け加えられたものだというのが、今の聖書学が割り出した結果です。ですから、その8節までのところを、ちょっと見直してみます。

▼その時何が起こったか

 安息日が明けた日曜日の早朝に、女性の弟子グループのリーダーである、マグダラのマリアともう2人の女性の弟子が、イエスが葬られたお墓のところに行きます。安息日というのは、金曜日の日没から土曜日の日没までなんですけれども、おそらく夜間の外出は危険なので、女性たちは夜明けと共に行動を開始したんですね。そして、遺体が損傷しても匂いが出ないように、当時の風習に従って、香料を塗りに墓地に行きました。
 墓地に入った時点でも、どうやってお墓の中に入るか、この女性たちはわからないままに来ていたことがわかります。当時のイスラエルのお墓というのは、人の身長くらいの高さの横穴が岩に掘ってあって、その中に遺体を収める石の棺があって、そこに遺体を安置して、あとはその横穴に円盤型の大きな石を転がして塞いでおくというものだったんですね。
 それで女性たちが、いざその場に行ってみると、お墓の石は既に転がしてありました。それでお墓の中に入ると、そこに白い長い衣を着た若者が座っていたと。このマルコの福音書では単に「若者」と書いてありますが、あとの方でできた福音書では「天使」と書き換えられています。でも、もともと伝えられていたのは「若者」という情報なんですね。後になるほど復活物語は手を加えられて脚色されていったことがわかります。
 そして、その若者が言う。
 「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(マルコ16.6−7)。
 これを聞いて、女性たちはますますびっくりして、お墓の中から飛び出して逃げて行った。こう書いてあります。「震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16.8)。

▼マルコが創作したエピソード

 読んでおわかりになられたと思いますが、この最初の福音書には、蘇ったイエスは姿を現していません。出来事としては、お墓が空っぽになっていて、若者がいて、女性たちは逃げて、誰にも何も言わなかったというだけです。イエスが本当に肉体的に蘇ったとは一言も書いていません。
 そして、「復活なさって」という風に日本語に翻訳されている言葉も、別に死体が息を吹き返したという言葉ではなくて、「引き起こされた」と受動態で書いてあるだけです。受身形で「引き起こされた」と書いてあるだけです。「誰が」引き起こしたのかも書いてありません。
 ですから「復活なさって」という能動態は、この最初の本には書かれていないのに、後から「イエスの体が息を吹き返した」という復活の教えに合わせるように解釈して、そういう日本語に翻訳して書いたということなんですね。ということは、この若者が「あの人は起こされて、ここにはいない」というのは、どういうつもりで言ったのかはわからない、ということです。
 わからないということは、想像するしかない。肉体が蘇ったのだというのも1つの想像です。けれども、これは夜の間に、ペトロたち12人と言われている男性の弟子たちのグループとは別のグループが墓石を動かして、イエスの遺体を運び出した、という風に想像している学者や作家もいます。
 しかしとにかく、ここにはイエスはいない。どこにいるのか。「彼はガリラヤにいるのだ」と、この若者は言います。
 私は、この物語自体が、かなり作り込まれた部分があるのではないかと思っています。
 というのは、最後にこの女性たちが「誰にも何も言わなかった」と書いてありますよね。誰にも何も言わなかったら、この福音書を書いた人も何も聞いてないことになりますよね。それだと、この人もこのエピソードは書けてないはずので、そんなことはありえない。そこで、これはこの福音書を書いた人が作った話だということがわかるわけです。わざと「これはフィクションですよ」とわかるように、書いてあるとさえ考えることができます。
 じゃあ、エピソードを書いた人は、この話を通じて何を言いたかったのか。

▼イエスはここにはいない、ガリラヤにいる

 私はポイントは3つあるのではないかと思っています。
 1つは「イエスはここにはいない」ということです。少なくとも「目に見える存在では、ここにはいない」ということです。これはとても現実に即しています。
 それに、私たちだってイエスの姿なんて見てませんよね。私も生まれてこの方イエス様の姿なんか見たことありません。見たことないから、勝手な姿を想像して絵に描いたりするわけです。でも、イエスは見えない。姿だけでなく、声も聞いたこともないし、触ったこともない。握手したことがない。では、一体イエスをどこで見つけることができるのか。それが第2のポイントです。
 2つ目のポイントは、この若者が言った通り「イエスはガリラヤにおられる」ということです。これは、去年自分が何をイースターの礼拝で言ったかを遡っていったら、同じことを言ってるんですけれども、この「ガリラヤ」というのは、イエスが生まれ、育ち、その活動を大半を行った場所です。
 ほとんどの人が生活困窮者で、じゅうぶんに食べられずに栄養失調気味で、病気がちで、南のユダヤ地方の都会に人間に差別されている。ローマ帝国への税、地元の領主への税、そしてエルサレムの神殿にいる宗教政治家たちに収める税。一生懸命働いても、農作物も魚も、大抵は地主であるエルサレムの祭司たちや律法学者たちに取り上げられて、自分等の食べるものはわずかしか残らない。そんな中で、みんなで支え合ってなんとか生きている。そういう人たちの間でイエス自身も育った。そういう場所です。
 そして、イエスがだいぶ歳を取ってから(当時の30歳というのはまあまあ長生きしたほうです)、一念発起して、「神の支配は近づいた!」「人の支配はもうすぐ終わる!」と教えて回り、病気の人たちを手当し、飢えている人たちのために食事をどこかから調達してきて……というような活動を始めた。そして、ガリラヤにやってきた地主である祭司や律法学者を言葉の力でやっつけた。そういうことをイエスがやっていたのは、ガリラヤ地方でのことでした。そして、イエスの弟子たちの多くも、ガリラヤ出身です。
 ですから、「イエスはガリラヤに行ってるよ」というのは、そのガリラヤに帰ればイエスに出会えるよ、ということです。ガリラヤに戻れば、イエスを発見できるよ。ガリラヤには、イエスに教えられ、イエスに癒やされ、イエスと一緒に飲み食いして話した人たちがたくさんいます。そして、そんなイエスの言ったこと、やったことを言い伝えている人たちがいる。その人たちの中にイエスは今も生きているよ、ということではないでしょうか。

▼女性たちだけが知っている

 そして、3つ目のポイントは、「このことを知っているのは女性たちだけだ」ということです。
 ここには女性の弟子たちしか登場していません。なぜかというと、男性の弟子たち、少なくともペトロやアンデレ、ヤコブといった、よく名の知られたメインの弟子たちに代表された12弟子は、全員逃げてしまっています。「あなたと一緒に牢屋に入っても、殺されても、ついていきます」と言ったペトロも、3回イエスのことを「知らない」と言って逃げたと書かれています。
 女性たちは逃げずにとどまりました。でも、イエスが処刑されるのを遠くで見ていることしかできなかった。遠くでにしろ、捕まらずにイエスの最期を見届けることができたのは、ローマの兵隊たちが、女性は一人前の弟子だと思わずに、わざわざ逮捕する必要を感じなかったのだろうとか、あるいは、むしろイエスの一派にとらわれていた女性たちだろうと(権威的な父親や夫から逃げて、イエスについてきた女の人もいたようですから)、この女たちは被害者なのだと。そんな風に見なされて、逮捕されなかったのだろうとか、いろんな説があります。
 けれども私は、やはりイエスについてきた女たちということで、ローマ兵に逮捕されて、暴力を受けたり、ひどい場合にはレイプされたりすることもあり得たと思うんですね。そもそも、イエスについてきた女性たちは、家や夫や父を捨ててイエスについてきていたそうですから、そういう女たちだということを、ローマ側も知っていてもおかしくない。だから、そういう女たちをひどい目にあわせることなど、占領軍の兵士だったら普通にやってもおかしくない。女性を十字架にかえることだってあったといいますしね。
 そういう危険性を認識していながら、遠くで様子を伺うということしかできなかったけれども、女性たちはそこから逃げるということはしなかった。そこには女性たちの勇気、根性、覚悟があったと考えられるわけです。
 そして、イエスのお墓に来たのも、男性の弟子たちではなく、女性の弟子たちだけだった。だから、本当のことを知っているのは女性たちだけだということです。ガリラヤに行けばイエスと出会えるということを知ることになったのは女性たちだけ。そして、彼女たちは誰にも何も言っていない。だから、男性の弟子たちはいよいよ何も知らないんだということです。
 マルコという福音書は、全体を通して「ペトロたち男性の弟子たちは何もわかってない」ということを何度も強調する傾向を持っている本です。それをここでマルコは、極めつけのダメ押しをしているんですね。女性たちは自分たちが知っていることを男性の弟子たちに何も言ってない。つまり男性の弟子たちは、本当にイエスのことを何もわかっていないんだ! ということを告発しているし、本当のイエスを知っているのは、女性たちだけだということを強調しているんですね。

▼すべては女性たちから始まった

 というわけで、まとめると、イエスは見えるかたちでは私たちのそばにはいない。しかし、私たちが苦労して生きている現場にイエスは共にいる。そして、そのことを本当に知っているのは女性たちだけだ。それをマルコは伝えようとしているのだ、というのが、私のこの物語の読み方です。
 皆さんはどのようにお考えになりますでしょうか。
 最初のイエス派の運動、最初にキリスト教のもとになることになった運動は、女性たちから始まったと、私は読み取れると思っています。男性の弟子たちの動きはその後に続いて起こります。
 男性の弟子たちは、エルサレムに留まりながら、教会を立ち上げることになりました。しかし、女性たちがどこでどんな教会を作っていったのか、それは聖書には明確には書かれていません。古代の、女性の地位がとても低かった時代の本ですから、女性について書いてあるところが非常に少ないからですね。
 でも、イエスは大都市のエルサレムではなく、地方部のガリラヤに戻っておられるのだ、私たちの生活の場におられるのだ、というメッセージを運んだのは女性たちだったのだ、というのがマルコのメッセージが事実に即したものだったとしたら、私たちはそこから何を学ぶことができるでしょうか。何を思うことができるでしょうか。
 この後の分かち合いで、お話し合いができたらいいなと思います。
 祈りましょう。

▼祈り

 神さま。
 今日、こうして敬愛する方々と共にイースターを迎えることができましたことを心から感謝いたします。
 あなたはイエスさまを死から引き起こし、私たちの生活の現場に蘇らせてくださいました。
 私たちはイエスさまのお姿を見ることができません。お声を聞くこともできません。
 しかし、私たちが日々の生活をする中で、また出会う人、子ども、大人、年老いた人、病にある人、飢えた人たち、いろいろな人たちの中に、イエスの姿を、声を、見出してゆくことができる心をお与えください。
 いつもイエスさまと共に生活しているという思いを抱き、イエスさまのなさったように行動し、人と接することができますように、どうか私たちを導いてください。
 世は混沌とし、苦しみに満ちあふれています。
 どうかこれを解決する知恵を私たち人間に与えてください。
 この祈りを、ここにおられるすべての人の心にある祈りと合わせて、イエスのお名前によってお聞きください。
 アーメン。


ここから先は

0字

¥ 100

よろしければサポートをお願いいたします。