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生成AIのHidden Curriculum

今度珠美先生にお声がけいただいて、JDiCE第14回オンラインゼミに出させていただきました。テーマは「AIが問い直す教育」。我ながら大きく出たものです。その時のことで、引っかかっていたことがあるので書いてみたいと思います。


坂本先生の質問

私が20分くらい話した後で、JDiCEの先生方とのディスカッションという流れでしたが、よせばいいのに最初の20分でこんな写真まで出してイリイチのOpportunity WEBやLearning WEBのことを話題にしたんですよね。それによって現代の教育におけるAIの意味を問いかけようというのが狙いでした。

その後のディスカッションの中で坂本旬先生から次のようなご質問をいただきました。

「イリイチだけじゃなくてマイケル・アップルとか山本哲士の本が並んでたじゃないですか。僕もね、大学院の時、読んでいたので『あ、同じ本読んでる』と思っていたんですけども、あれって実はHidden Curriculum だとかカリキュラムの中にある政治性を問題にしているのですよね。だから、マイケル・アップルとか、あの当時のHidden Curriculum の観点から生成AIのことを考えたらどういう風に言えるのか」

坂本先生のお話を伺いながら「同世代だ!やっぱり読んでたんだ!」と嬉しくなったのですが、「これ、この場でパッと答えるのは厳しいかも」と思って逃げちゃったんですよね。それがずっと引っかかっているので書いてみようというわけです。

隠されたカリキュラム(Hidden Curriculum)

ヒドゥンカリキュラム、「隠されたカリキュラム(Hidden Curriculum)」はマイケル・アップルにとって非常に重要な考え方ですが、この概念を最初に提唱したのは、フィリップ・W・ジャクソンです。『Life In Classrooms(教室の生活)』(1968)がその最初、と教わった気がしますが合っていますかね?

学校は、公式のカリキュラムにおいては「国語」「社会」といった学問的内容を教えているわけですが、実は同時に「社会的規範」とか「望ましい態度」とかを教えているでしょう、と。隠されているけれど、そういうカリキュラムがあるよね、という考え方が「隠されたカリキュラム(Hidden Curriculum)」です。

マイケル・アップルはフィリップ・W・ジャクソンの発想を更に進化させた存在と認識していますが、「隠されたカリキュラム(Hidden Curriculum)」は確かに学校にあって、これがなかなか厄介ですね。

とんなものがあるか。例えば、朝礼。みんなで並んで大して面白くもない話しをいい姿勢で聞いていなくてはならない。これは「権威への服従」を教えている面があるだろうと。また、子どもたちは「自分の社会的地位や役割を受け入れること」を学ばされているのかもしれません。

或いは通知表やテスト。そこから子どもたちは「競争」を重視するようになるし、「個人の成果が最も重要」と考える文化に適応することを学びます。

他にも見直してみれば学校教育にはたくさんの「隠されたカリキュラム(Hidden Curriculum)」があります。私はその全てが間違ったものであるとは思っていません。例えば、グループで話し合う場面ってありますよね。あそこから子どもたちは「一人ではできないことも協力すればできることがある」と学びます。これは悪いことではないでしょう。

ただ、「隠されたカリキュラム(Hidden Curriculum)」によって社会的不平等が暗黙的に再生産されることもあります。アップルが問題視していたのはその辺りであろうというのが私の理解です。

AIがもたらす新たな「隠されたカリキュラム(Hidden Curriculum)」

これは諸刃の剣であるように思います。

学校教育において生成AIの活用はこれからどんどんと進んでいくでしょう。そうすると子どもたちはこれまで以上に簡単に情報を得られるようになるわけですが、そうなれば当然、学校は「情報の正確性や信頼性を確かめるにはどうすればよいか」というスキルを教えることになります。

これは、プラスの方向に働けば「偽情報や誤情報に対して批判的な視点を持つことを促す」という「隠されたカリキュラム(Hidden Curriculum)」になり得ますが、マイナスの方向に進めば「偽情報や誤情報をばらまくことを促す」ことにもなりかねません。

或いは。私は生成AIによる個別支援に大きな可能性を感じています。学びに困難を抱えた、しかしなかなか先生にはその困りごとを相談することができない子どもも生成AIに対してなら気兼ねすることなく相談したり勉強を教えてもらったりといったことが可能になると思うのです。

これは、「AIを使えば自分もちゃんと勉強することができる!」「自分の勉強って自分で調整すればいいんだ」といった学習をもたらす隠されたカリキュラムになり得るでしょう。しかし、マイナスの方向に進めば「自分はAIがないと何もできない人間だ」と思わせることもあるかもしれません。

「生成AI時代の教師の役割」について議論されることがしばしばありますが、その鍵はAIがもたらす「隠されたカリキュラム(Hidden Curriculum)」がおかしな方向に進まないようにするといったところにもあるのではないかと見ています。

GIGAスクール構想の「隠されたカリキュラム(Hidden Curriculum)」

GIGAスクール構想の「隠されたカリキュラム(Hidden Curriculum)」は何だったでしょうか。これは導入のされ方によってかなり違ったかもしれません。

「学びって先生の言うことを聞くことだと思っていたけれど、どうやら違うようだぞ」と思ってくれたのなら、それは「隠されたカリキュラム(Hidden Curriculum)」がプラスの方向に働いたとみてよいでしょう。

他方、ガチガチに規制で固められたタブレットを渡された子どもたちは、そこに「隠されたカリキュラム(Hidden Curriculum)」から何を学ぶのでしょうか。
「学校にある全てのリソースは勉強のためだけのものだ」
「学校にある全てのリソースは先生に言われたときしか使ってはいけない」
「僕らの行ったことはすべて先生に監視されている」
そういった辺りのことでしょうか。

いやいや、子どもを甘く見てはいけません。多くの子どもたちはこう学んでいるのではないでしょうか。
「タブレットにかけられた規制なんていくらでも抜け穴がある」
「先生の目をごまかせば何をやってもいい」
「先生の目をごまかすのなんてちょろい」

だから我々はガチガチに規制するのではなくて、子どもたちがタブレットを自由に使ってどんな使い方をしていくのかを見守り、トラブルが起こったらその度に子どもたちと対話を重ねてよき使い手になっていくのを支援する。そう考えたのではなかったでしたっけ?

生成AIも同じではないでしょうか。
「このAIを使えるのは先生が使っていいと指定したときだけです」
「子どもが書いたプロンプトはすべて先生が見ることができます」
さて、その生成AIの「隠されたカリキュラム(Hidden Curriculum)」から子どもたちは何を学ぶのでしょうか?


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