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ソウルフィルド・シャングリラ 第四章(5)

承前 

 それから二日後。
 発掘された調理器具が増え、買い足された食材や調味料が並べられたキッチンからはいい匂いが漂ってきていた。
「やりましたよ! 成功です!」
「……そう言うのはこれで二度目だけどな。今朝のも匂いだけは良かったのを思い出すんだ」
「今回こそ大丈夫ですから!」
「その言葉はこれで三度目だな」
 運ばれてきたのは、ビーフシチューだった。少なくとも見た目と香りは。
「いただきます」
 スプーンを口に運ぶ護留を悠理は固唾を呑んで見守る。
「い、いかかですか?」
「――うまい」
 驚いた顔を皿に落とす護留に対し、悠理は喜ぶより先に胸を撫で下ろしていた。
「良かったぁ、ちゃんと思い出せて」
「そういえば、最初からシチュー――みたいなものを作っていたな。好きだったのか?」
「ええ。昔、一度だけ眞由美が、シチューを作ってくれたことがあるんです。記憶にある限りでは、それが私の最初の食事でした」
「君と眞由美の間には、思い出がたくさんあるんだな」
 食事の手を止めて、護留が言った。連れられてきてからの五日の間にも、しばしば悠理は眞由美に言及していた。
「ええ、たくさん。彼女がいなくなった五年の歳月も、彼女との思い出があったからこそ辛くて――彼女との思い出があったからこそ耐えられました」
「どんな人だったんだ?」
「そうですね……優しくて、おっちょこちょいで、でも私の知らないことをたくさん知っていて――眞由美からはたくさんのことを教わりました。当時既に禁制になっていた絵本のお話とか、逆に一部で細々と受け継がれていたあやとりとか」
「あやとり……」
 護留は懐に手を入れる。逃亡の最中の混乱でも失われず、それはそこにあった。
 焦げ目のついた、赤いあやとり糸。
「それは?」
 悠理は驚き、ついで懐かしさに顔を綻ばせた。
「――君のファンだった女の子が持っていた物だ。これは、多分君が持つのが一番いいと思う」
 悠理は戸惑いながらも差し出された赤い糸を受け取る。
「私の……ファン?」
「祭りの場で、一人で泣きそうになっていた子供の面倒を見たらお礼に貰ったんだ」
「そう、ですか。お祭りで……」
 悠理はそれ以上深く聞いてこなかった。多分護留の言葉や表情から、少女の末期は察したのだろう。糸の焦げ目を指先でそっとなぞっていた。
「そうだ、それで〝塔〟を作れるかい? 僕が見せてもらったのはなんだか捩れてたから、きちんとしたのを見てみたいんだ」
「ええ、できますよ。どうしても縒れちゃうんですよ、最初の頃は。私も眞由美に教わったばかりの頃はぐにゃぐにゃでしたから」
 指をさっさっと動かし、糸を外したり取ったりする。そして出来上がったのは、
「はしごです。これの上をすぼめれば、塔ですね。幾つかバリエーションもあって二人で作る塔もあります」
 喋りながらも淀みなく指を動かす。きっと何度も何度も作ってもう手がすっかり覚えているのだろう。親指の糸を外して束ねたりし、先程より少し複雑な形が出来上がった。
「この真ん中を引っ張ってもらえますか……そう、そこです」
 護留が菱型模様の真ん中を摘んで持ち上げると、電波塔のようなシルエットが立ち上がった。
 悠理はそれを見て、ほんの数日前まで自らが所属して公社の建物を思い出し、独り言のような調子で口を開く。
「――公社は、天宮は今どうしているでしょうか」
「さあな」
 護留は糸を摘む指を離した。
 塔が、崩れる。
「相変わらず地下には何の情報も降りてこない。地上に出るのはまだ剣呑過ぎるし、ALICEネットを使えばたちまち逆探知されるだろう。まだしばらく様子を見て、変わりがなければ人を雇って上へ――」
「――回りくどすぎます」
「万全を期しているだけだ」
「護留さんは、天宮が憎い――んですよね? 『死〈せい〉』とお母さんを返してもらうとフライヤーの中で言ってましたが……一人で目覚めたときには既にお母さんは天宮に連れ去られていたということですか?」
「そう、だ」
「お母さんは、どんな人だったんですか?」
 悠理の質問に、護留はびくりと身を震わせた。
 母さん――母さんは……いない。連れ去られた。
 誰に?
 天宮に。
 そうだだから僕は天宮が憎いんだ母さんを奪い僕から死を奪った天宮を許さない――僕? 僕の名前は引瀬護留違うこれは僕の名前じゃない僕の本当の名前は、
「僕は――ぼくは、誰だ」
 記憶の欠如、認識の齟齬、思考の撞着。
(・――これから、あなたを酷い目にあわせるよ――・)
(・――最期に、一言だけ。ごめんなさい、そして――・)

「――さん! 護留さん!」
 悠理に揺さぶられ、護留は混濁した意識を取り戻す。
「大丈夫ですか?」
「ああ――いや」
 母のことは何も覚えていない。ましてや屑代に会うまでは自分を『Azrael』にしたのは天宮だという確たる証拠もなかったのだ。
 それなのに五年間、自分は天宮から逃げ続け、憎み続けてきた。自分の過去を本気で調べようとしたことすらなかった。
 押し着せられた名前――そして改ざんされた記憶と認知。その異常性を護留は今やはっきりと認識していた。以前は母のことを考えてもこんな状態にはならなかった。悠理と出会った時の完全覚醒、あるいは魂の開放の影響だろう。
「悠理」
 正面から目を合わせ、護留は少女の名を呼ぶ。
 消された過去、偽りの認識の中で、唯一の真実だったその名前を。
「僕は――僕がなんなのかを知りたい」
「私も――私を囲む世界と運命について知りたいです」
 護留は頷き、そして言った。
「幻を――過去を見よう。二人で。一緒に」
「――はい!」
 護留は、悠理の細い体を抱き締める。
 悠理もそっと護留の背中に手を回す。
(阿頼耶識層へのアクセスを確認……承認)
 二人の抱き合う強さ、思いの強さに比例するかのような長い幻が、始まった。

「プロジェクト・ライラの実行日。ついに、この日が来ましたね、悠灯先輩。緊張してますか?」
 引瀬由美子は、柔らかな物腰の女性に、少し緊張した面持ちで話しかけた。場所は前回の幻と同じオフィスだ。
「まあ、それなりにはね。でも――悠理と、この街の人々のためですもの」
 愛おしそうに笑み、ふっくらと膨らんだお腹を擦る。
「歴史上の全人類の悲願――不老不死化。その記念すべき第一号になれるのは喜ばしいし、誇らしいわ」
「でも――もうやっぱり少し実験を遅らせることはできなかったんでしょうか。悠理ちゃんを産んでからの方がリスクは少ないと思うんです」
「無理よ」
 変わらぬ笑みのまま、女性は――天宮悠灯は断言した。
「もう、あたしの身体自体が限界なの。空宮が天宮に対して優位に立とうとして行った種々の人体実験のせいでね。元々身体が弱くて、空宮の跡目には相応しくないと言われていたあたしを、なんとか一族の出世レースの中で勝ち上がらせようと両親も必死だったから」
 由美子は唇を噛む。
「すみません……」
「そんな顔しなくていいのよ、由美子。結局、実験は全て失敗。ボロボロになって半ば放逐されるように市大へとやられたけれど――そのおかげで理生君やあなた達に会えたんだから。そして今こうやってみんなで研究した計画で私と――そして都市は救われようとしている」
「しかし未だに分からないんですけど。先輩ほどの人が理生のどこに惚れたんですか?」
「あら。人の夫に対してずいぶんな言い草ね?」
「私の親が公社の副社長だったので、理生との付き合いは長いですからね。理生は子供の頃から天宮の次期当主として――技術発散を抜本的に解決しなければ、このままいずれ遠くない未来に滅びる澄崎を担う者として育てられてきましたから。一々言動が虚無的で、昔はそれでよくイライラして喧嘩になりましたよ」
「確かに、出会ったばかりの頃はなんて虚ろな人なんだろうと思ったけれど――でも誰よりも強く都市を救いたいと願っている人だった。それに、プロポーズの言葉はとっても情熱的だったのよ」
「り、理生の情熱的なプロポーズ……」
 由美子はなんとも微妙な顔をした。笑いを堪えているらしい。
「聞きたい?」
「え、遠慮しときます」
 聞いたら間違いなく噴き出す、といった顔で由美子は断った。
「そうだ、先輩、今日の実験が終わったらまたあやとり教えてください。最近、眞由美もやり始めたんですよ」
「ええ、もちろんいいわよ」
・――この人が、天宮悠灯。私の、母親? あやとりも――この人が……――・
 悠理は当惑した顔で、悠灯を見る。
・――空宮から、嫁いできていたのか――・
 護留も驚いていた。天宮と空宮。二つの組織は不倶戴天の敵同士だと思っていたからだ。
・――ライラは、不老不死化の実験だったんですね――・
・――確かに、不老不死になってしまえばいくら技術が発散しようとも構わないからな。都市は救われるだろう。もしそんなことが可能ならば、だけど――・
・――護留さんが見た幻では、この後の実験は……――・
・――ああ、失敗する。そして、その中で生まれた『天使』――悠理、君を利用したプロジェクト・アズライールが始まるんだ――・
・――……――・
・――辛ければ、また止めるか?――・
・――いいえ。最後まで、見届けましょう――・
 護留は頷いて、視線を室内に戻す。がやがやと数名の人間が続けざまに入室してくるところだった。メンバーはこの前の幻でも見た女性二人。花束と哉絵。そして続けて実験失敗の場面で見た男性三人。理生、眞言、雄輝。
「みんな、揃ったようだな」
 眞言が一同を見渡して言った。
「眞言さん、眞由美は?」
「眞由美ちゃんなら、うちの雄哉の面倒を見てくれてますよ」
 哉絵が由美子の質問に答える。
「いやー助かるぜ、雄哉のやつ眞由美ちゃんが側にいるとピタッと泣き止むからな。俺に似ていい女ってのを見分ける目を持ってんだな――あいてっ」
 哉絵が雄輝の後ろ頭を叩いて無駄口を止めた。
「本日は、我々の都市救済計画『プロジェクト・ライラ』の実験を実施する。手順は昨日のプレテストでやった通りだが各々再確認をしておいてくれ。
 さて――『ライラ』は知っての通り、不老不死を作り出すための計画だ。不老不死――即ち情報の永遠の固定、〝発散〟を食い止める概念。
 僕一人で研究していたが、天宮と空宮に危険視され、失効テクノロジー認定が下されそうになったところを救ってくれた理生と悠灯先輩には感謝してもしきれない。ありがとう」
 眞言が頭を下げる。
「頭を上げてください、眞言。むしろ感謝しているのはこちらなんですから。私たちだけでは悠灯も都市も救うことは決して出来なかった」
 理生がとりなし、順にメンバーの顔を見渡す。
「そしてもちろん、魂魄制御技術の各分野でのプロフェッショナルである皆さんの協力なしには今日この日に辿り着くことはなかったでしょう」
「ま、俺はオマケみたいなもんだけどな。大学の席次もみんなと違って真ん中以下だし」
 雄輝が肩を竦める。理生はそんな雄輝を揶揄するような調子で、
「あなたの成績が悪かったのは授業をサボっていたからでしょう。それに、天宮家当主の私より予算の折衝が上手くて、外部組織とのパイプが太い人にそんなことを言われましてもね……。
 ついでですからこの場で発表してしまいますが、公社の役員会議の結果、次期情報部の長はあなたに決まりましたよ、雄輝。おめでとうございます」
 おお、と周囲はどよめく。当の雄輝は「ついでかよ!」と不満そうに叫ぶが嬉しそうだった。
 終始和やかな雰囲気。だがそれを眺める護留と悠理は不穏の気配を嗅ぎとっていた。今まで薄っすらとした笑みだけを浮かべ、一言も口を挟まない女性――花束から。
・――……この先を見ましょう、護留さん。母が――いえ花束さんが何をするのか、確かめなければいけません――・
・――ああ、だけどどうやって切り替えればいいんだ、これ――・
・――阿頼耶識層に格納された記録の世界なんですから、たぶん二人で強く願えばいいと思います――・
・――願いか。まあやってみるか――・
(阿頼耶識層への別個データへのアクセス要求を確認……承認)
周囲の景色が捲り上がる。だが幻は続くようで、その下から別の場面が立ち現れた。
・――本当に変わるんだな――・
 護留の呟きは叫び声にかき消された。
「――何が起こった!? 第壱実験室の様子はどうなっている!」
 眞言だ。ありとあらゆる警報装置が明滅し、室内を染める。大量のモニターが並ぶ、管制室のような場所だった。
『第一級アラート。研究部第壱実験室にて、クラスAAAのソウルハザードが進行中。研究棟への全通路の緊急封鎖完了。自動滅菌・鎮魂処理が正常に終了しなかった恐れがあるため、現在入退室を無制限に禁止しています。繰り返します』
「実験室でチャンバー内監視をしていた花束は何をしていたの!? 全ての数値が反転してる! これだと不老不死の反対、永遠の死と全ての解体――〝発散〟が起こる……!
 悠灯先輩が……消えちゃう!」
 哉絵の悲鳴。
「緊急停止コマンド!」
「駄目、受け付けない! 通信も途絶したままで……」
「二人とも落ち着け! このフロアの隔壁封鎖は解除した。実験室のやつは最終防壁だから権限A以上の認証コードが二人分いる! 眞言、来い!」
 雄輝が声をかけ、部屋を飛び出す。眞言と哉絵もそれに続いた。
・――これは……この場面は実験失敗直後ですか――・
・――そうみたいだな。でも花束はこの時第壱実験室にはいなかったはずだ――・
 二人は管制室から外に出る。先ほどまでけたたましく鳴り響いていた廊下の警報は止まり、非常灯のオレンジの光と静寂に染められていた。
 そこに彼女はいた。
 壁に背をもたれさせ、涙と鼻水で汚れた顔。ブツブツと何事かを呟き続けている。
「やってやったやってやったやってやった。ざ、ざまあみろ。そ、空宮の売女なんて理生先輩には相応しくないんだそうだあいつが来なければわた、私が天宮夫人だったんだからここ子供まで作りやがってケッケケケッ権利を取り取り戻すだけなんだからそうなんだから……」
 狂的な呟きとは対照的に、顔はどこまでも青褪め――かなしみに歪み。泣いていた。
「それにそれにそれに私は悪くない私は悪くない。失敗を知らせなかっただけなんだからみんなの準備が甘かったのが悪いんだから私は悪くない私は悪くない私は悪くない――!」
 悠理は口を開こうとして、閉ざし。
 震える拳を握り締めて、開き。
 睨もうとして、目を逸し。
 耳を塞ごうとして、やめ。
 泣こうとして、苦笑し。
 様々な感情の波がお互いを打ち消しあった、平坦な声で、ただ一言だけ漏らした。
・――かわいそうな人……――・
 曲がりなりにも、花束は悠理にとっては母親として10年間接してきた相手だ。顔を幻で初めて見る母親と――それを殺した育ての親の様を見た彼女に、なんと声をかければいいのだろう。
 護留の逡巡している時間は短かったが、悠理はその間に感情の整理をつけたようだった。
・――その――大丈夫か、悠理――・
 ほとんど意味のない質問を投げかける護留に悠理は頷く。
・――ええ。五年前に、私は既に両親を敵として認め、生きてきましたから。ただ――哀れみしか浮かびません――・
・――君は強いな……――・
「ここにいましたか、花束さん」
 いつの間にか悠理と護留の間に割って入るような場所に、理生が立っていた。
 悠理が息を呑む気配が伝わってきた。護留も戦慄している。何故なら理生の手には――
「――あ。り、理生先輩……!?」
「私と、悠灯さんの子供です。あなたには――責任を持って育てていただきたいですね」
 光り輝く嬰児〈みどりご〉が、抱かれていた。
「ひっ――!? ひいいいいいいいいいいいいいい!」
 花束の絶叫がを無視して、理生は愛おしそうに赤子を抱き直した。

(続く)

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