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悟りとは何かを説明できますか?

悟りの定義と四向四果

仏教公伝から約1500年。日本に仏教文化が根付いて久しいのに、その最終目標である悟りとは何かと聞かれても、殆どの人は答えられません。

しかし、悟りには無我の体験という明確な定義があり、それは釈迦世尊自らが定めたという事も分かっています。つまり、仏教徒が悟りの定義を知らないのは単なる勉強不足であり、恥ずかしい事なのです。

無我の体験には四段階あって、段階ごとに体験の内容が異なります。釈迦世尊は、その段階(階梯)を四向四果と名付けました。いわゆる光明体験や、ワンネス、ノンデュアリティなどは、四向四果で言う不還果(ふげんか)阿羅漢果(あらかんか)に悟った人が語る内容です。


阿羅漢果の覚者は自我を喪失しているので、悟りについて聞かれても悟る者は居ないとか、悟りは無いと説きます。不還果の覚者はノンデュアリティ(一如)を垣間見ていますが、まだ自我を喪失するまでには至っていません。

阿羅漢果・不還果に悟る前の一来果(いちらいか)預流果(よるか)の覚者は、一如の世界を垣間見てはいないものの、あらゆる物事に実体は無く諸法は無我であると見極めています。

預流果や一来果の覚者は、不還果や阿羅漢果の覚者と比較すると、境地や、智慧や、人間性に未熟な部分があるのは否めません。しかし、曲がりなりにも悟っているので、一般人には絶対に不可能な仏教経典の解読や、悟りの世界について語る事が出来ます。



ネット上での結集

インターネットの普及により、誰でも簡単に他人の悟りの体験談を見る事が出来るようになりました。某掲示板の全盛期には、悟り関連のスレッドで喧々囂々の議論が交わされた事もありました。

しかし、某掲示板ではマトモな議論は出来ないので、次第にSNSやブログが対話の最前線になっていきました。でも、スピ系や悟り系のアンチが増えた現在では、SNSで悟りの議論をする人は居なくなりました。

最近は時代の流れでYou Tubeやnoteを利用する覚者が増えているようですが、覚者側からの一方的な発信だけでは議論が深まる事は無いでしょう。


総じて日本人は議論が下手なので、こういう流れになるのは仕方が無いのかも知れませんが、個人的には「折角のインターネットがもったいないなぁ・・・」と思うのです。

何故、もったいないのかと言いますと、某掲示板の悟り関連のスレッドには、預流果や一来果の覚者が何人か居たからです。実はこれって、かなり凄い事だったんですよ。

不還果や阿羅漢果の覚者の話は魅力的なので、ソロでもコラボでも人を集められます。実際、阿部敏郎さんや大和田菜穂さんのセッションは大人気ですし、だからこそノンデュアリティという言葉が広く認知されたのです。


でも、預流果や一来果の覚者の話には魅力が無いので、人を集められません。人を集められなければ、無名の覚者同士が出会ったり、コラボをする事も出来ません。

今となっては知名度の高い覚者同士のコラボなんて珍しくもありませんが、インターネットの黎明期に預流果や一来果の覚者が結集し、話し合う機会があったのは、個人的には歴史的な出来事だったと思っています。

そういった場所が自然発生する事は滅多に無いので、改めて預流果や一来果の覚者を集めて話を聞こうと思ったら誰かが音頭を取る必要がありますが、その音頭を取るのは並大抵の事ではありません。



初歩の悟りの問題点

預流果や一来果の覚者に魅力が無いのは、まだ煩悩とカルマが残っているからです。だから阿部さんや大和田さんのようなカラッとした所が無く、悪い意味で人間臭いのです。

また、困った事に預流果や一来果についての情報は非常に少なく、残った煩悩とカルマを克服する為の方法論も伝わっていません。自力では無理だから何処かで改めて修行したいと思っても、適切な指導を受けられる場所は存在しません。

最大の問題点は、預流果や一来果に悟ると自身の問題は全て解決済みで、殆ど苦しんでいないという所にあります。覚者と言えども苦しくないと動かないという所は一般人と変わらないので、殆どの人はそこで小さく纏まってしまいます。


小さく纏まってしまった覚者は、自分の体験を独自な言語表現で語り始めます。阿羅漢果に悟った人なら、ジッドゥ・クリシュナムルティのように他者を魅了する造語を生み出す事も出来ますが、残念ながら預流果や一来果程度の悟りでは、他人の心に響く言葉を発する事は出来ません。

その為、一般人はおろか他の覚者からも理解を得られず孤立してしまうのですが、困った事に覚者は孤立を恐れないし、孤独で苦しんだりもしないので、悠然と孤高の人生を歩み始めます。

この手の覚者達は、昔は利他行や説法に関心の無い聖者(辟支仏)となり、人知れず世を去るしかありませんでした。しかし、インターネットの発達により匿名のまま、他の覚者と情報交換をする事が出来る時代になったのです。


その際に問題になるのが、小さく纏まってしまった覚者に特有の、独自な言語表現です。要するに、共通言語や統一規格が無いのと同じで、お互いに何を言っているのか分からないし、話も噛み合わないんですよ。

その厄介な独自の言語表現も、良く嚙み締める時間と根気があれば、大抵は理解する事が出来ます。何せ、お互いに指し示そうとしている所は同じですから。

でも、相手の方に相互理解の意志が無ければ、最悪ケンカ別れする羽目になります。クリシュナムルティとOSHOがお互いを批判し合っていた事は良く知られていますし、私自身も他の覚者と相互理解に至らなかった事が何度もあります。



悟りを開いた人達参加のこれから

仏典には、預流果に悟った者は七度の輪廻転生の果てに阿羅漢果に悟り、一来果ではもう一度人間に生まれると事になると記されていますが、これは問題点を自覚するのが難しく、同じ所で足踏みをするという意味です。

「苦しくないなら良いではないか」と考える人も居るかも知れませんが、この場合の足踏みは調子こいて天狗になるという事なので、ちっとも良い事ではありません。

天狗とは、元は傲慢な修験僧(山伏)を指す言葉でしたが、やがて山の妖怪と同一視されるようになり、傲慢な修験僧は死後に天狗道(てんぐどう)に生まれ変わると考えられるようになりました。


この天狗の逸話が、無師独悟で初歩の悟りに至った人の余生に、奇妙なまでに符合するのです。


悟った人は、誰よりも深く悟りについての勉強をする必要があります。何故なら悟りの勉強をしなかった覚者はその見識の狭さから傲慢になり、自分こそが本物で他は全て偽物だと思い込むようになるからです。

その勉強も宗教宗派を超えてスピリチュアルやオカルトの領域まで手を伸ばさなければ、小さく纏まってしまった覚者に特有の、独自な言語表現を理解するまでには至りません。

つまり勉強が足らないと、初歩の悟りに達した本物の覚者を、偽物と誤解してしまうのです。それは同士や後継者足り得る人物を自ら切り捨てるのと同じであり、極めて愚かで罪深い事です。


初歩の悟りである預流果に悟った覚者は、最も一般人に近い覚者でもあります。故に、預流果の覚者を集めて研究すれば、一般人を悟りに導く為の方法論を確立する事が出来るかも知れません。

そしてそれはインターネットをフル活用しなければ不可能な事ですし、その為に四向四果の概念をもっと広く認知させる必要もあります。

現状では「初歩の悟りに達した」と言おうものなら、大悟見性しか認めない一部の禅者や、上座部仏教の関係者が猛批判してきます。その為、社会的な感覚を持つ覚者は、敢えて悟りについて語ろうとはしません。


なので、私は自サイトで悟りの体験談を記事として公開し、他者の悟りの体験談を募集しました。幸運にも複数の覚者の目に留まり、体験談を投稿していただく事が出来ました。

投稿していただいた悟りの体験談は、どれも完全オリジナルであり、二つと無い貴重なものばかりです。その中の一つは私自身の体験談ですが、自分の話を出さずに他人にお願いする訳にはいかないので、こればかりは仕方がありません。

おかげで、預流果や一来果に悟った時の無我の体験という、大変レアな体験談を集める事が出来ました。寄稿していただいた方々には、本当に感謝しかありません。


研究というものは、必ずしも自分の代で結果が出るとは限りませんし、インターネットの時代にしても、まだ始まったばかりです。

私が集めた悟りの体験談が、他の研究者の目に留まって何らかの成果を生んでくれるか、はたまた何にも繋がらず徒労に終わるかは私にも分かりません。

ただ、今の所は一人でも多くの方に「こんな悟り方もあるんだなぁ」と思っていただければ、それで良いと思っています。


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