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アイドルと日々(タイムカプセル)


“強い光は影を焦げつかせて冷えた 愛から冷めるように”…… 

大好きな曲の歌詞にこんなフレーズがある。
これは恋の歌ではない。だから、この詩の中の“愛が冷める”というのは、すべてが一瞬で消え去っていってしまうことの“虚しさ”の例えだろう。

この歌の中で、愛が冷めてしまうということは、これまで生きて積み重ねてきたすべてが、一瞬で消えてしまうことと同じくらいとてつもなく恐ろしいのだ。


愛から冷めたら何もなくなってしまう。
ときめきや恋する気持ちを失くしたら、まるで生きる屍だ。


私の毎日はやりたいことであふれている。
痩せてきれいになりたいし、韓国語をもっと知りたいし、自分のスキルも磨きたい。
大好きなアイドルたちの動画はどれも逃さず最初から最後までぜんぶ観たいし、映画やドラマや小説も読みたい。友達と新しいカフェに行きたいし、食べたことのない料理を色んな場所で食べたい。
どう考えたって1日24時間じゃ足りなくて毎日ときめくことに忙しい。

だけどときどき、“何もない”という状態がやってくるのだ。

未来のことを漠然と不安に思ったり、大好きなはずのものがそれほど楽しくなかったり、いつでも物欲にまみれている私なのに、何にも欲しいと思わない…。
その代わり、欲望が薄いからか腹が立つこともそれほどないし、特に嫌なこともなく、ただただ全ては静かに穏やかに過ぎていく…。
だけどはっきり言って、そんな毎日はくそほどつまらないのだ。


圧倒的に何かが足りない。

理由はとても簡単だ。
私がつまらない時はゆんぎをみてもドキドキしない時だ。
現実の世界がそこそこ充実していてもそれとこれとは別問題だ。
好きなものはたくさんあるし、同じくらい大きなときめきをくれるアイドルは他にもたくさんいるけれど、それも違う。それだけじゃダメだ。
ぼうだんしょうねんだんがときめきをくれなくちゃ何にも楽しくない。
ゆんぎを大好きな私でなくちゃ、くそほどつまらない女になった気分だ。


この感じは初めてじゃないから少し離れていたら、またふとした拍子に感情のスイッチが入ることはわかっている。冷めた気持ちでいる時でさえ、セルカ一枚で悔しくも「かわいい…!!!!!」と条件反射のように噛み締めてしまうからやっかいだ。


そんな時、
はてなブログから「一年前のブログを振り返りませんか?」という内容のメールが届いた。

その日記を開いておどろいた…
一年前の9月の私は“誰かを好きになる時、どうやってその人を好きになるの?”などと書き殴っていたのだった。
しかも、おそらく匂わせ騒動の真っ只中で、私が好きになったあの日の彼といまの彼は同じ人なのだろうか?……などということを考えていたようだ。

おそろしいことに、きっと2019年の9月、同じようなことを考えていた人が、きっといたに違いないだろう。

かわいいかわいい私たちの黄金マンネ。人見知りで憧れのIUちゃんの目も見れなくて芸能人の友達が少なかったジョングクくん。
そんな彼に熱愛騒動という“デマ”が起きた。
熱愛がまっかな嘘であったとしても何かざわざわとしてしまうのは、彼の友人たちが、あまりにもこれまでのグクのイメージとは別世界にいる人たちに見えたからだろう。
チャラい髪型もへんてこなヘナも、ぜんぶこの人たちの影響なのか…と思ったら、すんなり受け入れることなんて出来ない。
これはジミンくんの時にも思ったことだけど、気にならないという人は“気にならない私”をアピールして、傷ついているファンの子たちを“愚かな考えの足りない人”に仕立てあげないでいてほしい。
タグを作って騒ぐ必要性はまったく分からないけど、悲しみにフタをする権利なんて誰にもない。
そして人は平等だから、そのどちら側の行動に対しても私がこうしろああしろなどと意見を言うことも本当にくだらないし、誰かの行動に口出しできるほど誰も偉くはない。
それはまた、グクに対してもそうだろう。
彼がどこで何をしようと私たちにはこちら側の理想を強制することなんて出来ないのだ。

でも……
お正月には、幼稚園の頃からの幼馴染と同じ島へ旅行に行っていたかわいい男の子は、いつのまにか手に入れた大人の色気を振りまきながら、同じ島?!となるほどに世界が違う場所で目撃された。
だから、アイドルって偶像だったんだ…とか、去年の私のように、もしかして私が好きな彼とほんとうの彼が、まったく違う人だったらどうしよう…などと余計な考えをめぐらせてしまっても仕方がないのではないだろうか。
そして、もしそれが受け入れられないのなら、そっと離れるしかないのだと思う。
愛が冷めてしまうことが、どれほど恐ろしく虚しいことでも、人を変えることは出来ないから。自分が変われないのなら傷つける前に静かに去ることしか、私たちの持つことのできる選択肢はないのだろう。


話が逸れてしまったけれど、

いまの私なら一年前の私に言ってあげられる。
「その憂鬱は、きっとぜんぶ季節のせいだよ」と。

そのうちすっかり、大好きな人をまた出会った時と同じ温度で愛せるよ。

確かにゆんぎは大人になったのかもしれないけど、同時にとても素直でかわいい一面をたくさん見せてくれるようになったし、はじめから何も変わってなんかいなくて、変わったように見せているのは彼らを取り巻く環境の変化や増え過ぎたファンダムのたくさんの感情だったり、消えない夏の暑さに疲れた私の気分の問題だから、涼しくなれば、すべて何もなかったかのように、すっかり忘れてしまうよ。

そんな言葉をかけてあげたい。



そしてあの日の私もまた、未来の私に再び訪れた、このつまらない季節に落としどころをくれた。

“どんなに違う人になっても、好きでいられるだろうか?
今はまだ、ちょっと微笑まれただけできゅんきゅんしてしまうから、大好きな人が今日も元気にいてくれることがうれしい”

そんなことを考えていたなんて、すっかり忘れていたけれど、大好きな人が今日を元気に生きている。
それはとてつもなくすごいことだ。

私は強欲だから、好きな人がどこで誰と何をしていてもいいなんて思えないけれど、それが大好きな人のしたい事なら、例え私を傷つけることだって100歩譲って許すだろう。
だって今はまだ、ちょっと微笑まれただけで、どうしようもなく好きだから。
夏が終わり季節が巡れば、また何事もなかったようにときめくのだから。

私の気まぐれな小さな愛が、ずっとずっと冷めないように。どこかの優しい誰かの愛が、どうかまだ冷めないように…
秋の匂いの風が吹いたなら、すぎゆく夏の憂鬱をどうか遠くにつれていってと任せてしまおう。





※冒頭の詩
「ポロメリア」より(https://youtu.be/D95ruvdmZNE


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