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東海道NOW&THEN 30 「浜松」

見付から浜松まで4里7町。約16.5km。

 天竜川を越えた所に「舟橋・木橋跡」。舟での渡しが橋にとってかわられた跡だ。しばらく行くと左に「南無妙法蓮華経」の妙恩寺題目碑。三方ヶ原の戦いに敗れ、命からがら浜松へ逃げる家康が本堂の天井裏に隠れたという寺。そこから浜松宿の東口である外木戸東門跡までは約4km。

 広重の絵は正面に浜松城、そして刈り入れも終わり何もない冬の田畑。焚火に当たる男たちと旅人の姿が冬の寒さを感じさせる。この絵には浜松城ともうひとつランドマークが描かれている。中央右に小さく見える立札と松の木。「颯々(ざざんざ)の松」だ。古くから知られている浜松の名木の一つ。室町時代、将軍足利義教が富士見物の途次、この名木を見に浜松に立ち寄り、その松の下で宴を開いた。その時、興に乗り松に吹く風を「浜松の音はざざんざ」と謡ったことで、以来この名がついたという。
 写真は、浜松宿の東口である外木戸東門跡から少し入ったところ。写真では見えないが、中央のビルの向こうに浜松城。目の前の交差点を右折すると野口町、松があったとされる場所。「颯々の松」は現在、その道をさらに進んだところにある浜松八幡宮に移植されている。それらを考え合わせると、撮影した地点が絵の中央の木の場所あたりと推察。今は、「冬枯ノ図」とは無縁に思える都会の姿だ。
 
 浜松まで歩いた日は平たんな道ばかりで予想以上に距離がはかどり、歩数計を見ると約27km。ホテルに入り汗びっしょりの衣服をコインランドリーに突っ込み、バスタブにぬるい湯をたっぷり溜めて疲れ切った足腰を解放する。浜松といえば鰻。思い出すのは、三島で老舗の鰻を食べ損なったこと。三島の仇を浜松でとばかりに、さぁ、鰻だぁと町へ出る。
 駅前にある「八百徳本店」へ。まずは、肝焼きを頼み、生ビールを一気に。次に、う巻きと冷酒、おしんこ。東海道を歩いていて、幸せなひとときはまさに一日の終わりに飲むビール、あるいはお酒。冷酒のお代わりを頼み、〆にうな丼を肝吸い付きで。ほぼ鰻のフルコース。
 ホテルに戻りながらコンビニで缶ビールを購入。ベッドに入る前に缶ビール。そしてぐっすりzzzzz。東海道中の宿泊は、毎回こんな調子なのです(飲み過ぎと叱られますが)。

 浜松の西木戸を出て、ほどなくして国道に合流。1時間と少しで「麦飯長者跡」の立札。街道で仕事する馬方が、ある日、僧侶を乗せた。僧侶が馬を下りた後、鞍に風呂敷包みの忘れ物。中には100両の小判。僧侶に返そうと探し回ったが見つからず。それから時がたち、30年ほどたったある日、偶然その僧侶が通りかかる。手を付けずにとっておいた金を返そうとするが、僧侶は受け取らず馬方に預けたまま去った。それを馬方は金を人のために役立てろということだと解釈、旅人に無料で茶や麦飯を振る舞うことにした。それが評判となり、いつしか馬方は「麦飯長者」と呼ばれるようになったのだとか。20「府中」でも書いた、「安倍川義夫」に似た正直者の話。

 江戸から67番目の篠原の一里塚まで、麦飯長者跡から約2km。そこから次の舞坂宿の東見附まで約4km。

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