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東海道NOW&THEN 47 「亀山」

庄野から亀山まで2里。約7.9km。

 庄野の「女人堤防の碑」から10分ほどで、亀山藩領界石。そこから能褒野(のぼの)神社の二の鳥居までさらに10分。この神社には日本武尊の墓とされる古墳がある。鳥居から神社までは、東海道を右折して北へ約3km。東海道は、鳥居から亀山宿の江戸口まで約1時間半。

 広重の絵は、右上隅に亀山宿の京口門を描いている。雪の中を門へ向かって行列が上って行く。亀山宿は江戸口と京口の東西どちらにも門を構えていた。東海道通行の番所としてではなく、役割としては亀山城惣構の城門だった。その京口門も、今は取り壊されて存在しない。門へは川に沿って絵のように坂道を上ったのだが、その川に橋が架けられたため、現在は普通の道路となっている。写真は、その京口門があった場所。見るとわかるように、当時の姿は想像もできない。中央にある、白く四角く見える看板には「京口門跡」として、説明が書かれている。

 亀山藩領界石から日本武尊の石像が立つJR井田川駅前を過ぎて、和田の一里塚まで約1時間。その少し手前に「しゃんぐりさん」と呼ばれている小さな鳥居と社がある。東海道分間延絵図には「叉具神」と書かれているそうだ。街道を往来する旅人が持ち込む疫病から子どもたちを守るために祀られているのだとか。コロナの2年間を思い返せば、外から疫病が持ち込まれるという考えはうなずけるし、子どもを守れというのは先人の知恵というべきか。
 しゃんぐりさんから能褒野神社の鳥居前を通り、亀山宿の江戸口までは約40分。亀山宿に入ると、商家に限らずどの家の軒先にも「おときちや」「やまがたや」など、かつての屋号を書いた木札が掛けられている。「宿場のにぎわい復活プロジェクト」の一環なのだそうだ。

 宿内に入り、しばらく行くと亀山城大手門跡のそばに桝形があり、その先の交差点右手の坂の上に亀山城の石垣と櫓。広重の絵を彷彿させる眺めで、最初はこれが広重の…と思い写真を撮ったが、残念ながら違っていた。そこから広重の絵の京口門まではすぐ。
 京口門跡を出て30分ほど歩くと布気町落針地区に入る。すると「昼寝観音」の看板。もとは津にあった石山観音をここへ持ってきて「落針観音」と呼ばれていた。それがなぜ「昼寝観音」なのか。その昔、各地の観音たちが集まって西国三十三ヶ所の霊場を決める会合を開いたとき、この石山観音は昼寝をしていて会合に遅刻。それで三十三ヶ所に選ばれなかったとの言い伝え。以来、昼寝観音と呼ばれているそうだ。

 昼寝観音から次の関宿の入り口、「関の小萬のもたれ松跡」まで2.5km、約40分だ。

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