人間の精神の向上なくしては結局は何事も愚に帰するのでは、という命題について NO と言おう

執筆:ifname_chem

ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルは、自らの発明品が大量破壊兵器になると知っていたら、それを世に出しただろうか。出すときはどんな気持ちで出したろう。
枯葉剤を発明したアーサー・ガルストンはどうだろう。

これらについて彼等の気持ちになって考えたことが何度もある。高校生のときから現在の大学院生活に至るまで、何度も何度も。科学は、いつもこういう悲劇と隣り合わせだ。

戦争を終わらせるためにダイナマイトを創り、特許出願をして大富豪となったノーベルは、後に自分が「死の商人」と呼ばれていることを知り、ノーベル賞を設立するに至った。
大豆の開花を早めるホルモンを合成したはずだったガルストンは、これを戦争に利用されたことを悔やみ、使用禁止のロビー活動をつづけた。彼は The New York Times 紙にこう語っている。

『科学が成すことは必ずしも人類のためになるわけではない。あらゆる発見は善でも悪でもなく、結果は創造にも破壊にもなり得る。しかし、それは科学のせいではない』

その通りだ。どんなイノベーションも、人間の未熟な精神のもとには愚の結果を生んでしまう。でも、それは科学のせいではない。

さらに、以前の記事でも書いたが、イノベーションを語るとき、GO or STOP の議論は無意味である。なぜなら、すべての答えは GO だからだ。人間は探求することをやめられない。

つまり、科学は必ず進歩する。従って、分散台帳技術の発展の勢いもまた、誰が何と言おうと止められない。
しかし、だ。人間の未熟な精神のもとでは、一度分散化の歩みを進めた社会も、結局はまた集中し中央集権化する道を辿ってしまうのではないか。人間は欲深い。未熟で欲深い人間のもと、分散型社会が存続することなど可能なのだろうか。

問いは 2 つであろう。

──果たして人間の精神性の向上など可能なのだろうか?
──分散型社会が存続するためには、人間の精神性が向上する以外に道はないのか?

今回 ifname_chem 個人が筆を執ったのは、私自身が 18 歳以来、この問題について深く考えて生きてきたからだ。「指数関数的に発達しつづける科学技術に "見合った" 人間の精神性をどう獲得するか」という問いである。

本記事では、研究でこの問題に向き合おうと目論んだ私がある 2 つの仮設を導くまでに至った経緯について筆を執ることにした。これを話して何になるのか、と思うので今まで言外してこなかった葛藤遍歴であり、たしかにやはり書いて何になるのという感があるが、考えて何になるの、という感はないと思っている。発明する側だからこそ、頭の隅でこういうことは考えるべきだと思う。頭の中心で考えすぎて手を遅めてはいけないだけで。
考える、ということに重点を置いて共に葛藤していただくべく、敢えて体系や体裁を整えたり結論に徹しずに葛藤の時系列をそのままぐちゃぐちゃ記述してある。未熟な思考遍歴ではあるが、何卒おつき合い願いたい。

皆、同じ山を登っている

大学 2 年生の時、大学院で、量子力学を用いてある治療の研究をしようとしていた。治療法についての理論を確立した後に果たしたかった最終ゴールは、既に観測されている或る 2 つの波動をバシッと数式で記述することだった。

科学と精神性とは、対極に語られることが多い。精神性というと胡散臭く思えるかもしれないが、何も怪しいものではなく、宗教から普段私たちが営んでいる日常の幸福の追求まで幅広い。

その対極・対立構造は、しかし、絶対に間違っている。そもそも、科学のはじまりは、神の存在証明への挑戦と並走している。ニコラウス・コペルニクスが提案した地動説を支持し、天動説を斥けたガリレオ・ガリレイが、聖書の記述に背くといって宗教裁判にかけられたエピソードは有名であろう。当時の科学者たちは同時に神学者であることも多く「神の存在証明・神が創造した世界の解明をしようとしたら、神の否定・聖書の否定と取られてしまった」という悲劇が繰り返されている。以来、西欧的な世界において多くのシーンで、科学は神の敵であるように扱われてきた。当時、神は精神世界そのものであったから、今でもそれを引きずって、まるで科学と精神性とが対極にあるもののように扱われることは多い。

もう一度、それは間違っていると言おう。多くの産業や営みが「人間を幸福にすること」を目的としているように、科学技術も宗教も、幸福を追求・提供するために生まれたはずなのだ。
つまりそれらは皆、同じ山を登っている。登山のルートが違うから、今は見える景色がまるで違って互いが異質の存在に見えるけれども、頂上に登ってしまえば、見渡す広大な世界の景色は同様である。

葛藤

ここからが葛藤である。重複するがまとめると、新薬にしろクローン技術にしろ何でも、神秘的なブレイクスルーの先には大きな悪の愚行が危惧されるわけで、従って「この発明を人類は進めても良いのか?」という議論が必ず発生する。しかしイノベーションは GO の方向にしか進まないものなのでその議論は無駄で、どうしたら人間の精神を "良く" 保てるのか?というところを考えねばならない。でも、それは到底不可能なことのように思えて……

そのときは答えが見えなくて、或る 2 つ波の存在を数式として示すことで「精神を論ずることは非科学的なことではない。科学も精神世界も、同じ山を登っているんだ」ということを示したかった。

言葉でこれを説くことは、世界に対してあまりにも弱い。「科学的」な手法を用いて、一本の絶対的な数式により精神性を示すことで、誰にも否定できない証明が成せるように思えた。教授にプレゼンテーションをし、議論した。研究ができる環境を整えようとした。

しかしそれが叶ったとして、だ。できるのは「おい!科学と精神世界は同じ山を登っているんだぞ!それは人々の幸福じゃ!それぞれ反対側から登っているからお互いが見えていないだけで、頂上に登ったら見える景色は同じなじゃよ!」と叫ぶことだけだ。

でも現実を見ると、指数関数的な科学の発達にもかかわらず、人間の精神はおそらくもう何千年も前から成長していない。少なくとも 150 年前以降の科学は、未熟なままの精神の人間が手にするべきものではないと思っている。

証拠突き出して叫んだところで "実際的に何が変わる" のだろう、と思った。

だから私は、もう準備をするだけになっていたその研究に携わるのをやめた。基礎研究とは、一生かけてもできるかどうかわからない達成を追究するものだ。もし何十年後に達成できたとして、このメッセージを伝えて世界の何が実際的に変わるのか想像すると、短い人生の途方もない時間を費やす決心がつかなかった。

2 つの可能性

人間の愚の歴史は繰り返されている。とりわけ、大きな集団・社会システムのに所属する人間を考えた場合、何千年も変わらない人間の精神性を向上させるのは、やはり無理なのだろう。無理。これが 3 年生の晩夏、私が出した 1 つの結論だ。18 歳から考え続けて 4 年後に出した答えは「無理」今考えてみれば当たり前なのだが。

しかし、愚の結果に帰さぬよう進み得る可能性が 2 つあると思う。
この 2 つをもって、冒頭の
──果たして人間の精神性の向上など可能なのだろうか?
──分散型社会が存続するためには、人間の精神性が向上する以外に道はないのか?
という 2 つの問いに答えよう。

1 つが、もっと「日常に根付いた医療」を普及させて、活き活きとした肉体と精神の大元である健康を正すこと。人類としての精神性の向上は不可能でも、ひとりひとりが持っているものを最大化することはできる。そのためには、健康な肉体と健全な精神が必要不可欠というわけだ。健康な肉体に支えられた精神の健全性は、イノベーションの悪用だけでなく、思想の悪用、統率の悪用など、様々な愚行に対するとっておきの予防でもある。

もう 1 つが、いかに上手く「人間が介入不可能」な状態を作るのかということ。人間に任せれば、全体の善よりも個の欲が勝ることは目に見えているからだ。
スケールした分散台帳技術の土台の上に IoT デバイスが接続し、その上に AI が乗って世界を動かす時代はそう遠くない。

前回の記事
歴史は繰り返さない
誰もが愛や純粋な appreciation を通貨に変換し、手のひらに直接届けられる時代がやってくる
を読んでくださったかたなら尚お分かりだろうが、本記事の 2 つの仮設を同時に叶える可能性を持っているのが分散台帳技術だと思った。

おめめがきらきら👀✨した次第なのである。
第 1 回喫茶店会議が開かれてから 3 ヶ月ほど後のことであった。

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