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偏愛

なんかなぁ。くるしみってひつようやったんやな、と、今だから言えるので、言えるうちに言っておく。立ち止まってしまうくらい長いくるしみの中だったから、今まで注意を払わなかったものをしずかに見つめられたのだな、というお話を語る。

たとえば、すべての言葉が「君のことは自分にとって数のすくない友達だと思ってるよ。信頼してるよ。すきだよ」だったんだなと気づくことができた。会うのにハードルを感じる人なんてたぶん人生で二人だけだったのに、気づくことができたおかげさまで、ハードルがなくなったどころか、ことわりを入れずにいきなり電話がかけられるまでになった。

私が友達だと思っている人について「その人って本当に君の友達なの?」と言ったり、私の恋人について「好きじゃない」と言い放ったり、私について「君って破綻者だよね」と言い出したり、プラトンが著書で一度きり使ったマニアックな造語を前置きもなく投げてきたり、「小説は自分が作った物語ではないので手放しで賞賛できないんだ」と言った人の、そういったすべての言葉が。

まわりくどくなんかなかった。むしろ、すごく直通していた。「好きだよ」の密度をきゅきゅきゅっと詰めて詰めて差し出してくれていたんだなと気づくことができたのは、一対一のコミュニケーションだけの手柄ではない。
この気づきはひとつのたとえで、真実はもっと何人もの何回もの「好きだよ」の積み重ねだった。すなわち、この一年半が、いろいろな人々の「好きだよ」の密度の張りめぐらせ方を、つまり、一人の人間がセカイに対して・他人に対して・私に対して・彼/彼女自身に対して、それぞれどういう張り方をしているのかを、しずかに見つめた月日だったからだと思う。

人たらしの博愛と、慈愛に満ちた博愛との、明確なちがいを知った。

私自身を好いてくれながら無意識のうちに私を消費しようとしている人と、私自身を好いてくれながら無意識のうちに彼/彼女自身を差し出そうとしてくれている人との、明確なちがいを知った。

どんな君でも大好きだよという言葉が、「どんなボクでも愛してほしいから」という承認の飢え・承認の不安の上に咲いている人と、「もしも君に酷いことをされてから一方的に絶交までされたとしても、それでもボクは君が好きだよ」という更地の上に咲いている人との、明確なちがいを知った。

どちらの花もかけがえのなく、強くて儚い花だけれど。

前者と後者のちがいはシンプルで、愛の密度の張り方のちがい。たとえ広く張りめぐらせた博愛の羽衣にだってグラデーションがあるのだから、そういった意味で、すべての愛は偏愛で。一人の人間がセカイに対して・他人に対して・私に対して・彼/彼女自身に対して、それぞれどういう張り方をしているのかを、しずかに見つめていたように思う。今思うと。

私にとっていちばん密度の高い、かけがえのない人々。一息で言えるくらいの人数の、その人たち以外に対して、「愛の張られかた」についてはそれほど注目してこなかった。彼らがどういうグラデーションをかけて「好き」を口にしているのか、解像度をあげてしずかに見つめることは、今までなかったように思う。彼らの「好き」を求めていないから。
立ち止まってしまうくらい長いくるしみの中だったから、今まで注意を払わなかったものも目に入ったのだと思う。立ち止まって見る景色はすごくスロウで、求めていないものまでもが、いやでも目に入った。

これからも私の「好き」の意味は変わらない。でも人々に対する接し方のほうは、私の中では、たぶん何かが、変わる。ハタから見たら変わらないだろうけれど。

あと「気持ちいい空間」が、よりはっきりと分かったのは大きい。つまり、居心地のいい空気に対する認識の解像度が上がった。それは、居心地のわるい空気、息のしづらい雰囲気、疲れる空間について、明確に分かったから。

皮肉だよね。幸福の輪郭をくっきりと縁取るのは苦悶や苦闘で、好意の真実を強く照らし出すのは好意の歪みや悪意なんだから。

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