母なる海というのは、じつにただしい。

母ってなんて、温かく懐かしく優しく、そしてちょっぴり切ない存在なんだろう。

「海なる母」ではなく「母なる海」
母を海に例えたのではなく、絶対的な海という存在を例えるのに母を使ったのは、じつに正しい。

ふつう、愛は不確かなものだ。在る間は何よりも強い光になるのに、簡単に失くなってしまう。かといって、永遠の愛の薬が発明されたとして、それを誰かに飲ませたかとて、おそらく虚しくなってしまう。神が人間を不完全に創り、自由な意志を与えたのは、自らの創造によって唯一果たせないもの、そして最も欲しいものが愛だからだ、と紀元前の人々も言っている。

それなのに、こんなにも絶えることのない愛、こんなにも深い、絶対的な愛が母の愛だ。
本来愛というのは「絶対的」という言葉がそぐわないはずなのに、母の愛だけは失わない自信があるの。絶対。(もちろん父も)(人によってはここに神の愛が加わるのだろう)

いちばん近くにいるのに、いちばん心を返したいのに、私たち子どもは自分の足で歩いて、ある意味で母から遠ざかってゆく。いつのまにか母の前以外では子どもではなくなって、子どものまま、おとなになる。
母と同じ時代を、同じ時間を生きつづけることはできない。

お母さん。お父さん。いつもいつも、愛してくれていてありがとう。
私もいつもいつも、大好きなんだよ。

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月坂架 絃 (Ito Tsukisaka)

フィドル奏者、化学者、薬学者、物書きを称する東京大学学徒が、本郷の小さな喫茶店で綴る編著作。WHO WE ARE (https://note.mu/ifname_i/n/n50774dab8065)

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